(8) 大高ヨシヲは剣劇一座の座員?

さて、今回から大高ヨシヲの探索に復帰です。

その前にまず、前回までとり上げたプロデューサー鈴村と大高の関係を考えておきたいと思います。

結論から言うと、杉田劇場以前には鈴村と大高の間に深い関わりはなかったというのが僕の見立てです。というのも、大高が杉田劇場を訪れたのは1946(昭和21)年の2月ですから、開場から1か月後。もし鈴村と高田の関係のように、戦時中からの付き合いがあったならば、わざわざ大高から売り込むまでもなく、鈴村が声をかけただろうし、片山さんの証言にあるような「劇場幹部との話し合い」も必要なかったと思うからです。

むしろ、もし以前からの知り合いだったとしたら、大高の来訪と話し合いは

大高「おい、鈴村! テメー、なんでオレを使わねぇンだ!」 
鈴村「まあまあ、ヨシヲ、まずは落ち着けって」
大高「うるせぇ! これが落ち着いていられるか!」 

なんていう修羅場の様相を呈していたかもしれません(妄想です)。

そんなわけで、大高は飛び込みで杉田劇場に営業をかけたと推定されますが、以前にも書いた通り、なんの経験もない素人集団が劇場の専属劇団になることはまずないでしょうから、大高にはそれなりのキャリアがあったと考えるのが妥当です。大高ヨシヲの舞台経験、その痕跡を見つけ出せれば彼の経歴の手がかりがつかめるはずです。


大高ヨシヲが座長をつとめた「暁第一劇団」は、今でいう大衆演劇の劇団で、演目はいわゆる剣劇や軽演劇というジャンルに分類されるものです。つまり大高のキャリアを見つけるには、戦前・戦中の剣劇・軽演劇の公演情報(広告やパンフなど)を探ることが必須なワケです(見つかるかな)。

とはいえ、剣劇や軽演劇に詳しくない僕ですから、まず剣劇とは何か、軽演劇とは何か、どんな劇団があったのか、それを調べることからスタートしようと思います(やや頼りないところですが…)。

ということで、今回はまず剣劇について整理してみます(実は横浜と剣劇は意外と深い関係があるのですが、それは後述)。


さっそく、「剣劇」とは何か。

前にもリンクを貼った「コトバンク」から引用すると

“剣の魅力を売り物にした大衆向けの演劇。剣戟(けんげき)(刀剣をもって斬り合うこと)を剣劇と誤記したことから生まれた用語ともいわれる。俗称ちゃんばら劇。大正期に迫真的な殺陣(たて)を編み出して人気を得た沢田正二郎らの新国劇から1919年(大正8)に脱退した中田正造らが組織した新声劇が剣劇団の最初である。その後、明石潮(うしお)、田中介二、小川隆らの各一座をはじめ、全国各地に数多くの剣劇団が輩出、昭和期には梅沢昇(初代)、金井修らの一座が台頭、また女剣劇も派生した。しかし戦時色が濃厚になるにつれ、「やくざを正義者扱いする」「短時間に多くの人間を斬るのは荒唐無稽」などの理由で制約を受け、また戦後は女剣劇やストリップショーに人気を奪われて衰退した” 

ということになります。

(この解説は向井爽也さんという大衆演劇の研究者が執筆しています。向井さんには『日本の大衆演劇』(1962年刊)という労作があって大変助かっています)

つまり、要約すれば、剣劇とは「新国劇の派生形の、いわゆるチャンバラ劇」ということになります。

そして、実際にどんな劇団があったのか。
ネットを探っただけでも、ざっとこんな感じです(もちろんこのほかにもまだまだたくさんあります)。
  • 新声劇
  • 明石潮一座
  • 田中介二一座
  • 小川隆一座
  • 遠山満とその一党
  • 梅沢昇一座
  • 金井修一座
  • 剣星劇
  • 日吉良太郎一座
  • 新光劇聯盟
  • 伊村義雄一座
  • 筒井徳二郎一座
  • 第二新国劇
  • 鈴声劇
  • 近江二郎一座

引用文にもある通り、やがて剣劇を駆逐する勢いで、女優が勇ましい立ち回りをする「女剣劇」が流行し、戦前・戦中・戦後と隆盛を極めていきます。中でも一般によく知られているのが、浅香光代でしょう(ちなみに彼女も旧杉田劇場の舞台に立ったとされています)。

主な女剣劇の劇団には

  • 大江美智子一座
  • 不二洋子一座
  • 伏見澄子一座
  • 筑波澄子一座
  • 浅香光代一座
  • 中野弘子一座

などがあります。

大江美智子一座、不二洋子一座、伏見澄子一座を女剣劇三羽烏と言ったり、大江美智子一座、不二洋子一座、浅香光代一座、中野弘子一座を四巨頭と言ったりするそうですが、いずれにしてもこのあたりが女剣劇の代表格となります。

剣劇・女剣劇の劇団は主に浅草などを拠点としていたようですが、前述の通り、実は横浜とも浅からぬ縁があるのです。

仮に大高ヨシヲが横浜の人で(あり得ますよね?)、剣劇に関心があったとすると(あり得ますよね?)、地元に縁のある一座に所属していたか、少なくともなんらかの付き合いがあっただろうと推定できるわけです。

上記の中から、僕の調べた範囲で、横浜との深い縁を持つと思われるのは

  • 大江美智子一座(二代目)
  • 近江二郎一座
  • 梅沢昇一座
  • 日吉良太郎一座
の四座。
ひとつずつ詳細を整理しながら、大高との関係を探ってみます(もちろん想像と妄想を含みます)。

(1)大江美智子一座(二代目)

二代目大江美智子は足袋職人の娘として1919(大正8)年、南太田に生まれました。のちの住まいも南区永田町ですから、公演で全国を飛び回っていたとはいえ、性根は間違いなく生粋のハマっ子です。

戦前、末吉町の「横浜歌舞伎座」で見た初代大江美智子の舞台に魅せられ、親の反対を押し切って15歳で一座へ飛び込みます。ところが、入って5年目に初代が急死。興行主保良浅之助という人)の一声で抜擢され、20歳で二代目を襲名、初代にも劣らぬ人気でその後の一座を率いました。

華々しい芸歴に見えますが、1982年に出版された自伝や、横浜市女性センターの冊子『横浜に生きる女性たちの声の記録』(第二集)に収録されているインタビューなどを読むと、さんざんにいじめられた苦労話が滔々と述べられていますから、弱冠ハタチ、それも入座わずか5年での座長抜擢はなかなかしんどかっただろうなと、華やかな芸能生活の裏を垣間見るようで、ちょっと気の毒にもなるところです。

後述しますが、大江美智子と大高ヨシヲは同世代のように思われます。もしかしたらどこかで知られざる邂逅があったかもしれない、なんていうのは完全に肥大化した僕の妄想ですが、二人に何らかの接点があってもおかしくはありません。

(2)近江二郎一座と梅沢昇一座

一方の剣劇では、近江二郎劇団が弘明寺・銀星座の開場披露公演に出演していたほか、杉田劇場でも興行していることがわかっています。近江二郎はもともと関西が拠点のようですが、この頃は関東で活動していたのでしょう。浅草などでの出演記録も残っています。

全国的に活躍していた梅沢昇は、戦後、人気に翳りが出てきたのを挽回しようと、やはり弘明寺に専用劇場(梅沢劇場)を建てて、再起を図ったそうです。実際、昭和30年代の地図を見ると、ちょうど京急弘明寺駅の上大岡寄りにあるトンネルの傍に「演芸場 梅沢劇場」の文字が見えます(佐本政治著『かべす』(1966)には「売りに出ていたキャバレーを手に入れて改装」との記述があります)

どちらも横浜、それも南区や磯子区に縁がありそうです。

もっとも近江二郎は広島、梅沢昇は福岡出身ですから(いずれも1892(明治25)年生まれ)、ハマっ子・大江美智子ほどの地縁はありません。ただ、戦前から横浜でも興行していたようなので、剣劇好きには憧れの存在、大高がそれを見ていた可能性は低くありません。

余談ですが、僕はこの梅沢劇場の詳細をごく最近まで知りませんでした。周囲の演劇関係者からも聞いたことがありません。ただ、この劇場で横浜のアマチュア劇団・葡萄座が一度だけ公演をした記録があるのです(1955年7月30日〜31日、第27回公演・10周年記念公演『王将』)。
梅沢昇一座は1956(昭和31)年に解散したものの、劇場自体は1958(昭和33)年まで続いたそうですが、その後はすっかり忘れられてしまったのでしょうか。地図で見るとそれなりの規模の小屋なのに、ちょっとさびしい話です(跡地はマンションになっています)。

南区明細地図 昭和35年版より
(劇場の左(裏手)は京急線 弘明寺-上大岡間のトンネル / 上が横浜方面)

ちなみに梅沢昇はあの梅沢富美男のお父さん(梅沢清)の師匠にあたる人なんだそうです(→梅沢富美男チャンネル)。そういう人が戦後の弘明寺で芝居をしていたかと思うと、感慨深いものがありますね。

(横浜市立図書館のデジタルアーカイブに「地域の写真をさがす」というページがあります。「南区」の「戦災復興期:1941-1964」を選択して検索すると、3ページ目くらいに「弘明寺町234番地のキャバレー」という不思議な写真が出てきます。梅沢劇場の地番はまさに弘明寺町234。この写真のキャバレーを改装して劇場にしたということでしょう(『かべす』の記述が裏付けられました)。写真の中で米兵らしき人たちと一緒に写っているのは、キャバレーで営業(公演)していた女剣劇の役者たちじゃないかなと思います。どこの劇団かはわからないけど)

(3)日吉良太郎一座

日吉良太郎(1887(明治20)年、岐阜生まれ)という人は少し謎の多い人物です。彼も戦前・戦中は全国的に有名だったようで、東宝が経営する大劇場、江東劇場(キャパ1,500)の開館記念興行をやっているくらいですから、かなりなビッグネームの一座だったろうと想像できます。ところが、ネット上には具体的な公演記録がほぼ見当たりませんし(早大演劇博物館の上演記録データベースを検索しても1件しかない)、ウィキペディアには「日吉良太郎」の項目すらありません(どういうこと?)。

ですが、調べた範囲だけでも、日吉良太郎と横浜との縁がかなり深いことはわかります。伊勢佐木町四丁目の「敷島座」で9ヶ月、末吉町の「横浜歌舞伎座」では6年半にわたって、ほとんど座付劇団と言っていいような活動をしていたようですし(「はまれぽ」のこちらの記事に横浜歌舞伎座のことが詳しく書かれています)日吉自身の住まいが井土ヶ谷中町だったとの記録もありますので、この一座は基本的に横浜を拠点としていたと考えて間違いはないでしょう。

それだけ人気の高かった日吉良太郎一座ですが、終戦とともに活動場所を失い、まもなく解散となったそうです。戦時中は戦意高揚的な愛国劇をさかんにやっていたらしいので、戦犯問題やら何やらがあったのでしょうか。詳しいことはわかりません。

横浜の演劇史研究家・小柴俊雄氏の『横浜演劇百四十年 −ヨコハマ芸能外伝』によれば、弘明寺・銀星座にできた専属劇団「自由劇団」の座員のうち、何人かは日吉一座にいた人だそうです。となると、杉田の大高ヨシヲ一座の面々が日吉良太郎のところにいたという可能性も…あり得ない話ではありません。日吉一座が解散して、一派は大高の下で杉田に、もう一派は銀星座に…ふむ、なんとなくこのあたりが一番アヤシイような気がしてきました。

とはいえ、どの劇団にも大高との関わりの可能性が見え隠れします。

ふむふむ。

大高ヨシヲの葬儀後の写真に写っている、子息と思われる少年の年恰好からして、亡くなった時の大高の年齢は30代から40代と推定しています(二代目大江美智子とほぼ同世代と考えられます)。早い舞台デビューで15歳からとして、逆算すると大正の終わりから昭和初期に彼のキャリアがスタートしたと考えるのが妥当でしょう。

この先は、横浜に関わりのある大江美智子一座、近江二郎一座、梅沢昇一座、日吉良太郎一座に絞って、彼らの昭和初期の公演情報の中に大高ヨシヲの手がかりを探します。

はたして、大高ヨシヲはどこかの剣劇一座に所属していたのでしょうか?

調査は続きます。

次回は軽演劇と大高一座の関係を整理してみたいと思います。

→つづく

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