美空ひばりの舞台デビューについては諸説あって、なかなか確定しないところでしたが、横浜の演劇研究家、小柴俊雄さんなどの精緻な調査で、ひとまず昭和21年4月10日の新聞広告をもって、この頃がデビューであろうというのが地元の郷土史家などの間で定説になっています(こちらの記事でも)。
1946(昭和21)年4月10日付神奈川新聞より |
でも、ややこしい性格の僕には、それでも気になるところがいくつかあって、なかなか腑に落ちないので困ります。
気になる点の第一は、片山さんの証言にある、3月中旬にひばり親子が杉田劇場を訪れて出演交渉をしたという話です。
証言では「3月中旬から2週間、加藤和枝は「織帳の前」で唄った」とされ、それが大高一座の幕間ということになっていますが、大高一座の3月興行の記録がないのではっきりしません。残念ながら3月の杉田劇場の新聞広告は、松本榮三郎と坂本武の実演のほかは見当たらないので、それを確認する術がないのです…
1946(昭和21)年3月23日付読売新聞より |
それにしたところで、上掲の広告のように3月23日には坂本武・松本榮三郎の公演が「上演中」となっているし、その前々日、3月21日の広告でも「上演中」となっているので、「3月中旬から2週間」大高一座の幕間で唄ったというのがどうにも腑に落ちないのです(3月21日の広告には「松竹大船スター坂本武実演」とあり、「松本榮三郎一座に加盟出演」となっているので、この時期に大高一座の興行があったとは考えにくい)。
そんな中、またぞろ『演劇界』のバックナンバーを調べていたら、1997年2月号に掲載されている「星霜抄」澤村鐵之助の項の第二回にこんなことが書かれていたのです。
"で、戦後二十歳くらいだったかしら、市川門三郎さんのところへ私顔を出して、何か(舞台へ)出してくれって頼んで(中略)門三郎さんは杉田劇場へ出ていて、お弓(どんどろ)や与三郎や朝顔をなさって(中略)美空ひばりがね、出ていたのよ。芝居と芝居の間にうす汚れたドレスを着て、『マリネラ』を唄っていたわ"
記憶にもとづく話ですから、はっきりしないところがありますが、ここに挙げられている演目、どんどろ(傾城阿波鳴門)、与三郎(与話情浮名横櫛)、朝顔(生写朝顔日記)の杉田劇場での門三郎一座による上演は、新聞広告に載っている限りで言えば
傾城阿波鳴門 昭和22年5月11日頃〜与話情浮名横櫛 昭和21年6月1日〜生写朝顔日記 昭和21年8月9日〜
が最初です。
仮に言及されている演目の時に美空ひばりが出たというなら、いずれの興行も記録のある大高一座でのデビュー(4月9日)よりずっと後になりますから、デビュー日の特定には大きな影響はありません(ちなみに唄っていたという『マリネラ』はこんな曲)。
澤村鐡之助は昭和5年生まれだそうなので、引用文にある「二十歳くらいだったかしら」をそのまま受け取れば昭和25年になりますが、杉田劇場はすでに斜陽で経営が苦しく、美空ひばりも全国的な知名度を得ていた頃なので、時期としてはもっと早いと考えられます。
鐡之助自身、学校を出て磯子区役所金沢出張所に勤めていた頃に門三郎のもとを訪ねたそうですから、昭和21年から22年くらいではないかと思われます。そもそも金沢区が磯子区から分区したのが昭和23年5月なので、それ以前であることは間違いありません。
引用文のうち「出ていたのよ。芝居と芝居の間に」が、誰の何の芝居を指しているのかがわからないので困ります。門三郎一座に顔を出した頃に大高一座の舞台に出ていたひばりを見た、とも受け取れますが、素直に文脈通りに読めば門三郎一座の芝居の間に出たとする方が自然です。
以前にも書いたように、1月から3月末までの広告のない時期に門三郎一座が杉田劇場に出ていた可能性は高いので、その時、ひばりが出ていた可能性も同時に高まります。
『演劇界』の記事は、前段に同じ内容で
"私は門三郎さん(のちの白蔵)の一座に顔を出して、何の役でもいいから出して下さいと頼んだのです。すると澤村長十郎さんが阿古屋をしていらして、誰か後見がいないかしら、ってあたしがやらされました"
とあります。これが鐵之助の門三郎一座との最初の関わりだというのです。
『阿古屋』も昭和21年の門三郎一座の広告には出てきません。記憶にもとづく話とはいえ、自身の初舞台についてですから、さすがに演目を間違えるようなことはないと思います。
なので、1月から3月の間に、門三郎一座が杉田劇場で『阿古屋』を含む興行をしていたのではないかと推測されるのです。
その時に美空ひばりが出ていたとなると、片山さんの証言とは異なり、大高一座の幕間より前に、市川門三郎一座の幕間で唄ったというのが最初、という可能性も出てきます。
記事はこう続きます。
"後日ひばりが出世して、ご自分が『男の花道』(註:『女の花道』の誤りか?)をした時に、関三十郎の役に門三郎を呼びましたよ、えらいわよね"
つまり、美空ひばりは杉田劇場での市川門三郎への恩や義理を感じて、後年、自分の出演作に門三郎を呼んだというのです。
もっとも、ざっくりと調べてみた範囲では、美空ひばりが『男の花道』をやったという記録が見当たらないし、『女の花道』には関三十郎は出ないはずです。もしかしたら映画『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』に中村菊之丞役で出たことと取り違えているのかもしれません(『男の花道』『女の花道』でのひばりと門三郎の関係をご存知の方がいたらご教示ください)。
ちなみに、市川門三郎一座は杉田劇場で『男の花道』を上演しています。
1946(昭和21)年6月19日付神奈川新聞より |
いずれにせよ(多少の誤解はあるにしても)ひばりが後年、門三郎と共演したのは、彼女が義理や恩を感じてのこと、と鐵之助は考えていたわけですから、時期の問題は別として、ひばりは門三郎一座の幕間でも舞台に立っていたと考えていいように思います。
(これまでの調査からすると、両者の接点として一番可能性の高いのは、昭和21年6月の市川門三郎一座の興行の際に、ひばりが幕間で舞台に出たということです。彼女の杉田劇場出演は3ヶ月続いたとされているので、4月から6月というのは時間的には符合します。ただし門三郎一座の新聞広告には加藤和枝の名前もミソラ楽団の名前もまったく出てこないのです)
美空ひばりの舞台デビューは昭和21年3月か4月の大高ヨシヲ一座の幕間、という地元で確定しつつある定説は、また少し揺らいできました。
「アテネ劇場でデビュー」という話は誤りが修正されつつありますが、一方で「大高ヨシヲ一座の幕間でデビュー」が事実として敷衍しつつあります。しかし、上の引用からして「市川門三郎一座の幕間でデビュー」の可能性も否定できなくなってきましたから、このあたりは地元の人間としてもう少し深掘りして調べてみたいところです。(→その2へ)
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。
2 件のコメント:
杉田劇場に残っている片山さんの話は、小玉さんが片山さんから聞いたことを自分流に綴ったものなので、100%鵜呑みにできないところがありますよね。
昔、片山さんの所へ行って取材したときに、もっと聞いとけばよかったと、今になって後悔しています。
そうでしたか。概要はともかく、時期のズレが結構ありそうですね。資料と付き合わせて精査しないと、本当に正確なところはわからない気がします。
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