インターネットで「日吉良太郎」を調べていて、歌舞伎役者の「尾上芙雀」に行き当たりました。「歌舞伎 on the web」というサイトの「歌舞伎俳優名鑑」に掲載されている情報です。
そこに掲載されている尾上芙雀の経歴は
"昭和17年日吉良太郎劇団に入団、昭和18年横浜歌舞伎座で初舞台を踏むが1年程で退団。昭和22年三代目市川門三郎(三代目白蔵)一座に入座、市川芳次郎を名乗る(以下略)"
となっています。出てくる名前が日吉良太郎と市川門三郎ですから、この調査のど真ん中に関係しているではありませんか。この経歴、歌舞伎通の方々にはよく知られていることなのかもしれませんが、僕は寡聞にして知らなかったので驚きでした。
さて、芙雀は市川門三郎一座では「市川芳次郎」を名乗っていたとありますから、確認はそれほど困難ではなさそうです。
片山茂さんが現杉田劇場(横浜市磯子区民文化センター)に寄贈した資料の中に、門三郎一座に関するものが比較的多くあるからです(おそらくオーナー高田菊弥の遺品と思われます)。
まず、ロビーに掲出されている市川門三郎一座のプログラムを見ると、たしかに「市川芳次郎」の名前が確認できます。
市川門三郎一座プログラム(杉田劇場所蔵) |
また、昭和22年に撮影されたとされる門三郎一座の集合写真にも「市川芳次郎」がいます。
市川門三郎劇団(杉田劇場所蔵) |
この写真に対応する人名対照図が残されていて(おそらく片山さんが作成したもの)、芳次郎を特定することができるのです。
人名対照図(杉田劇場所蔵) |
ところで、雑誌『演劇界』1978年2月号の「ここに役者あり」連載26で、その尾上芙雀が取り上げられ、インタビュー記事が掲載されているのです。
『演劇界』1978年2月号より |
実はそこに驚くべきことが書かれていたのです。
上掲の経歴にある「昭和18年横浜歌舞伎座で初舞台を踏むが1年程で退団」ですが、こんなに短期間で辞めてしまった理由は、兵役のためだそうで
"北支に渡り、慰問隊へ入る。やがて脚気になって病院へ入り、終戦で現地除隊、昭和二十二年ごろ復員"
とのことです(後述の内容から昭和二十二年は不正確で、昭和二十一年には復員していたと思われます)。
復員後は
"横浜の芝居が懐かしく、かつての子役たちが横浜の杉田劇場で興行しているというので訪問、そこで誘われるままに役者に復帰"
したとあります。
杉田劇場で芝居をやっていることを聞いて訪問した、というケースが確かにあったのです(大高よし男も近江二郎の公演を知って杉田を訪れたのではないかと思っているので、心強い証言です)。
「かつての子役たち」というのは日吉良太郎一座にいた藤川麗子や生島波江のことでしょうか。「子役」というのが少し腑に落ちないところですが、もしかしたら、日吉一座にいた子役が大高一座にも参加していたのかもしれません(大高一座と日吉一座の座員の比較対照をもう一度やる必要がありそうです)。
いずれにしても芙雀はこのインタビューの中で、杉田劇場の専属劇団、つまり大高よし男一座で役者復帰し、戦後の舞台活動をスタートさせたと述べているのです。
しかも
"この一座が信州・長野県の、どこかの、なにかの慰問に買われて、トラック一台に道具、衣装とともに乗り込んで出発した。正確な日時・場所は例の得意わざで忘れたが(註:記事の冒頭で芙雀は「時、ところなど、こまかいことを忘れちゃう名人である」とある)、どこかの険しい山道でこのトラックが崖下へ転落した"
というのですから、なんと、昭和21年10月、大高よし男が事故死したあの巡業に、芙雀も同行していたのです!
"前後左右、怪我人が助けて!などと呼んでいる中で、奇跡的にひとり無傷無痛。あとは夜っぴて救護に走りまわった"
片山さんの証言の中には、大高の遺体をあばら屋のような火葬場に運んだら、管理人の老婆が出てきて、こんな目にあったというエピソードが書かれています。
"目をつむって本日の火葬のお願いをするが、この日暮時に来ても今日は駄目だ…と断わられる。同行の青年団の一行には、夜の公演もあるので帰ってもらう。また意を決して鬼婆の所に行き、何とかと頼むが一向に開き入れてもらえず、火葬は明日だとのことである。ならば、遺体を預かってもらえないかと頼むが全然聞き入れてくれない。再び、旅先きのことで遺体を連れて行く所がないことを話す。老婆は、「それなら遺体の側で伽をしろ!」と言われ、 仕方なく遺体に寄り添い一夜を明かすことになった"
ひょっとすると、この現場に芙雀もいたのかもしれません。あるいは怪我人が運び込まれた須原の清水医院にいたのかもしれません。「救護に走りまわった」というのですから、後者の方がありそうな気はします。いずれにしても、あの事故現場で、若き日の芙雀は交通事故の事後処理に奔走していたのです。
上述の通り、事故後の行動は正確にはわかりません。ですが、一座のメンバーだったのですから、少なくとも葬儀には参列していたはずです。
そこで、例の弘明寺の集合写真の登場となります。芙雀が写っているに違いありません。
もちろん当時の芙雀の写真と対照しなければ正確なところはわかりませんが、この写真のひとりひとりをじっくり見てみると…最後列中央やや左寄りの男性、それが芙雀ではないかと思われるのです(赤丸の人)。
大高よし男葬儀写真(杉田劇場所蔵) |
赤丸の人物を拡大したもの |
『歌舞伎俳優名鑑』(1973)より |
どうでしょう? 間違いないと思うのだけど…
(まだ推定が多いものの、大江三郎、高田菊弥、中野かほる、尾上芙雀…と葬儀参列者の特定も徐々に進んできました)
さて、『演劇界』の記事はこう続きます。
"杉田劇場一座もこれで一頓挫。座主夫人の口ききで(中略)市川門三郎、後の白蔵の弟子になり吉右衛門劇団に出るようになる。昭和二十四年五月のことで、芳二郎の名をもらい、二十六年九月には名題となり市川おの江"
(少し時系列が曖昧ですが、芳二郎(正確には芳次郎)になったのは門三郎一座に参加したときです)
この文章で気になるのは、「座主夫人の口ききで」という一文です。座主夫人とは高田菊弥の妻、能恵子夫人のことでしょう。
本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には、大高よし男が事故死した際、トラックには能恵子夫人も同乗していたと書かれています。劇場主の妻がなぜ巡業に同行していたのかがずっと腑に落ちないところでしたが、こういう記述を読むと、杉田劇場の経営(および大高一座のマネジメント)には能恵子夫人がかなりの手腕を発揮していたのではないかと思えてきます。能恵子夫人はもともと、なんらかの形で芸能界に関わっていた人なんじゃないかとすら思えます。
高田菊弥・能恵子夫妻(1972) |
さて、以上のことから、尾上芙雀という人は
日吉良太郎一座→大高よし男一座→市川門三郎一座
というステップで歌舞伎役者へのキャリアを積んでいったということがわかりました。
経歴に大高一座が載らないのは少し残念な気はしますが、大高とともにいた期間はとても短かったのでしょう。それでも、あの事故のおかげで彼の記憶に残り、こうして記録されているのですから、手がかりのない中で調べている者にとっては、この証言は奇跡とも思えることです。
仮に大高が亡くなっていなければ、尾上芙雀(本名:笠原興一)は歌舞伎の道に進まず、そのまま大衆演劇の役者になっていたのかもしれないわけですから、つくづく運命というのはわからないものですね。
というわけで、今回は『演劇界』の記事から、歌舞伎役者の尾上芙雀が若い頃、大高一座に参加していたという、驚きのお話でした。
→つづく
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