これまでの調査から「大高よし男は横浜に来演した1940(昭和15)年3月以前から近江二郎一座に所属していたはずだ」ということはほぼ断定してもいいと考えています。
いずれにしても、横浜来演の直前、同年1月から2月末まで近江一座は名古屋で興行しており、そこには大高よし男(前名・高杉弥太郎)がいたはずで、昭和10年代の近江一座の動向を丹念に調べていけば、大高が参加する時期などの痕跡が見つかる確率は高いと思われます。
昭和初期の近江一座で特筆すべきは、1930(昭和5)年から翌年にかけてのアメリカ巡業ですが、それを終えた一座は、帰朝公演として浅草などで興行しています。
その流れの中で、1932(昭和7)年夏からスタートした浅草・公園劇場における「グロテスク劇場」という企画は同時期の近江一座の代名詞ともいうべきもので、この看板を掲げて名古屋や京都でも興行しています(その経緯などは→こちら)。
グロテスク劇場を掲げていた1932(昭和7)年から1934(昭和9)年にかけての近江一座に「高杉弥太郎」の名前が見当たらないことから、この頃はまだ一座に参加していなかったか、まだ名前が出ないような駆け出しだったと考えてもいいように思います。
調査対象はそれ以降ということになりそうです。
ところで、1935(昭和10)年、浅草金龍館での初春興行については、以前にも紹介しました。
この興行は光岡龍三郎・酒井米子・近江二郎の合同公演で、この広告に記載のある名前が、この時期の近江一座の主な座員だと考えられます。
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| 1934(昭和9)年12月31日付讀賣新聞より |
このうちから近江一座の座員と思われる部分を抜き出すと
井村緑之助石川好明春山芳郎戸田史郎大山禮二郎金井恭米澤豊菊田洋右三村義彦瀬山緑郎御園艶子西山光榮春日早苗酒井笑子上野初子小山美久子絹川松代和田小百合深山百合子近江二郎
で、「大高」や「高杉」、あるいはそれを類推させる名前が見当たらないわけです。
ですから、大高は1935(昭和10)年初春興行ののち、1940(昭和15)年正月までの間に近江一座に加わったと考えてよさそうです。
さて、金龍館での合同公演の一年後、1936(昭和11)年2月に近江一座は名古屋大須の宝生座で興行を打ちますが、不運なことに公演期間中、劇場火災に見舞われます。
この火災についてはこれまで『近代歌舞伎年表』(名古屋篇)を参照しただけでしたが、実際に当該の新聞記事を確認してみると、この頃の近江一座の様子がより詳しくわかってきました。
1936(昭和11)年2月11日付名古屋新聞より |
火事は昭和11年2月10日の午前8時10分ごろに発生、出火場所は不明だそうですが、前茶屋2階ないし宝生座2階東桟敷または楽屋裏との報道がなされています。
この時の宝生座の所有者は水谷文治氏で、これも以前紹介しましたが、早大演劇博物館の企画展『寄らば斬るぞ!−新国劇と剣劇の世界』のTwitterアカウントに掲載された市川右之助の写真のバックに、同氏の名前のある楽屋のれんが写っています(→こちら)。
ちなみに『新愛知』の記事によると水谷氏は名古屋市中区門前町で煙草小売業を営んでいたとあります。一方、『名古屋新聞』では座主は水谷銀次郎氏となっており、銀次郎氏と文治氏の関係はよくわかりませんが、同姓であることから親子関係だろうとは想像できます。
『新愛知』に掲載された水谷文治氏の談話によると、出火は10日の朝で
"九日夜は不寝番が二人泊まり十日朝出火時には従業員も既に十人ほど来てをり発見した時は既に前茶屋の天井一面火で手の下しようがありませんでした" (1936(昭和11年)年2月11日付新愛知より)
とのこと。
また近江一座については記事で
"一日から宝生座に開演してゐた近江二郎一座四十五名は名古屋市中区若松町國本旅館に滞在してゐる"(同)
と書かれています。
避難場所として旅館にいたのか、宿泊先が国本旅館だったのかははっきりしませんが、上の引用の「不寝番が二人」という記述からして、小屋泊まりではなかったようですから、後者だったのでしょう。座員は四十五名ですからなかなかの大所帯だったこともわかります。
さらにはこんな記載もあります。
"同座の所属している神戸吉原興行部からの指令を待ちながら"(同)
昭和15年3月の横浜・敷島座での興行は、近江一座が籠寅興行部に所属したことから実現したとされていますが、昭和11年の段階では、近江一座は神戸の吉原興行部に所属していたことがわかります。
ただ宝生座については
"大阪市の吉本興業部と下関の保良浅之助氏の共同経営"(同)
ともあることから、近江二郎と籠寅(保良浅之助)との縁はすでにこの頃からあったと考えてよさそうです。
この火災で衣装や小道具の一切を焼失し、公演の中止を余儀なくされた近江一座ですが、火災から6日後の2月16日から同じ名古屋の帝国座で興行を再開します。
| 1936(昭和11)年2月16日付新愛知より |
新聞には「再建不能か」とも書かれた宝生座も同年11月には再建し、歌舞伎公演で柿落としの後、11月30日からの新装第二回公演は近江二郎一座が担うことになります。この興行は年を越して、昭和12年の初春興行へと続き、同年1月末まで続きました。
近江二郎の実弟、戸田史郎(近江資朗)のご親族からお借りした写真には、裏書に「昭和拾二年一月三日撮影」「名古屋市宝■■■」とあることから、この時の舞台写真と考えられます。
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| 近江資朗氏旧蔵写真より |
『近代歌舞伎年表』を調べる中では昭和14年の近江一座の情報がまったく見当たりません。ですが、この頃、近江一座が神戸吉原興行部に所属していたことを思うと、もしかしたら『年表』のエリア(大阪・京都・名古屋)の外、神戸や広島、九州あたりで興行していたのかもしれません。
この頃に大高が加盟したと推測されますので、神戸の新聞などから興行記録・劇評を調査することで、何か判明するようにも思われます。
少しずつ調査範囲と時期が絞られてきたように感じます。
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