(120) 町田市収蔵の旧杉田劇場資料

舘野太朗さんのX(旧Twitter)の投稿を通じて、町田市のデジタルミュージアムに旧杉田劇場の台本が掲載されている事実を教えていただいたので、思い切って所管課に連絡をしたところ、現物を閲覧する許可をいただくことができました。

(とはいえ、専門家でもないおっさんが一人で行っても不審がられそうなので、現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」を担当しているSさんに同行してもらいました。深謝)


台本が保管されているのは、小田急線の鶴川駅からバスで10分ほどのところにある「三輪の森ビジターセンター」内、郷土資料展示室の収蔵庫です。

ちなみに「三輪の森」というのは町田市と横浜市・川崎市の市境にある里山の一角で、横浜市で言えば青葉区の「寺家ふるさと村」や「こどもの国」に隣接する地域です。


ビジターセンターはその里山散策の拠点(休憩地?)のようなもので、その中に郷土資料展示室があり、そこに民俗資料の収蔵庫もあるということのようです(なお収蔵資料の閲覧には事前申請が必要です)


デジタルミュージアムには、旧杉田劇場の台本が10冊、杉田劇場での市川門三郎一座のチラシ(パンフ?)が2つ掲載されていますが、実際にはデジタル化されていない台本もまだあって、一覧は「町田市立博物館所蔵・民俗資料目録」に掲載されています。

当日は、とても親切に対応してくださった学芸員の方が、未デジタル化のものも含めて杉田劇場に関わるものも用意しておいてくださいました。


そんなわけで、今回閲覧させていただいたのは以下の台本です(☆は未デジタル化のもの)。

平家女護島 島の俊寛
おその六三 恋の逢引
島田左近
絵本太閤記
怪猫伝 岡崎の猫
恋慕地獄 延命院日当
舞踊 忍逢恋事寄 将門
侠客春雨傘
常盤津竹本出語り 所作事 京人形
清水一角
☆め組の喧嘩
☆毛谷村六助
☆蝿坊主と木村長門守重成
☆二月堂良弁杉
☆十六夜清心 花街模様薊色縫

 

いずれも「杉田劇場」の記載やスタンプがあるもので、すべてにGHQの検閲印がありました。

台本に押された印には郵趣家の間で金魚鉢と呼ばれているらしいエンブレム型の検閲パス印のほか、「CCDJ-2036」「CCDJ-2037」「CCDJ-2039」「CCDJ-2040」のいずれかのスタンプもあって、当初、その意味はよくわかりませんでしたが、後日、こちらのサイトを参照させていただいたところ、どうやらこれは東京地区の検閲官の番号で(第三次配給分)、それぞれの番号に割り当てられた検閲官がいたということのようです。「2039」には「Sakamoto」と読める署名も付記されていたので、この番号の検閲官が「サカモト」という人だったことが推測されます(M.M.Sakamotoとも書かれているので、日系人なのかもしれません)。

その他、検閲の有効期限(上演可能期間?)を記したと思われる数字(日付)も見られましたが、詳細はよくわかりません。


さて、閲覧させていただいた台本のほんとどすべてに「尾上大助」の記名なり印があります。

デジタルではよくわかりませんでしたが、いくつかの台本では尾上大助の下に「新星暁座」と書かれてあって、それを修正するような形で尾上大助の名が上書きされていました。

この理由はよくわかりません。もしかしたら検閲は個人名で申請するもので、修正を指示されたということなのかもしれません(演劇博物館に保管されている九州地区のGHQ検閲台本をざっと見ても、申請者は個人名になっているようです)

中には「Shinsei Akatsukiza」とメモ書きされたものもあるので、尾上大助が杉田劇場で活動していた時期、専属劇団には「暁第一劇団」でも「暁劇団」でもなく「新星暁座」という名称が使われていたとも考えられます。ただ、その頃の広告にはそっけない「杉田専属劇団」としか書かれていないのです。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

検閲台本では「新星暁座」とあるのですから、「杉田専属劇団・新星暁座」という認識だったのかもしれません。

それ以前の、藤村正夫が参加していた頃の広告には「新生暁座」と書かれることがありました。「新星」なのか「新生」なのかははっきりしませんが、いずれにしても大高よし男生前からの「アカツキ」の名称は、かなり後年まで使われていたことがわかります。

1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より


デジタルミュージアムの資料説明欄にもある通り、これらの台本は1949(昭和24)年のものが大半です。検閲官の番号からしても時期的には大きくズレていないと考えられます。しかし、この年の新聞広告に掲載された演目と合致しない作品も多いので、検閲は通したものの実際は上演しなかったり、後年に上演したものも含まれているのかもしれません(このあたりは再度調査が必要です)


台本の中身はすべて手書きで、薄い罫紙に書かれています(カーボンコピーのようにも見えました)。また検閲提出用ということなのでしょうか、書き込みは見られません(唯一『二月堂良弁杉』には包装紙の切れ端が挟まっていて、鉛筆書きのおそらく台本の修正部分か抜書きと思われるものが書かれていました)。

残念ながら台本を読んで内容を精査するほどの時間はなく、本文中にメモ書きなどがないかを確認するだけでしたが、じっくり読めばそれぞれの作品が大歌舞伎とどう異なっているか、演出的な違いがあるのかどうかなど、さらに詳しい情報が得られるのかもしれません(これもまた今後の宿題)


ところで、この台本の収集地は町田市の成瀬と記録されています。なぜ成瀬なのかがずっと疑問でしたが、学芸員の方に詳しく聞いてみると、成瀬を拠点に活動していた「大川一座」という劇団から寄贈されたものなのだそうで、台本のほかに一座の衣装や小道具なども収蔵されているとのことでした(大川一座については『成瀬 村の歴史とくらし』という本を紹介していただきました)

大川一座は成瀬の三ツ又という地域に住んでいた大川源治が始めた劇団で、近隣の村々にとどまらず、近県も含めたかなり広範なエリアで興行をしていたようです。源治はもともと草競馬をやっていた人でしたが

"「競馬なんかやんないで、芝居をやったらどうか」と人に勧められたことが契機だったそうである。源治氏の師匠は相模の市川花十郎だった"(『成瀬 村の歴史とくらし』365ページ)

とのことです(市川花十郎は現在の横浜市泉区を拠点に活躍した人です)

それがどうして横浜の杉田劇場とつながるのかはよくわかりません。おそらく杉田劇場で使っていた台本を譲り受けたというのが一番ありそうな可能性です。大川一座にはプロも出ていたそうなので、尾上大助あるいは杉田劇場に関わりのある別の役者が、何らかの縁で呼ばれていたのかもしれません(大川一座の調査をすればわかるかもしれません)。

また、ほぼすべての台本が「大橋繁夫脚色」となっていて、この人についてもよくわからないところですが、いくつかの台本では尾上大助の肩書きに「大橋家」と記載されているので(印になっているものもある)、もしかしたら尾上大助の本名が「大橋繁夫」なのかもしれません(このあたりも再調査が必要になりそうです)。


台本のほかに市川門三郎一座のチラシ(パンフ)2種も見せていただきました。これらはデジタルミュージアムにも掲載されていますが、画像は二つ折りになった表紙だけです。現物で情報の多い裏表紙・中面を拝見したところ、この興行の演目や配役がわかりました。それを後日、杉田劇場の番組一覧のデータと照合した結果、1947(昭和22)年7月と8月の興行のものであることが判明しました。

このうち7月興行は暁劇団と門三郎一座の合同公演で、チラシ中面の配役には「大江三郎」「高島小夜里」「大島ちどり」「高宮敏夫」「三木たかし」など、現杉田劇場に掲出してある大高一座のポスターに名前のある役者が確認でき、座長の没後も何人かは芝居を続けていたことがはっきりしました。

1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より

※このチラシ(パンフ)の配役の中に「大川喜久男」という役者がいます。暁劇団の座員と思われますが、その名前からして大川一座の関係者とも考えられます。大川一座と杉田劇場がもともとつながりを持っていたと考えれば、いろいろなことが腑に落ちるのですが…これもまた詳細調査が必要です。


この年、8月の門三郎一座興行の後には葡萄座の公演が行われましたが(8月29日〜31日/真船豊「見知らぬ人」ほか:詳細は→こちら)、チラシにはこの公演の予告も記載されていたので、町田の里山で思いがけず懐かしい知り合いに会ったような不思議な気持ちにもなりました。


調べきれないほど収穫と宿題のあった初訪問ではありましたが、町田にこういう資料が収蔵されていたというのはあらためて大変な驚きです。町田にあるのですから、もしかしたら藤沢や横須賀、鎌倉など近隣の市町村にも未公開の資料の中に同様のものがあったりするのかもしれませんが、乏しいネットワークの中では知る由もありません。

僕の知る限り、旧杉田劇場の資料で公的に保管されているのは現杉田劇場にある元従業員・片山茂さん寄贈の11点と、今回拝見したものだけです。

現杉田劇場は指定管理者制度下で運営されていますから、仮に指定管理者が変わったら、あの資料の行く末がどうなるか、大変心許ないものがあります。

いっそのこと市史資料室や市歴史博物館や都市発展記念館あたりが引き受けてくれればいいのですが、なかなかそうもいかないのが現状のようです。今後のことを考えれば、あれだけのものを町田市が収蔵・保管してくれていることはまさしく天恵のようです。

町田市の資料について、まだ詳細な調査は進んでいないようです。大川一座の研究も含め、今後に期待するところです。

それにしても、ご対応くださった学芸員さんがとても親切で助かりました。いつでもまたきてください、とも言っていただいたので、この先、調査項目をしっかり整理するなど、準備万端にして、ぜひまた伺いたいと思います(できることなら1ヶ月くらいあそこに篭って調べたい)。


そんなこんなで、今回は町田市収蔵の杉田劇場資料の初調査についてでしたが、未消化のものも多いので、今後、もう少し整理して改めて報告したいと思います。

今回はひとまずこれにて。

関係各位、ありがとうございました。



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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(119) 自由劇団の栄枯盛衰

戦前・戦中の調査に戻りつつあるところですが、目ぼしい成果が得られていないので、ひとまず戦後をもう一度。


杉田劇場では大高一座こと「暁第一劇団(暁劇団)」が専属として活動し、弘明寺の銀星座では「自由劇団」が専属だったことはこれまで何度も書いてきました。

また、自由劇団のメンバーには日吉良太郎一座の残党が多く、事実上の後継団体、つまりは「第二日吉劇団」のような存在だったのではないかと考えていることも繰り返し書いてきたことです。

自由劇団の名前が最初に登場するのは、1946(昭和21)年8月で(この時はまだ「横浜自由座」)、広告から名前が消えて事実上の活動停止になるのが、1950(昭和25)年7月下旬ですから、まるまる4年間、銀星座でほぼ休みなく公演を続けていたことになります。

(杉田劇場の暁劇団も同じような活動を目指していたのでしょうが、結果としては大高よし男の死で頓挫してしまった形です)

自由劇団の充実した活動の背景として、日吉劇が昭和13年から19年まで、横浜歌舞伎座で6年も連続興行をした経験が活かされたのだろうと思います。

杉田劇場がいささか迷走気味になったり、高根町のオペラ館がこれまた迷走気味な時期を経て(このことはいずれ書きます)、ストリップ劇場(横浜セントラル劇場)へと落ち着く(?)のに対し、自由劇団がブレることなく興行を続けていたのはやはり経験がものをいったのでしょうか。結果的にこの地域で専属劇団を持つ劇場は銀星座だけになっていくわけです。


そんな背景もあってか、1949(昭和24)年から1950(昭和25)年初頭にかけての自由劇団は、それこそ破竹の勢いを感じさせる活躍ぶりで、新聞の特集記事にもしばしば登場しますし、根城としている銀星座のほかに、杉田劇場や港映(のちの妙蓮寺劇場)でも公演するようにもなります。

1949(昭和24)年7月12日付神奈川新聞より

1950(昭和25)年1月17日付神奈川新聞より

上掲「港映」の広告が銀星座と並んでいることからも、またそのほかの映画演劇情報欄などを確認しても、その時期に銀星座が休場していたような形跡が見られないので、どうやら銀星座での興行は続けたまま、同時並行で別の劇場の公演をしていたようなのです。つまり、自由劇団には本隊以外に別働隊があったということで、座員数の多さなど劇団としての充実ぶり、隆盛がうかがえます。いまでいう劇団四季みたいなものでしょうか(違うか)。

(もっとも、移動できない距離ではないので、昼夜で劇場を替えたという可能性も否定できません)

以前も書きましたが(こちら)、これらのうち、昭和25年1月の杉田劇場での興行については、新聞広告(情報)だけでなく、緞帳を新調した際のものと伝わる写真に演目の記録が残っているのです。

杉田劇場緞帳と間辺典夫氏

矢印部分を拡大

1950(昭和25)年1月13日付神奈川新聞より

写真と新聞の情報欄の演目が一致しています。

「肉欲」は新派劇で「天保白浪」が剣劇、「日本晴れ」は喜劇だったようです。

杉田劇場の緞帳写真なのに、専属劇団ではなく自由劇団の公演時のものというのも皮肉な話ですが、杉田劇場の暁第一劇団にも、銀星座の自由劇団にも、日吉劇出身の役者がいたわけですから、劇場こそ違え、劇団員としてはどちらも同じ役者仲間という意識だったのではないかと思います(もしかしたら専属劇団にいた人もこの時の自由劇団の舞台に出ていたのかもしれません)。


そんな具合で、市内とはいえ巡業できるほどの隆盛を誇った自由劇団も、1950(昭和25)年7月いっぱいで新聞広告がなくなり、どうやらこの時期に活動を停止したと思われます。急転直下のジェットコースター的展開に、むしろこっちの方が驚くくらいですが、これもまた盛者必衰のことわりとでもいうのでしょうか。

しかし、ここにはおそらく自由劇団の「母体」とも言っていい、日吉劇の座長・日吉良太郎の死が何らかの影響をしていると僕は考えています。

日吉良太郎の亡くなった日については諸説あって、昭和25年という資料もあれば、昭和26年という話もあります。一番具体的なのは、たびたび引用する小柴俊雄『ヨコハマ演劇百四十年』で、ここには1951(昭和26)年8月29日没、とかなり明確な日付が記載されています。

小柴俊雄『ヨコハマ演劇百四十年』巻末年表より

いまのところこの日付を裏付ける資料を見つけることができていないので、もう一度精査する必要はありますが、いずれにしても昭和25〜26年頃に亡くなったのは間違いなさそうで、そのことが自由劇団の活動終了に影響したと考えるのもまた大きく間違っていないとは思います。

自由劇団の連続興行が終了した銀星座は、その後、しばらく新聞紙上からその名が消えてしまいますが、11月18日の市川門三郎一座の広告を皮切りに、剣劇、女剣劇、歌舞伎(小芝居)などの情報が断続的に新聞紙上で見られるようになり、どうやら、杉田劇場と同様、さまざまな劇団が入れ替わり立ち替わり登場する「貸し小屋」のような形になったものと考えられます。


ところで、この時期の杉田劇場について、これまではほぼ活動停止状態と言われてきましたが、実際はポツポツと思い出したように新聞広告が掲載され、その内容を見るに、おそらく広告が出ていないだけで、さまざまな興行は続いていたものと思われます。

昭和25年8月には杉田劇場の庭を使ったヌード撮影会(!)も行われます。

1950(昭和25)年8月8日付神奈川新聞より

この広告より前、8月4日付の新聞には撮影会についての記事も出ていて、そこには

「杉田劇場出演の大泉撮影所アーティストグループ丘寵児一座のニューフェイスが特にモデルになって参加」

と書かれているので、この時、杉田劇場では丘寵児一座の公演があったようなのです(広告はないけど)。

また唯一残る杉田劇場の正面からの写真は、現物を複写して拡大したところ「若月昇劇団」が来演した時のものと判明しています。

旧杉田劇場(杉田劇場所蔵)


まねき看板を拡大:「若月昇」と読める

しかしながら、この劇団については、昭和25年いっぱいまでの新聞広告には、その名がまったく見つかっていないことから、写真はそれ以降のものだと思われるのです(「若月昇」については詳細がまったくわかりません。どなたかわかる人がいらっしゃいましたら教えてください)。

このように、経営状況は別として、昭和26年以降も劇場の運営は定期的に続いていたと考えていいと思います(正月やお盆の時期には市川門三郎一座の広告が出ます)。

そもそも、上掲、緞帳新調時の写真とされるものが、本当に新調時のものであるならば、斜陽で閉場が近い劇場が緞帳を新調したとは考えにくく、やはりしばらくは劇場としての運営は続いていたと言えそうです。

これまで杉田劇場の方が先に閉場し、銀星座がその数年後に閉場というのが通説のようなものとされてきましたが、両劇場の閉場は、ほぼ同じ時期(昭和25年以降、おそらく27年頃)ではないかと推測されるところです。


近江二郎が昭和24年5月29日に亡くなり、日吉良太郎も遅くとも昭和26年には他界します。戦前の横浜の大衆演劇を支えた両座長の死に連動するかのように、杉田劇場と銀星座もなくなるわけで、この時期に明治から続いた横浜の新派〜剣劇〜大衆演劇の流れにピリオドが打たれたと言ったら、少し言い過ぎでしょうか。


そんなこんなで、今回は銀星座の自由劇団について、劇団の栄枯盛衰と劇場の命運について考えてみました。


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(118) 近江二郎と野島左喜子

歌舞伎学会に参加して、唯一「ホーム」と感じられたのが、当日配布された資料の中に「近江二郎一座」の文字を発見した瞬間でした(「近江一郎」と誤植になっていたけど)。

これは、女役者について報告された土田牧子さんの資料の中にあったもので、坂東音芽の略歴に

「看板女優として新派の近江一郎(※二郎)一座と渡米(昭和五〜六年)」

と記されています。

そんなわけで、今回もまた門外漢ながら、近江二郎と坂東音芽(野島左喜子)について、少しだけ調べてみました。


坂東音芽の経歴については同じ日に配布された『越境する歌舞伎』の著者、浅野久枝さんによる資料の中にもあるとおり、石川県立博物館の広報誌『石川れきはく』No.137(2022.2.24号)に掲載されている「研究ノート『金沢歌舞伎最後の女役者』」(大井理恵)が一番詳細でまとまったものだと思います。

ものすごくざっくりと要約すれば、音芽は金沢(横浜のではなく石川県の)で歌舞伎の舞台に立ってから、東京に出て女役者として活躍したほか、新派の女優として横浜喜楽座の舞台などにも立ち、関東大震災後、郷里に戻って、芝居やレビュー(粟ヶ崎遊園)の舞台で活躍。その後は素人芝居の指導などをした人だそうです。


で、横浜に関係する記述を上掲の論文から引用すると

"音芽には新派女優として自身の幅を広げる意図もあったようで、ここ(註:神田劇場)では新派劇に出演している。しかしまもなく横浜喜楽座に移ると、以後大正12年(1923)まで新派女優として活動した。音芽の横浜時代は華やかだったというが、情報が乏しく、当時の役柄などは分らない"

とあります。

となると、近江二郎と坂東音芽(野島左喜子)の接点は横浜の喜楽座だと断言してもよさそうです。

以前も書いたように(→こちら)、近江二郎は大正9年の2月興行から喜楽座に「新加入」し、大正12年2月まで喜楽座に所属していましたから、坂東音芽(野島左喜子)と同時期に喜楽座で活動していたわけです。

1920(大正9)年1月30日付横浜貿易新報より


実際、田中栄三『明治大正新劇史資料』(演劇出版社,1964)に掲載されている喜楽座『お艶新助』の配役一覧には、近江二郎(次郎)と坂東音芽が共演していることが記録されています。

『明治大正新劇史資料』(147ページ)より

時期が重なりますから、当然、これ以外の舞台でも共演していたはずです。近江二郎は明治26年生まれで、坂東音芽は明治32年頃の生まれ。年齢も近く、同じ喜楽座の新派の役者仲間として親しい関係だったと推測してもおかしくはありません。

*   *   *   *   *

(その後の調査で、坂東音芽は近江二郎より半年以上も早く、1919(大正8)年6月20日の興行から喜楽座に参加していたことがわかりました。

1919(大正8)年6月20日付横浜貿易新報より

この広告の前日、6月19日付の紙面では「演藝だより」欄に

"二十日よりの同座には新に澤村金十郎、永井信哉、阪井保並に神田劇場より坂東音芽といふ女優加入"

との記載もあります。

「演藝だより」には各興行の主な配役も継続的に掲載されているので、横浜貿易新報を丹念にみていけば、喜楽座での坂東音芽の活動の概要がわかりそうです。

この頃の喜楽座では子供芝居(いわゆる"ちんこ芝居"?)、旧劇(歌舞伎)と新派を3本立てか4本立てで上演することが多かったようです。喜楽座の音芽は「新派女優として活動した」とされていますが、実際は主に歌舞伎に出ていた印象です)

*   *   *   *   *

上掲『石川れきはく』によれば、音芽は関東大震災を機に帰郷し、地元に新たにできた能登劇場などに出演しつつ、

"昭和3年(1928)頃から、野島左喜子を名乗り粟ヶ崎遊園の大衆座に出演"

していたのだそうです。

坂東音芽から改名した「野島左喜子」が近江二郎一座に参加したのは1930(昭和5)年のことですから、ちょうど大衆座に出演していた時期だと考えられます。郷里を離れてまで近江一座に参加する理由はどこにあったのか、いささかの謎が残るところですが(アメリカに行ってみたかったということなのかしらん?)、理由はともあれ近江一座に帯同して渡米することとなります。


一座がアメリカに向けて日本郵船の秩父丸で横浜を発つのは昭和5年10月17日。サンフランシスコに着くのが10月30日です。

ですが、出発のほぼひと月前の同年9月、横浜平沼の由村座で近江一座が壮行公演のような興行を1ヶ月間行っていますから(9月1日〜28日)、ここには野島左喜子も出演していたと考えるのが妥当で、9月には横浜に来ていたと考えられます。

1930(昭和5)年9月26日付横浜貿易新報より

近江二郎、野島左喜子(坂東音芽)とも喜楽座を去ってからすでに7年も経っている上に、かたや郷里の金沢に根を下ろして活動し、かたや浅草や京都、名古屋などを巡業している身ですから、両名の接点がどこにあったのか、さっぱりわかりません。またアメリカ巡業に同行するに至る経緯もまったく不明です。

妄想まじりの可能性としては、近江一座の金沢興行があって、そこで再会、なんていうのがもっとも確からしい推測ですが、いまのところそうした事実確認はできていません(そもそも近江一座は金沢で公演したのだろうか?)


さて、アメリカへの出発前日、横浜の新聞には社を訪れたという近江一座(女優たち)の写真が掲載されます。

その説明文の中に「野島咲子」の名前がありますが、これは左喜子で間違いなさそうです。ただ、写真が不鮮明な上に、順番がわからないので、残念ながらどれが野島左喜子なのかははっきりしません(たぶん左端じゃないかな?)

1930(昭和5)年10月17日付横浜貿易新報より


(まったくの余談ですが、10月17日は喜楽座が映画館として改装オープンした日で、近江一座の上はその喜楽座の写真です)

一方、アメリカ側の邦字新聞『日米』に掲載された秩父丸の船客名簿には、横浜から乗船した客の中に彼女の本名である「島崎きくの」の名前も見ることができます(三面)。また同じ面の記事中には一座の俳優名が載っていて、野島左喜子の名前を確認することもできます(→こちら

さらには、同じ『日米』10月26日付紙面には近江二郎一座の広告が半面いっぱいの大きさで掲載されてますが、ここには野島左喜子の写真も掲載されているのです(→こちら

ただ、ここで気になるのは「小松乙女」とキャプションのついた写真です。この記事を閲覧した当初から、一座の役者に「小松乙女」の名前がなく、ずっと不思議に思っていましたが、「乙女」と「音芽」の近似から調べてみたところ、『七尾町旧話』という本の中に、以下の記述があることを知りました。

"(音芽は)粟ヶ崎遊園に出たり、酒井淳之助一座に入って亜米利加・満洲・朝鮮・九州と旅廻りに出た所属劇団によって、野島左喜子・小松乙女と名のっていた"(『七尾町旧話』248ページ

となると、広告のキャプションには誤りがあって、どちらかの写真が野島左喜子(小松乙女)で、もう一方は別人という可能性が高くなります。はっきりはしませんが『石川れきはく』に載っている写真からすると、近江一座の広告で「小松乙女」とされている方が近いようにも思いますが、よくわかりません(どなたかわかる人がいたら教えてください)。

(酒井淳之助一座は近江二郎一座の誤りだと思うけど、酒井淳之助のところにもいたのだろうか?)


アメリカでの近江一座の公演はとても好評だったそうで、その前に渡米していた遠山満一座を超える人気だったとも言われています。

そのために期間が延長されたのかどうかはわかりませんが、西海岸での巡業は年を跨いで翌1931(昭和6)年2月いっぱいまで続き、さらに一行はハワイに渡って、4ヶ月にわたる巡業をするわけで、結局、近江一座のアメリカ巡業は1930年11月から1931年6月いっぱいまで、7ヶ月にも及ぶものになりました(行き帰りの移動を含めると都合8ヶ月)

『越境する歌舞伎』にも言及がありますが、戦前に海外巡業するバイタリティーには驚かされますし、その数の多さと期間の長さにもあらためて目を見張るものがあります。

ただ、古い新聞を見ていると「小笠原巡業」などという言葉も出てくるし、満州巡業もそんなに珍しいものでもなかったようなので、そもそも巡業が当たり前のような劇団にとっては、ハワイも西海岸も国内巡業の延長線上だったのかもしれません。


さて、近江一座のアメリカ興行については邦字新聞に頻繁に記事が掲載されますが、劇評という性格の記事はそれほど多くありません。調べた中では唯一、3月16日付、ハワイの『日布時事』に前日の公演について比較的長文の評が出ています。

演目は「悪剣村正」と「金色夜叉」の2本立て。野島左喜子の配役は「悪剣村正」では銀造女房お瀧、「金色夜叉」では赤樫満枝。その演技について

"お宮(深山百合子)は一座のピカ一女優だけ容姿もよく藝も流石に甘い(うまい)、赤樫満枝に扮した野島左喜子のハツキリした䑓詞、こなれた藝風が目立つた"
(『日布時事』1931(昭和6)年3月16日付・三面)

と評されています。

勝手な推測で、近江一座に野島左喜子が参加した理由は、女役者の経験を買われて、アメリカ受けを狙った歌舞伎(や歌舞伎風の芝居)を上演するためなのかなと思っていましたが、こうした劇評を見ると、やはり新派の女優としての役割を期待されていたのだろうし、その期待に応える舞台をつとめていたことがわかります(そもそも近江一座の演目からして新派・剣劇がメインだし)


1931(昭和6)年7月6日、近江一座一行は横浜に帰ってきます。翌日の新聞には凱旋将軍のような誇らしげな近江二郎の写真が掲載されますし(1931(昭和5)年7月7日付横浜貿易新報)、『日布時事』には近江二郎からのお礼状が掲載されたりもします(1931年8月1日付・四面)

その後、一座は浅草などで帰朝公演のようなものをやっていますが、そこに野島左喜子が参加していた記録は見つかっていません。さらには帰国から一年後、近江一座は「グロテスク劇場」と銘打った興行で評判になりますが、そこにも野島左喜子の名前はみられません。

どうやら彼女はアメリカから帰国後、すぐに金沢に戻ったと考えられそうです。渡米の前年(昭和4年)に粟ヶ崎遊園は火事に見舞われ、再建したばかりでしたから、郷里の劇場が気がかりだったのかもしれません。

またまた余談のようですが、アメリカ巡業の役者一覧にある「戸田史郎」は本名を「近江資朗」といい、近江二郎の実弟です。また春日早苗という人は本名(旧姓)井口九女子で、のちに近江資朗と結婚します。

その夫妻の娘にあたる方から話を聞いた際、一座のメンバーはアメリカでチャップリンの家を訪問したり(トイレの床が水槽になっていて金魚が泳いでいたとか)、撮影所見学などもしていたらしいので、アメリカのエンターテイメント業界にダイレクトに接する機会も多かったのではないかと推測できます。

そんなアメリカでの経験が野島左喜子(坂東音芽)の芸にどんな影響を与えたのかというのは興味深いところではありますが、私の調査範疇からは大きくはみ出すことで、どなたかが詳しく調査研究してくれないかしらん、とひそかに期待しています。


そんなこんなで、今回は近江二郎と野島左喜子(坂東音芽)の関係について少し調べてみました。

大高よし男とはあまり縁がない話ですが、関東大震災後の横浜の演劇を考える上では、これまでスルー気味にしていた喜楽座についても、もう少し調べてみた方がいいのかもしれません(思いもかけないところから大高との関係が出てくるかもしれないし…)。

(とはいえ、さすがに付け焼き刃のネタも尽きてきましたので、たぶん次回はまた別の話…)


追記:
さらに追加で調べて、坂東音芽が神田劇場に移ったのが1918(大正7)年7月1日の興行からだとわかりました(同年7月1日付「都新聞」より)。金沢から赤坂演伎座に来た時期は大正7年だそうですが、上京時に頼った坂東彦十郎が大正7年6月9日に亡くなっていますから、年初から上京していたとしても半年あまりで演伎座を去ったことになります。『石川れきはく』の記述は『七尾町旧話』をもとにしているように思えますが、そこでは彦十郎が亡くなり、翌年に息子の竹三郎も亡くなった(大正8年2月18日)ため後ろ盾を失って神田劇場に移ったように書かれています。ところが実際は彦十郎が亡くなって1ヶ月もしないうちに神田劇場に移り、そこで1年を過ごしてから横浜喜楽座に移ったようです。喜楽座には丸4年いて、郷里に戻った理由が関東大震災というのですから、震災がなければ横浜に居続けた可能性もあります。音芽には横浜の水があっていたのかもしれませんね。
ちなみに、音芽が神田劇場の舞台に立っていた頃、近江二郎は本郷座の舞台に立っていました。近江二郎が本郷座に来た時期は今後精査しますが、坂東音芽と近江二郎の動きは重なるところが多いように思います(喜楽座に来るまでの近江二郎の動きがわかれば、彼の生涯が大まかではあるものの判明しそうです)。



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