歌舞伎学会に参加して、唯一「ホーム」と感じられたのが、当日配布された資料の中に「近江二郎一座」の文字を発見した瞬間でした(「近江一郎」と誤植になっていたけど)。
これは、女役者について報告された土田牧子さんの資料の中にあったもので、坂東音芽の略歴に
「看板女優として新派の近江一郎(※二郎)一座と渡米(昭和五〜六年)」
と記されています。
そんなわけで、今回もまた門外漢ながら、近江二郎と坂東音芽(野島左喜子)について、少しだけ調べてみました。
坂東音芽の経歴については同じ日に配布された『越境する歌舞伎』の著者、浅野久枝さんによる資料の中にもあるとおり、石川県立博物館の広報誌『石川れきはく』No.137(2022.2.24号)に掲載されている「研究ノート『金沢歌舞伎最後の女役者』」(大井理恵)が一番詳細かつまとまったものだと思います。
ものすごくざっくりと要約すれば、音芽は金沢(横浜のではなく石川県の)で歌舞伎の舞台に立ってから、東京に出て女役者として活躍したほか、新派の女優として横浜喜楽座の舞台などにも立ち、関東大震災後、郷里に戻って、芝居やレビュー(粟ヶ崎遊園)の舞台で活躍。その後は素人芝居の指導などをした人だそうです。
で、横浜に関係する記述を上掲の論文から引用すると
"音芽には新派女優として自信の幅を広げる意図もあったようで、ここ(註:神田劇場)では新派劇に出演している。しかしまもなく横浜喜楽座に移ると、以後大正12年(1923)まで新派女優として活動した。音芽の横浜時代は華やかだったというが、情報が乏しく、当時の役柄などは分らない"
とあります。
となると、近江二郎と坂東音芽(野島左喜子)の接点は横浜の喜楽座だと断言してもよさそうです。
以前も書いたように(→こちら)、近江二郎は大正9年の2月興行から喜楽座に「新加入」し、大正12年2月まで喜楽座に所属していましたから、坂東音芽(野島左喜子)と同時期に喜楽座で活動していたわけです。
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1920(大正9)年1月30日付横浜貿易新報より |
実際、田中栄三『明治大正新劇史資料』(演劇出版社,1964)に掲載されている喜楽座『お艶新助』の配役一覧には、近江二郎(次郎)と坂東音芽が共演していることが記録されています。
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『明治大正新劇史資料』(147ページ)より |
時期が重なりますから、当然、これ以外の舞台でも共演していたはずです。近江二郎は明治26年生まれで、坂東音芽は明治32年頃の生まれ。年齢も近く、同じ喜楽座の新派の役者仲間として親しい関係だったと推測してもおかしくはありません。
上掲『石川れきはく』によれば、音芽は関東大震災を機に帰郷し、地元に新たにできた能登劇場などに出演しつつ、
"昭和3年(1928)頃から、野島左喜子を名乗り粟ヶ崎遊園の大衆座に出演"
していたのだそうです。
坂東音芽から改名した「野島左喜子」が近江二郎一座に参加したのは1930(昭和5)年のことですから、ちょうど大衆座に出演していた時期だと考えられます。郷里を離れてまで近江一座に参加する理由はどこにあったのか、いささかの謎が残るところですが(アメリカに行ってみたかったということなのかしらん?)、理由はともあれ近江一座に帯同して渡米することとなります。
一座がアメリカに向けて日本郵船の秩父丸で横浜を発つのは昭和5年10月17日。サンフランシスコに着くのが10月30日です。
ですが、出発のほぼひと月前、同年9月、横浜平沼の由村座で近江一座が壮行公演のような興行を1ヶ月間行っていますから(9月1日〜28日)、ここには野島左喜子も出演していたと考えるのが妥当で、9月には横浜に来ていたと考えられます。
1930(昭和5)年9月26日付横浜貿易新報より |
近江二郎、野島左喜子(坂東音芽)とも喜楽座を去ってからすでに7年も経っている上に、かたや郷里の金沢に根を下ろして活動し、かたや浅草や京都、名古屋などを巡業している身ですから、両名の接点がどこにあったのか、さっぱりわかりません。またアメリカ巡業に同行するに至る経緯もまったく不明です。
妄想まじりの可能性としては、近江一座の金沢興行があって、そこで再会、なんていうのがもっとも確からしい推測ですが、いまのところそうした事実確認はできていません(そもそも近江一座は金沢で公演したのだろうか?)。
さて、アメリカへの出発前日、横浜の新聞には社を訪れたという近江一座(女優たち)の写真が掲載されます。
その説明文の中に「野島咲子」の名前がありますが、これは左喜子で間違いなさそうです。ただ、写真が不鮮明な上に、順番がわからないので、残念ながらどれが野島左喜子なのかははっきりしません(たぶん左端じゃないかな?)。
1930(昭和5)年10月17日付横浜貿易新報より |
一方、アメリカ側の邦字新聞『日米』に掲載された秩父丸の船客名簿には、横浜から乗船した客の中に彼女の本名である「島崎きくの」の名前も見ることができます(三面)。また同じ面の記事中には一座の俳優名が載っていて、野島左喜子の名前を確認することもできます(→こちら)
さらには、同じ『日米』10月26日付紙面には近江二郎一座の広告が半面いっぱいの大きさで掲載されてますが、ここには野島左喜子の写真も掲載されているのです(→こちら)
ただ、ここで気になるのは「小松乙女」とキャプションのついた写真です。この記事を閲覧した当初から、一座の役者に「小松乙女」の名前がなく、ずっと不思議に思っていましたが、「乙女」と「音芽」の近似から調べてみたところ、『七尾町旧話』という本の中に、以下の記述があることを知りました。
"(音芽は)粟ヶ崎遊園に出たり、酒井淳之助一座に入って亜米利加・満洲・朝鮮・九州と旅廻りに出た所属劇団によって、野島左喜子・小松乙女と名のっていた"(『七尾町旧話』248ページ)
となると、広告のキャプションには誤りがあって、どちらかの写真が野島左喜子(小松乙女)で、もう一方は別人という可能性が高くなります。はっきりはしませんが『石川れきはく』に載っている写真からすると、近江一座の広告で「小松乙女」とされている方が近いようにも思いますが、よくわかりません(どなたかわかる人がいたら教えてください)。
(酒井淳之助一座は近江二郎一座の誤りだと思うけど、酒井淳之助のところにもいたのだろうか?)
アメリカでの近江一座の公演はとても好評だったそうで、その前に渡米していた遠山満一座を超える人気だったとも言われています。
そのために期間が延長されたのかどうかはわかりませんが、西海岸での巡業は年を跨いで翌1931(昭和6)年2月いっぱいまで続き、さらに一行はハワイに渡って、4ヶ月にわたる巡業をスタートさせるわけで、結局、近江一座のアメリカ巡業は1930年11月から1931年6月いっぱいまで、7ヶ月にも及ぶものでした(行き帰りの移動を含めると都合8ヶ月)。
『越境する歌舞伎』にも言及がありますが、戦前に海外巡業するバイタリティーには驚かされますし、その数の多さと期間の長さにもあらためて目を見張るものがあります。ただ、古い新聞を見ていると「小笠原巡業」などという言葉も出てくるので、そもそも国内巡業が当たり前のような劇団にとっては、ハワイも西海岸も巡業の延長線上だったのかもしれません。
さて、近江一座のアメリカ興行については邦字新聞に頻繁に記事が掲載されますが、劇評という性格の記事はそれほど多くありません。調べた中では唯一、3月16日付、ハワイの『日布時事』に前日の公演について比較的長文の評が出ています。
演目は「悪剣村正」と「金色夜叉」の2本立て。野島左喜子の配役は「悪剣村正」では銀造女房お瀧、「金色夜叉」では赤樫満枝。その演技について
"お宮(深山百合子)は一座のピカ一女優だけ容姿もよく藝も流石に甘い(うまい)、赤樫満枝に扮した野島左喜子のハツキリした䑓詞、こなれた藝風が目立つた"
(『日布時事』1931(昭和6)年3月16日付・三面)
と評されています。
勝手な推測で、近江一座に野島左喜子が参加した理由は、女役者の経験を買われて、アメリカ受けを狙った歌舞伎(や歌舞伎風の芝居)を上演するためなのかなと思っていましたが、こうした劇評を見ると、やはり新派の女優としての役割を期待されていたのだろうし、その期待に応える舞台をつとめていたことがわかります(そもそも近江一座の演目からして新派・剣劇がメインだし)。
1931(昭和6)年7月6日、近江一座一行は横浜に帰ってきます。翌日の新聞には凱旋将軍のような誇らしげな近江二郎の写真が掲載されますし(1931(昭和5)年7月7日付横浜貿易新報)、『日布時事』には近江二郎からのお礼状が掲載されたりもします(1931年8月1日付・四面)。
その後、一座は浅草などで帰朝公演のようなものをやっていますが、そこに野島左喜子が参加していた記録は見つかっていません。さらには帰国から一年後、近江一座は「グロテスク劇場」と銘打った興行で評判になりますが、そこにも野島左喜子の名前はみられません。
どうやら彼女はアメリカから帰国後、すぐに金沢に戻ったと考えられそうです。渡米の前年(昭和4年)に粟ヶ崎遊園は火事に見舞われ、再建したばかりでしたから、郷里の劇場が気がかりだったのかもしれません。
またまた余談のようですが、アメリカ巡業の役者一覧にある「戸田史郎」は本名を「近江資朗」といい、近江二郎の実弟です。また春日早苗という人は本名(旧姓)井口九女子で、のちに近江資朗と結婚します。
その夫妻の娘にあたる方から話を聞いた際、一座のメンバーはアメリカでチャップリンの家を訪問したり(トイレの床が水槽になっていて金魚が泳いでいたとか)、撮影所見学などもしていたらしいので、アメリカのエンターテイメント業界にダイレクトに接する機会も多かったのではないかと推測できます。
そんなアメリカでの経験が野島左喜子(坂東音芽)の芸にどんな影響を与えたのかというのは興味深いところではありますが、私の調査範疇からは大きくはみ出すことで、どなたかが詳しく調査研究してくれないかしらん、とひそかに期待しています。
そんなこんなで、今回は近江二郎と野島左喜子(坂東音芽)の関係について少し調べてみました。
大高よし男とはあまり縁がない話ですが、関東大震災後の横浜の演劇を考える上では、これまでスルー気味にしていた喜楽座についても、もう少し調べてみた方がいいのかもしれません(思いもかけないところから大高との関係が出てくるかもしれないし…)。
(とはいえ、さすがに付け焼き刃のネタも尽きてきましたので、たぶん次回はまた別の話…)
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