(82) 川上好子の足跡探し(日吉劇を追って)

主宰する劇団の公演があったので、ずいぶん間が空いてしまいましたが、ようやく残務も片付いて大高調査も再開です。


大高(前名の高杉弥太郎も含む)の痕跡がなかなか見つからないことから、ひとつの手がかりとして日吉良太郎一座にいた川上好子の足跡をたどることで大高との接点を探ってみようというのがこのところの方針です。

というわけで、「復興博の女神」に入選した昭和10年から大高と共演した記録のある昭和15年まで、特にこれまで調査対象にしてこなかった昭和10年と昭和11年の横浜貿易新報をつぶさに見ていくことにしました。


昭和10年4月から7月までの調査では、川上好子の動向はわかりませんでしたが、同年7月5日に日吉良太郎一座の巡業スケジュールが掲載されていました。

1935(昭和10)年7月5日付横浜貿易新報より

この時期の日吉一座は横浜歌舞伎座ではなく、伊勢佐木町の敷島座を横浜での拠点としていましたが、夏季は主に甲信地方を巡業するのが恒例だったようです。特に長野での人気は絶大で「信州の団十郎」との異名をとっていたそうです(「松本市史」や「松代町史」「大町市史」などには日吉良太郎の名前が出てきます)。

日吉良太郎は信州と横浜での人気が高かったとはいうものの、7月から9月までの夏季巡業というスタイルには「東京の人気劇団による地方巡業」というより、そこはかとなく「ドサまわり」の雰囲気を感じてしまいます(このあたりの感覚はもう少し調べないとわからないところです)。

それがこの2年後、昭和12年には東京の大劇場である江東劇場で柿落し興行をやることになるのですから、どこをどう飛躍すればそんなことになるのか、川上好子が所属していた昭和10年代初めの日吉一座については、まだまだ調べることが山積です。

さて、話が脱線しましたが、その記事による昭和10年7月前半の日吉一座・夏季巡業はこんな感じです。

7月5日〜9日 八王子 関谷座
7月10日、11日 山梨県猿橋町 白猿座
7月12日、13日 長野県富士見村 富士見劇場
7月14日〜16日 長野県〇〇村 常盤座

現代的な感覚からすると、なかなかのハードスケジュールな感じがあるものの、当時の巡業としてはそんなに珍しくなかったことでしょう。記録はありませんが、この年の巡業座組の中には川上好子もいたはずです。


上記劇場のうち、八王子の関谷座はオークションサイトに絵葉書がありました。なかなか立派な劇場です。「消えた映画館の記憶」によると、関谷座は昭和13年には映画館に転向し「東宝映画劇場」と改称されますが、昭和20年8月の空襲で焼けてしまったそうです。

猿橋町の白猿座についてはかなり詳細に調べてあるサイトがあって助かりました。この劇場は戦後も残っていたそうですが、映画に押され、老朽化も進み廃屋同然になっていたのが、昭和47年に失火で焼失したのだとか。しかし、衣装や大道具などは残ったそうで、白猿座の記憶は「大月こども歌舞伎」として継承されているようです。


さて、またぞろ話を戻すと、以前にも投稿したように入手した昭和12年の日吉一座巡業時のプログラムに川上好子の名前がないこと、さらには昭和13年6月、日吉一座が横浜での拠点を横浜歌舞伎座に移した際の配役一覧の中にも川上好子の名前がないことから、今回調べようとしている昭和10年4月から昭和12年の夏までのどこかで、川上好子は日吉一座を離れて独立したのだろうと推測されます。

1938(昭和13)年6月3日付横浜貿易新報より
(川上好子の名前はない)

川上好子が籠寅演芸部に所属していたことは間違いなさそうなので、独立後、おそらく同じ籠寅傘下にいたであろう大高(高杉)がどう関わってくるのかが今後の調査の焦点です。


→つづく

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(81) 川上好子のこと

大高よし男の経歴を探るにあたって、近江二郎との関係が鍵になると思っているところですが、昭和14年以前の手がかりが見つからず難航は続いています。

そんなこんなで、今回も周辺情報から。

昭和16年4月23日から神奈川県新聞で「横濱に住む俳優群を語る(横濱演劇懇話會調)」という連載が始まります。

1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より


ここで取り上げられている俳優は以下の方々です(掲載順)。

市川団之助
市川升紅
石原美津男
市川新升
市川荒右衛門
市川茂々市
市川三蔵
大谷門二郎
澤村清之助
市川莚蔦
澤村訥美太郎
中村芝梅
市川島蔵(?)
市川蔦之助
市川荒子
市川筆之助
佐久間實
澤村訥紀十郎
静川君之助
林重四郎
北島晋也
牧野映二
生島波江
藤代朝子
岡田梅男
小金井秀夫
水の江城子
※川上好子
曾我廼家明石
五月信夫
静間■
嵐傳五郎
嵐ひろ子
市川コズエ
橋本梅蔵
中島三浦右衛門
佐藤幾之助
佐藤新十郎
荒井信夫
尾上梅代
三島啓介
松井幾人
松岡壽美子
中川清
青木俊二
池田富雄
市川三之助
佐上善行
澤村清枝
大江美智子
藤原かつみ
伊藤三千三
吾妻千恵子
大江美加(?)子
星十郎
関谷妙子
★近江二郎
★深山百合子
★衣川素子
勝川三次
★戸田史郎
尾上羽多丸
松本米世
青柳早苗
三井一枝
久松勝代


この中には当時、すでに引退している俳優も含まれていますが、昭和16年の段階でこれだけの役者が横浜に住んでいたというのは驚きです(記事中に「横浜歌舞伎座の日吉劇、敷島座の籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、実態としてはもっと多くなるはずです)。


それぞれの方の経歴も演劇史的には興味深いものばかりですが、それはいずれ別にまとめるとして、やはり気になるのはこの中に「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前がないことです。

戦前、戦中、戦後と、大高がどこに住んでいたのかはまったく不明です。戦後はさすがに杉田や弘明寺あたりにいただろうとは想像できますが、それ以前については手がかりがありません。

ただ、上記の記事に彼の名前がないことからすると、大高は横浜に住んでいなかったか、少なくともこの記事をまとめた小林勝之丞を含む横濱演劇懇話會のメンバーは、大高を「横浜の俳優」とは認識していなかったのだと考えていいでしょう。近江二郎や妻・深山百合子、子・衣川素子、弟・戸田史郎が載っているのですから(★印)、大高が近江二郎のように横浜在住の役者だと思われていたとしたら、ここに載っていておかしくないはずです。

前述の通り、記事には「籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、大高はその「別」に含まれているのかもしれませんが、籠寅がらみの役者が何人か掲載されているので、大高が掲載されていないのはちょっと不自然です。

(もっとも、この記事自体、戸田史郎の本名を「笠川四郎」としている点など(実際は「近江資朗」)、誤りも多そうなので、資料としての信憑性には若干の疑義があります)


前回の投稿でも言及しましたが、ここには「川上好子」が掲載されています(※印)。川上好子という名前は昭和10年の「復興博の女神」コンテストで7位に入選した日吉劇の女優として、また昭和15年に近江二郎一座と共演している(つまり大高と共演している)一座の座長として記録がありますが、この両者が同一人物なのかはよくわかりませんでした。


ですが、復興博の女神コンテストの翌年、昭和11年1月に横浜貿易新報に掲載された「熱と力の俳優『日吉』を語る」という座談会記事の中で

北林(透馬)「『男は泣かぬ』に出てゐる、川上好子、あれは巧いですね」
小林(勝之丞)「横濱で生れた優です」

と言及されていることから、川上好子はもともと日吉一座にいたのが、独立して女剣劇の一座を成したのだと考えて間違いなさそうです。

1935(昭和10)年1月23日付横浜貿易新報より


大高一座に参加していた生島波江も同じような経過をたどっているように思われますが、全国的な知名度の上では川上好子の方がはるかに上だったようで、以前にも紹介した通り、木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年発行)に人気の女剣劇座長として写真が掲載されています。復興博の女神に入選した昭和10年から、昭和15年までの間に川上好子は日吉劇から独立したのでしょう。

昭和15年に敷島座で近江一座と共演した川上は、その後もしばらくは近江一座と行動を共にしています。大高の足跡は近江一座だけでなく、川上一座に刻まれている可能性も否定できません。その前後の川上好子の動向を調べることも、手がかりになりそうです。


→つづく

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(80) 復興博の女神

関東大震災からの復興をアピールする目的で、昭和10年3月26日から5月24日まで、山下公園を中心に「復興記念横浜大博覧会」という催しが開かれます。

これに先駆けて新聞社の「横浜貿易新報」が「復興博の女神」という、ミスコンみたいなことをやったそうです。そのことは小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』に書かれていたので、以前から情報としては知っていました。


先日、図書館で当時の新聞を閲覧してみたところ、これが想像以上に大きな扱いで(自社が主催しているのだから当然ですが)、しかも連日、過熱報道と言えるほどの記事が並んでいて、かなり驚かされました。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より

このコンテストは新聞に投票用紙が掲載されていて、読者がこれぞという女性に投票し、1ヶ月間の得票数で順位が決まるというものでした。ですから、審査員が1位を決めるようなミスコンとはちょっと毛色が異なり、人気投票のようなものだったのでしょう。対象も一般人ではなく、芸妓やカフェの女給などだったようです(いまと違って一般女性がそういう対象になるという概念がなかったのでしょうね)。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より
(投票用紙の横にいま朝ドラで話題の「明治大学女子部」の広告がある)

復興博の女神に選ばれると

  • 当選者30名を「復興博女神」として、横浜貿易新報社特製の帯留を贈呈
  • 1位〜5位には訪問着を贈呈
  • 当選者30名を新聞1ページのグラビアで紹介する
  • 復興博期間中に開催する「商工祭」の仮装行列で花車を作る

という特典があったそうです。賞品云々というより、新聞に写真が掲載されたり、仮装行列に出たりと、選ばれた人たちからすれば自分自身や店の宣伝の方が目的だったことでしょう。


演劇研究家である小柴さんがこれを取り上げている理由は、「復興博の女神」で第1位になったのが日吉劇の看板女優「花柳愛子」だったからです。

花柳愛子は座長・日吉良太郎の妻でもあり、コンテストにおいては日吉一座がかなり強力にバックアップ、というか組織票の取りまとめみたいなことをやったような気がします。そもそも女優が選ばれること自体、顔ぶれの中ではかなり異色だし、当初低迷していた花柳愛子の順位が急激に上がってくるのも、不自然と言えば不自然な感じがするところです。

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より


とはいえ、そもそもが人気投票という性格のものですから、組織票ではあってもそれだけの票を集めることが人気の証しなのでしょうし、これが日吉一座としては絶好の宣伝機会になったことでしょう。こういうものに目をつけるあたり、日吉良太郎の興行師としてのしたたかな戦略を感じさせます。

ともあれ日吉劇の看板女優はめでたく第1位を獲得したわけで、開票の翌日には日吉良太郎と敷島座(当時の日吉劇の拠点)の連名で当選御礼の広告が出ています。

昭和10(1935)年3月28日付横浜貿易新報より


実は、大高よし男を調べている僕としては、花柳愛子もさることながら、同時入選している「川上好子」の方が気になるのです(日吉劇団からは二人の女優が選ばれた)。

というのも、大高よし男が高杉弥太郎として近江一座とともに横浜敷島座に登場した時の座組が、酒井淳之助一座に近江二郎一座と川上好子一座が特別加盟した合同公演という形だったからです。

昭和15(1940)年3月7日付横浜貿易新報より

この時の川上好子と日吉劇にいた川上好子が同一人物なのか、はっきりしませんが、別の記事には「横浜の名花」と形容されていますし、さらに後年の記事では横浜在住の俳優として紹介されているので、川上好子はもともと日吉劇にいたのが、独立して一座を成したと考えるのが妥当な気はします(この時は「籠寅演芸部専属」となっています)。

昭和16(1941)年4月26日付神奈川県新聞より

同じ舞台で共演していることからして、当然、川上と大高は知り合いだったと考えられます。川上好子が日吉劇にいたとすれば、戦後の大高一座に日吉劇のメンバー(藤川麗子・生島波江・壽山司郎)が参加した経緯に、川上の存在が何らかの形で影響したのかもしれません。

そんなことも含めて、川上好子の詳しいプロフィールや、大高よし男との関わりについても、もう少し深く調べてみる必要がありそうです。


余談ですが、復興博の女神・花柳愛子は本名を「北村きく」といい(日吉良太郎の本名は北村喜七)、1985年、横浜市中区役所が『中区史』を発刊する際、彼女は資料提供や聞き取り調査で協力をしていました。

『中区史』より資料提供者リスト(一部)


『中区史』には花柳愛子が提供した日吉劇の写真が掲載されているほか、日吉一座が拠点としていた横浜歌舞伎座の写真も載っています。

『中区史』より横浜歌舞伎座

掲載されている横浜歌舞伎座の写真をよく見ると、入口の看板には

「兄妹の心」
「何が彼女を殺した?」
「血達磨伝令兵」

の三演目が掲げられていて、これを小柴さんのまとめた資料(『郷土よこはま』No.115)と照らし合わせると、撮影されたのは、日吉一座が横浜歌舞伎座に初お目見得して数ヶ月後、昭和13年10月7日から13日の間だとわかりました。

写真の奥には劇場前に自転車が並んでいるのが写っています。また、その前の壁面には「演劇報国」という字が大きく書かれているように見えます。「演劇報国」は日吉一座のモットーで、こんなふうに劇場前に掲げていたのかと思うと、やはり時代を感じさせるところですね。


『中区史』に載っているこの写真は、残念ながら市立図書館のデジタルアーカイブでは公開されていないようで、原本がちゃんと保管されているのかどうかいささか心配になります。


→つづく

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