主宰する劇団の公演があったので、ずいぶん間が空いてしまいましたが、ようやく残務も片付いて大高調査も再開です。
大高(前名の高杉弥太郎も含む)の痕跡がなかなか見つからないことから、ひとつの手がかりとして日吉良太郎一座にいた川上好子の足跡をたどることで大高との接点を探ってみようというのがこのところの方針です。
というわけで、「復興博の女神」に入選した昭和10年から大高と共演した記録のある昭和15年まで、特にこれまで調査対象にしてこなかった昭和10年と昭和11年の横浜貿易新報をつぶさに見ていくことにしました。
昭和10年4月から7月までの調査では、川上好子の動向はわかりませんでしたが、同年7月5日に日吉良太郎一座の巡業スケジュールが掲載されていました。
1935(昭和10)年7月5日付横浜貿易新報より |
この時期の日吉一座は横浜歌舞伎座ではなく、伊勢佐木町の敷島座を横浜での拠点としていましたが、夏季は主に甲信地方を巡業するのが恒例だったようです。特に長野での人気は絶大で「信州の団十郎」との異名をとっていたそうです(「松本市史」や「松代町史」「大町市史」などには日吉良太郎の名前が出てきます)。
日吉良太郎は信州と横浜での人気が高かったとはいうものの、7月から9月までの夏季巡業というスタイルには「東京の人気劇団による地方巡業」というより、そこはかとなく「ドサまわり」の雰囲気を感じてしまいます(このあたりの感覚はもう少し調べないとわからないところです)。
それがこの2年後、昭和12年には東京の大劇場である江東劇場で柿落し興行をやることになるのですから、どこをどう飛躍すればそんなことになるのか、川上好子が所属していた昭和10年代初めの日吉一座については、まだまだ調べることが山積です。
さて、話が脱線しましたが、その記事による昭和10年7月前半の日吉一座・夏季巡業はこんな感じです。
7月5日〜9日 八王子 関谷座7月10日、11日 山梨県猿橋町 白猿座7月12日、13日 長野県富士見村 富士見劇場7月14日〜16日 長野県〇〇村 常盤座
現代的な感覚からすると、なかなかのハードスケジュールな感じがあるものの、当時の巡業としてはそんなに珍しくなかったことでしょう。記録はありませんが、この年の巡業座組の中には川上好子もいたはずです。
上記劇場のうち、八王子の関谷座はオークションサイトに絵葉書がありました。なかなか立派な劇場です。「消えた映画館の記憶」によると、関谷座は昭和13年には映画館に転向し「東宝映画劇場」と改称されますが、昭和20年8月の空襲で焼けてしまったそうです。
猿橋町の白猿座についてはかなり詳細に調べてあるサイトがあって助かりました。この劇場は戦後も残っていたそうですが、映画に押され、老朽化も進み廃屋同然になっていたのが、昭和47年に失火で焼失したのだとか。しかし、衣装や大道具などは残ったそうで、白猿座の記憶は「大月こども歌舞伎」として継承されているようです。
さて、またぞろ話を戻すと、以前にも投稿したように入手した昭和12年の日吉一座巡業時のプログラムに川上好子の名前がないこと、さらには昭和13年6月、日吉一座が横浜での拠点を横浜歌舞伎座に移した際の配役一覧の中にも川上好子の名前がないことから、今回調べようとしている昭和10年4月から昭和12年の夏までのどこかで、川上好子は日吉一座を離れて独立したのだろうと推測されます。
1938(昭和13)年6月3日付横浜貿易新報より (川上好子の名前はない) |
川上好子が籠寅演芸部に所属していたことは間違いなさそうなので、独立後、おそらく同じ籠寅傘下にいたであろう大高(高杉)がどう関わってくるのかが今後の調査の焦点です。
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。
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