(108) 人間ポンプ、ふたたび

何かと話題の大阪万博にちなんでというわけではありませんが、今回は博覧会ネタ。


戦後の横浜では、戦災からの復興を期して、3ヶ月にわたる「日本貿易博覧会」が開催されました(1949(昭和24)年3月15日〜6月15日)

1949(昭和24)年3月16日付神奈川新聞より

会場は野毛山と神奈川(反町)の二カ所。

博覧会ですから、今でいうパビリオンがさまざまな展示を行っていたわけですが、そのほかに、野毛山には「野毛山ホール(小劇場)」「野外劇場」「水中レビュー館」、反町には「演芸館(芸能館)」などがあって、レビューやら見世物やらお化け屋敷やら素人芸能大会やら、連日盛りだくさんのイベントが行われていたそうです。

特に神奈川会場の演芸館は東宝の直営で、エノケン一座などの興行も行われました。1,500名収容といいますから、事実上の「大劇場」だったのでしょうね。

その建物はもともと土浦海軍航空隊の格納庫だったのを貿易博のために移築したのだとか。博覧会後は体育館となり、のちには横浜市民に馴染み深い「神奈川スケートリンク」として長く使われていました(2014年閉館・改築)。いまになって思い起こせば、なるほどスケートリンクにしてはちょっと変わった形状の屋根が印象的でした。


上掲のように、当然ながら当時の新聞では、貿易博が大きなニュースとして取り上げられていました。関連記事も連日掲載されましたが、その中にちょっと目をひくものがありました。

貿易博の各施設におけるイベント(余興)に参加する芸人・芸能人たちの座談会です。

1949(昭和24)年3月29日付神奈川新聞より

記事の見出しにもあるように、なんとこの中に「人間ポンプ」こと、あの有光伸男が夫人、マネージャーとともに登場するのです!

同上

同上


人間ポンプ・有光伸男といえば、以前にもこのブログに書きましたが(こちら)、1941(昭和16)年、伊勢佐木町・敷島座の9月興行に松園桃子一座が来演した際、幕間の舞台に出ていた人で、その時の松園一座には高杉弥太郎時代の大高よし男も参加していたので、大きな意味で言えば、大高と共演していたと言ってもいい異色の芸人です(昭和17年1月にも川崎大勝座で大高と共演→こちら)。

鉄の胃を持つ男として浅草はじめ、全国的に人気のあった芸人といえましょう。

1941(昭和16)年9月15日付神奈川県新聞より

人間ポンプ有光伸男
1941(昭和16)年8月25日付神奈川県新聞より

そんな有光が、戦禍を生き延び、ふたたび「人間ポンプ」として横浜の舞台に登場したというわけです。大高の共演者という意味でも、感慨深いものがあります。


さて、戦後のこの記事では、有光の紹介もなされますが、胃の謎については九州帝大で診察(研究調査)をしてもらったことなど、戦前の情報とほぼ同じもので、こんなことがマネージャーの井口一夫氏によって語られます。

"有光は胃の中でも甘い辛いがわかるのです 九州帝大で診てもらった結果、学問的に神経過敏症というのだそうですが、刃物なぞ呑んでも粘液が多く出てくるんでしまうのであぶなくないのです"(原文ママ)

有光本人によれば、こうした芸ができるようになったのは

"七ツ位からですが、親兄弟みんな食べたものは牛みたいに反すうすることが出来ます。子供の時からサーカスが好きで興業に身を投じたのですが、一時教員をやつていた母に勘当されたこともあつた"(原文ママ)

のだそうです。

さらには、このブログとの関わりの中で、興味深い発言もありました。

"戦時中は健全娯楽でないと軍に止められたので、関東では十年振りです"

10年ということは、大高と同じ舞台に立った昭和17年あたりを最後に関東の舞台からは遠ざかっていたということなのでしょうか。

当時は、戦争にともなう大衆の不満が軍に向かないよう、政府がしきりに娯楽を奨励していました。戦時中というと歌舞音曲の禁止、といったイメージですが、むしろ庶民の目を逸らすための娯楽が盛んに行われていたのです。

とはいえ、人間ポンプのような芸は「健全娯楽ではない」と断じられていたことがこの発言からわかります。剣劇なども制限を受けていましたが「健全」を誰が決めるのか、また「不健全」の基準がどこにあるのか、いずれもよくわからないところで、有光もずいぶん悩まされたのだろうと推察します。


発言の中に「関東では」という保留のある通り、『松竹七十年史』によれば、昭和18年8月・弁天座(大阪道頓堀)、昭和18年9月・松竹劇場(京都新京極)に人間ポンプの記録がありますので、関西方面ではまだ活躍の場があったようです。

地方都市での興行もあったのだろうと推測されますが、浅草や横浜の興行が禁じられたのですから、苦しい時代だったことでしょう。

(その後の調査で、昭和18年7月16日付の東京新聞「八月の大衆劇壇」の欄にも有光の名前がありましたが、「警視廳が許可すれば人間ポンプ有光伸男が加はる」とあることからも、彼の置かれた状況が垣間見えます)


ところで、戦後のインタビュー記事によると有光伸男は「非常に立派な体格をしている」のだそうです。対談に同席していた夫人は

"舞台が終つて鶴見の花月園に帰るときは坂道を私を背負つて帰つてくれますわよ"

と、惚気話のようなことも話しています。

上掲、昭和16年の新聞記事には、敷島座に来演した有光が「殊の外、横濱が好きになつて朝早くから市中の名勝を探つてゐる」とありますので、そんなのもあって鶴見の花月園あたりに居を構えたのでしょうか。

いずれにしても、大高がらみで注目していた有光伸男が横浜に再登場したというのは、身内でも関係者でもないのに、なんだかとても嬉しくなってしまいます。


さて、華々しく開幕した日本貿易博覧会ですが、収支でいうと大きな赤字で、その後の横浜市の財政をかなり苦しめる結果となったようです。

しかし、閉幕後、貿易博の施設が「野毛山動物園」や「野毛山プール」(2010年解体)、前述の「神奈川スケートリンク」(2014年閉館)など、数々の市民利用施設に転用されたことを思うと、長い目で見れば、横浜市民にとっては意味のある博覧会だったのかもしれません。

そういう記憶もすっかり薄れてしまいました…





「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

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2 件のコメント:

うめちゃん さんのコメント...

100回を超えたので、目次がほしいですね~。あの記事は確か50回目に出ていたなぁ、というときに便利だと思います。

FT興行商社 さんのコメント...

ありがとうございます。たしかに目次的なものがあると便利ですね。考えてみます。