(87) 戦後名古屋の近江二郎

近江二郎は昭和24年5月29日に亡くなるので、戦後の活動期間はそう長くありません。

これまでわかっているのは、昭和21年1月下旬から2月始めまでの10日間、杉田劇場で公演していることと、同年3月23日からの弘明寺銀星座の杮落し興行(5月末まで)。その合間の5月1日から再び杉田劇場で10日間。と、これが戦後横浜での近江一座の活動履歴となります。

終戦から年末まで何をしていたのかはわかりません。ただ、少なくとも横浜では彼らが舞台に立っていた伊勢佐木町近辺の劇場は、すべて昭和20年5月29日の横浜大空襲で焼失したため、杉田劇場ができるまで、一座の活動はほぼ休止状態だったと思われます(奇しくも近江二郎の命日は横浜大空襲からちょうど4年後なんですね)。


昭和21年5月いっぱいで弘明寺銀星座での興行を終えた近江二郎は、その後、他の都市を巡業したと考えられます。『近代歌舞伎年表・名古屋篇』第17巻(昭和14年〜22年)を見ると、以下の興行が記録されています。

昭和21年7月 宝生座
昭和21年8月 宝生座
昭和22年3月 堀田劇場
昭和22年5月 宝生座
昭和22年8月 観音劇場

いずれも4日とか1週間とかの短期興行ですから、その合間はこれ以外の名古屋市内の小さな芝居小屋や、岐阜あたりの劇場を巡業していたのかもしれません。戦前・戦中は京都や大阪、おそらく広島や福岡などでも興行していたと思われますので、弘明寺銀星座の後は、そうした地へ戦後の顔見せの意味合いで赴いていたのではないかと想像されます。

ちなみに上記昭和22年5月と8月の興行の記録には二見浦子の名前が出てきます。かつて大高とも共演していた二見浦子が、戦後、近江二郎とも共演しているわけです。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻より


名古屋での興行のうち、うっかり見過ごしていたのが昭和22年3月の「堀田劇場」です。この劇場名は終戦前には見かけたことがありません。

調べてみるとこれは瑞穂区堀田にあった劇場で、「ほりたげきじょう」と読むそう。昭和21年5月に運輸会社を経営していた戸谷兼次郎という方が作った劇場なんだそうです。横浜でも日本飛行機の下請け工場を経営していた高田菊弥が杉田劇場を作ったり、鉄工所の経営者だった長谷巌がアテネ劇場を作るなど、終戦直後は異業種から興行に参入する人が多かったのかもしれません。

記録によれば堀田劇場の所在地は「瑞穂区堀田通8-34」です。名鉄「堀田」駅の駅前にあったと思われます。

『中部日本会社要覧』(1948)より

近江二郎がなぜここで公演したのかについて、詳細はわかりません。

消えた映画館の記憶」によれば、劇場としてはそれほど長く続かず、開場の翌年(つまり近江二郎が興行した年)には映画館に転身していることからして、終戦前までは名古屋でも定期的に活動していた近江二郎の人気を頼みに、劇場経営を軌道に乗せるべく、一座を呼んだとも考えられます。

ウィキペディア・コモンズには、この「堀田劇場」の写真がありました(「堀田東映劇場」と改称されている)。

Nagoya Horita Gekijo in 1956.jpg(ウィキペディアコモンズより)

名古屋の中心部からは少し離れたところに新設されたこの劇場で、近江二郎一座の興行が行われていたわけです。

名古屋のこともあまり詳しくはありませんが、堀田というののは杉田や弘明寺と同じような町なのかもしれません。

(市電「杉田」電停前の「杉田劇場」と名鉄「堀田」駅前の「堀田劇場」、こじつけめいていますが、どことなく親近感を覚えます)

後年のものとはいえ、写真を見るにつけ、ここに近江二郎がいたのかと、しみじみ感慨に耽ってしまいます。


ところで、これまたまったくのこじつけですが、この劇場のあった「堀田」という町からそれほど遠くないところに「大高」という町があります。徳川家康とも縁のある大高城址のある地なんだそうです。いくらなんでも出来過ぎな感は否めませんが、同じ「大高」に何らかの繋がりがないのか、これも精査した方がいいのかもしれません。

この地名は「おおだか」と読むそうで、「大高よし男」のことを今までは勝手に「おおたか よしお」と称してきましたが、もしかしたら正しくは「おおだか よしお」なのかも、と妙な疑問を抱き始めたりもしています。

謎は深まるばかり…


→つづく

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追記:堀田劇場を開いた戸谷兼次郎の「戸谷運輸」は現在も瑞穂区で経営が続いているそうです。すごいですね。


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(86) ふたたび近江二郎

戦前・戦中の大高よし男の活動履歴は、昭和15年3月の横浜敷島座から昭和18年5月の京都三友劇場まで、断続的に痕跡が見つかったものの、それ以外は手がかりが見つかりません。

昭和15年に近江二郎一座が敷島座に登場して以降に大高(高杉)の名前が出てくることから、近江一座のメンバーだったと推測していますが、それ以前の記録がなかなか見つかりません。そもそも、近江二郎がその頃、主にどこの街で活動していたのかについても、年に1〜2回名古屋で興行している以外ははっきりしません。

近江二郎以外にも、日吉一座にいた川上好子と行動を共にしていた可能性も想定していますが、こちらも相変わらずよくわからないままです。


ところで、近江二郎の住まいについては、横浜の井土ヶ谷在住と考えるのが妥当です。その旨の新聞記事がありますし、実弟の資朗氏が井土ヶ谷にいたことや、ご親族からお話を伺った際、戦後、近江夫妻が通町のあたりに住んでいた話を聞いていることからも、横浜が(少なくともひとつの)拠点であったことは間違いなさそうです。

ただ、以前から書いているように『演劇年鑑』(昭和18年版)に掲載されている人名録には、「大阪市生野区鶴橋南王町」という住所が書かれているので、昭和18年当時、近江二郎は大阪にも拠点があったとも考えられ、混乱に拍車がかかっているところです。

『演劇年鑑』(昭和18年版)より

そもそもこの「鶴橋南王町」というのがどんなに調べても出てこない地名で、偽住所じゃないかとの疑惑すら抱きかねないところでした。最近になってふと、これは誤植に違いないと思いつき、あれこれ推測を巡らして、実在した「鶴橋南之町」の誤りだろうとの結論に至った次第。「之」と「王」ですから、まぁ、似ていないこともない。

調べてみると「鶴橋南之町」はもともと東成区だったのが、昭和18年4月に分区して生野区になったようです。JR「桃谷」駅の近くで、昭和48年に住居表示が変更になるまではこの町名が残っていたそうです(生野区のウェブサイトより)。

と偉そうに書いてはいますが、実のところ大阪のことはまったく門外漢なので、ここがどんな街なのかについてはさっぱりわかりません。

困った時の頼みの綱、国会図書館デジタルアーカイブで検索すると、『演劇年鑑』にある近江二郎の住所「生野区鶴橋南之町1-5765」は、戦前、戦後ともいくつかの資料がヒットしますが、ほとんどが工場の住所で、演劇人である近江二郎との関係は見当たりません。

妻である深山百合子(笠川秀子)にゆかりのある地なのか、パトロンのような人の住んでいた場所なのか、劇場や興行会社の住所なのか、あれこれ想像は膨らみますが、はっきりしたことはわかりません。途方に暮れるばかりです。

(古い地図などでさらに詳しく調べてみたところ「鶴橋南之町1-5765」は現在の「生野区桃谷1-4」、桃谷駅前の一角だとわかりました)


ちなみに昭和18年から19年にかけての近江一座の活動は

昭和18年
 1月 横浜敷島座
 2月  不明
 3月 名古屋宝生座
 4月 大阪弁天座
 5月  同上(18日まで)
 6月  不明
 7月  不明
 8月 川崎大勝座・横浜敷島座
 9月 横浜敷島座
10月 川崎大勝座
11月 大阪弁天座
12月 京都新富座


昭和19年
1月 川崎大勝座
2月  不明
3月 川崎大勝座
4月 横浜敷島座
5月 横浜敷島座
6月 川崎大勝座
7月  不明
8月  不明
9月 名古屋黄花園
(以下不明)

となっています。

見てわかる通り、特段、大阪や京都が多いというわけでもなく、むしろ横浜や川崎がメインという気さえします。なのになぜ『演劇年鑑』の住所が大阪になっているのか(ちなみに日吉良太郎の項には横浜・井土ヶ谷の住所が書かれています)。

この近江二郎の謎を解くこともこの先の調査の重要なテーマで、これが大高の経歴の手がかりにつながることをひそかに祈っているところです。


それにしても近江二郎のことを考えるにつけ、以前にも書いたように((69) 近江資朗取材記(その1))、近江夫妻の子(養子)である元子さん(芸名・衣川素子)の書いた手記にある

「二代目を名乗るべき人が交通事故で他界」

という記述が気になって仕方ありません。

大高よし男は生きていたら二代目近江二郎になっていたのでしょうか。それとも見当違いな妄想なのでしょうか。

うぅむ。

ともあれ、旧杉田劇場と大高よし男と近江二郎。やはりこの三者の関係が調査のキーであることは間違いなさそうです。


→つづく

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(85) 美空ひばりとアテネ劇場

美空ひばりの舞台デビューは1946(昭和21)年3月頃の杉田劇場ということで、地域史を研究されている方々も含め、認識は一致しているところですが、アテネ劇場が先でその後が杉田劇場と書かれている書籍やネット記事などもいまだに多くみられます。

これをさらに混乱させるのが、アテネが当初は「磯子劇場」と呼ばれていたという話もあることや、後年の明細地図でアテネ劇場が「磯子映画劇場」となっていることです。


アテネ劇場は昭和21年9月9日に開場しました。

1946(昭和21)年9月8日付神奈川新聞より

ですから、同年4月10日の杉田劇場の新聞広告に「ミソラ楽団」の文言があり、その頃のものと思われる大高一座のポスターに「美空一枝」の記載があることからすると、アテネ→杉田が誤りであることは明白です。

ただ、もし仮に「アテネ劇場」の前身が「磯子劇場」ないし「磯子映画劇場」で、杉田劇場より前にそうした劇場があったのだとしたら、アテネ→杉田の順もあり得ることになります。


この仮説が、現杉田劇場で「ひばりの日」の企画などをされてるTさん(うめちゃん)ともども、すっきりと事実関係を断定できず、モヤモヤを残していたところでした(Tさんが検証の経緯を書いているブログが→こちら)。

個人的に芦名橋近くに住んでいる年配の知り合い何人かに話を聞いても「磯子映画劇場なんて聞いたことがない。あそこはずっとアテネだ」と言うばかりです。

ふむ。

ところが、先日、中央図書館で日吉良太郎について調べる中、柴田勝著『横浜歌舞伎座の記録(三人の団十郎)』を閲覧していたところ、巻末に、戦後の横浜の劇場に関する記載があって、「アテネ劇場」の項に

「丗五年三月、磯子映画劇場と改称した」

と書かれていたのです。

柴田勝著『横浜歌舞伎座の記録』より

アテネ劇場は昭和21年9月に開場し、昭和35年3月に「磯子映画劇場」となった、というのです。

念のため、新聞記事を確認してみたところ、昭和35年3月30日の映画情報欄に

「アテネ改 磯子映劇」

と書かれているのを見つけました。

1960(昭和35)年3月30日付神奈川新聞より

これでアテネ劇場の前身が磯子映画劇場ではないということがはっきりしたのです!(ちなみに新聞では前日の3月29日までは「アテネ」としか書かれていない)


戦時中に日用品市場だったところを、戦後になって改装し、昭和21年9月9日にアテネ劇場として開場。昭和35年3月30日に磯子映画劇場と改称した。これがアテネに関する情報としては正しい流れになります。

ですから、やはり美空ひばりは昭和21年3月頃に杉田劇場で舞台デビューし、その後、アテネ劇場の舞台に立ったというのが正確な情報ということになります。


というわけで、今回は大高調査の過程で判明した美空ひばり舞台デビューについて書きました。


追記
同じ日に『西区史』も閲覧して西区にあった劇場について調べました。その結果、前々回の投稿( (83) 戦前の杉田と芝居小屋)に一部誤認があったので追記しました。また、平沼の「由村座」で、関東大震災後に近江二郎一座が興行していたという記載も見つけたので、大高とは直接の関係はないと思われますが、今後、調べてみたいと思います。日吉一座が横浜に初登場したのも昭和8年らしいし、大正末期から昭和ひと桁の時期を追加調査しないと、原点が見えない気がします。調査範囲がどんどん広がる…

→つづく

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(84) 『演劇界』の河上好子など

これまでも折に触れて調べてはきましたが、いよいよ新聞だけではなく雑誌の調査にも本格的に着手すべき時期がやってまいりました。とはいっても、大高のような大衆演劇の(おそらく)中堅どころの役者のことが雑誌に載っているかどうか。ともかく新たな資料の森に分け入るしかありません。


さて、古い『演劇界』を調べていたらこんな写真がありました。

『演劇界』昭和19年1月号より

「大衆演劇の舞臺相」と題された欄で、浅草公園劇場での「昭和國進劇」の公演写真です。

演目は『赤十字郵便』で役者は右から関根英三郎青柳龍太郎、河上好子とあります。追加で『松竹七十年史』の演劇演芸興行記録や『演劇年鑑』(昭和22年版)を参照すると、これが昭和18年12月1日初日、関根英三郎、市川右之助、青柳龍太郎一座が出演していた舞台であることがわかりました。

ですが、残念ながらいずれにも「河上好子」の記載はなく、これが「川上好子」と同一人物なのか(つまり誤植なのか)は不明ですが、「川上好子」である可能性は高いと思われます(さらに調べてみます)。

この舞台に大高が関わっていたかどうかもわかりません。ですが、いずれにしてもこれが川上好子ならば、昭和15年3月には横浜敷島座で大高よし男と共演している人ですから、なかなかに感慨深いものがあります。


戦後、昭和24年の『演劇界』にはこんな記載もあります。「團之助と語る」と題する市川団之助へのインタビュー記事で、聞き手は演劇研究家・評論家の渥美清太郎

『演劇界』昭和24年6月号より

その後半で渥美がこう言うのです。

「さうさう。死んだ小林勝之丞君と一緒に伊勢崎町(ママ)であなたに逢った事がありましたつけ。その時は弘明寺の日吉良太郎を訪ねたのですが(以下略)」

日吉良太郎は昭和18年の『演劇年鑑』でも、昭和22年の電話番号簿でも「中区井土ヶ谷中町75」が住所になっていますから、「弘明寺の日吉良太郎」というのは渥美清太郎の誤解ではないかと思われます。

伊勢佐木町近辺から市電を使って移動したのだとしたら、1系統ないし10系統の「弘明寺」行きに乗ったはずです(通町あたりで下車か)。そんなところが誤解を生んだのかもしれません。


なお、渥美清太郎が市川団之助と伊勢佐木町で会ったのは、おそらく小林の案内で京浜地区の大衆演劇を見に行った日ではないかと推測されます。この時の記録が『演芸画報』の昭和17年11月号に「東京を離れた 大衆劇めぐり」として掲載されています。

『演芸画報』昭和17年11月号より

一日のうちに、蒲田(出村)の愛国劇場、川崎(堀之内)の大勝座、末吉町の横浜歌舞伎座、南吉田町の金美劇場、伊勢佐木町の敷島座、そして三吉劇場(現・三吉演芸場)と巡ったわけですから、かなりな強行軍です。ちなみにこの時の横浜歌舞伎座では日吉一座は休演中だったようで、そんなこともあって小林の案内で日吉を訪ねたのかもしれません。


実は、以前から新聞紙上などで頻繁に名前を見るのに、この「小林勝之丞」という人のことがよくわかっていません(わかる人がいたらぜひ教えてください)。

横浜貿易新報(神奈川新聞)の娯楽欄ではこの人が主に劇評や演劇関連記事などを書いているし、前掲の『演芸画報』にも時折寄稿しており、昔の役者のこと、昔の横浜演劇界のことなどにもかなり精通している「ハマの演劇通」とでもいうべき人なのでしょうが、劇作もやっていて、本職はなんなのかがよくわかりません。プロフィールもほぼまったくわかりません。

数少ない手がかりとして、長谷川伸の『私の履歴書』に

「その中に横浜の小林勝之丞という人があった。ハマの土木業系の大した顔役で、その頃もう故人であった平塚の福の血筋のものである」(『私の履歴書』第1集,日本経済新聞社 1957 / p.182) 

という記述があります。

ここに書かれた「ハマの土木業系の大した顔役」である「平塚の福」とは、山手のトンネル(麦田のトンネル)を開いた平塚組の平塚福太郎のことだと思われます。その長男が児童文学者の平塚武二ですから、これが正しければ小林勝之丞と平塚武二は親戚ということになります。

平塚組と小林勝之丞との関係ももう少し深掘りする必要がありそうですね。


さて、これまでの調査からもうひとつ。

以前の投稿((75) じゃがいもコンビについて)で日吉劇の朝川浩成と壽山司郎が曾我廼家五郎一座に参加していたことを書きました。朝川のことは新聞記事からはっきりしていましたが、壽山については記憶がはっきりしないと書いています。

ですが、改めて資料を見返してみたところ、これは前述の小林勝之丞が『演芸画報』に寄稿した「曾我廼家五郎の芝居」という劇評の中に書いていたことでした。

『演芸画報』昭和18年4月号より

曰く

「小西行長で登場の新加入幸蝶。音吐朗々と響き鮮やかだつた。此優は新派出の朝川浩成。五郎佳き逸材得たり」
「美聲の團子賣の蝶山は蝶六型の愛嬌者。壽山司郎と云へる是も新派出。五郎劇多彩と云へる」

新派出とありますが、いずれも日吉良太郎一座の出身です。「新派」の定義が難しいところですが、この当時、日吉良太郎一座は分類としては「新派」とされていたのでしょう。

また、今回画像はアップしませんが、『演芸画報』昭和17年10月号には梅島昇の「新派正劇」に日吉一座の「安田丈夫」が参加しているともあります。これはおそらく「安田猛雄」のことだと考えられます。

小林が各劇団に紹介したのか、はたまた引き抜きがあったのか、いずれにしても横浜で絶大な人気のあった日吉一座の役者が、この時期、次々と東京へ進出していったという印象を受けます。

戦後、朝川浩成や安田猛雄は銀星座の自由劇団で、壽山司郎は杉田劇場の大高一座で活躍します。そんな彼らにこういう過去があったのですね。


というわけで、今回はこの先、雑誌の調査に着手するにあたって、ここまで調べてきた雑誌から大高周辺の記録をまとめてみました。横浜は狭い世界でもありますから、想像以上にいろんな人間関係が絡み合っていて、面白いものです。

この先の展開が楽しみになります。


→つづく

「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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