(84) 『演劇界』の河上好子など

これまでも折に触れて調べてはきましたが、いよいよ新聞だけではなく雑誌の調査にも本格的に着手すべき時期がやってまいりました。とはいっても、大高のような大衆演劇の(おそらく)中堅どころの役者のことが雑誌に載っているかどうか。ともかく新たな資料の森に分け入るしかありません。


さて、古い『演劇界』を調べていたらこんな写真がありました。

『演劇界』昭和19年1月号より

「大衆演劇の舞臺相」と題された欄で、浅草公園劇場での「昭和國進劇」の公演写真です。

演目は『赤十字郵便』で役者は右から関根英三郎青柳龍太郎、河上好子とあります。追加で『松竹七十年史』の演劇演芸興行記録や『演劇年鑑』(昭和22年版)を参照すると、これが昭和18年12月1日初日、関根英三郎、市川右之助、青柳龍太郎一座が出演していた舞台であることがわかりました。

ですが、残念ながらいずれにも「河上好子」の記載はなく、これが「川上好子」と同一人物なのか(つまり誤植なのか)は不明ですが、「川上好子」である可能性は高いと思われます(さらに調べてみます)。

この舞台に大高が関わっていたかどうかもわかりません。ですが、いずれにしてもこれが川上好子ならば、昭和15年3月には横浜敷島座で大高よし男と共演している人ですから、なかなかに感慨深いものがあります。


戦後、昭和24年の『演劇界』にはこんな記載もあります。「團之助と語る」と題する市川団之助へのインタビュー記事で、聞き手は演劇研究家・評論家の渥美清太郎

『演劇界』昭和24年6月号より

その後半で渥美がこう言うのです。

「さうさう。死んだ小林勝之丞君と一緒に伊勢崎町(ママ)であなたに逢った事がありましたつけ。その時は弘明寺の日吉良太郎を訪ねたのですが(以下略)」

日吉良太郎は昭和18年の『演劇年鑑』でも、昭和22年の電話番号簿でも「中区井土ヶ谷中町75」が住所になっていますから、「弘明寺の日吉良太郎」というのは渥美清太郎の誤解ではないかと思われます。

伊勢佐木町近辺から市電を使って移動したのだとしたら、1系統ないし10系統の「弘明寺」行きに乗ったはずです(通町あたりで下車か)。そんなところが誤解を生んだのかもしれません。


なお、渥美清太郎が市川団之助と伊勢佐木町で会ったのは、おそらく小林の案内で京浜地区の大衆演劇を見に行った日ではないかと推測されます。この時の記録が『演芸画報』の昭和17年11月号に「東京を離れた 大衆劇めぐり」として掲載されています。

『演芸画報』昭和17年11月号より

一日のうちに、蒲田(出村)の愛国劇場、川崎(堀之内)の大勝座、末吉町の横浜歌舞伎座、南吉田町の金美劇場、伊勢佐木町の敷島座、そして三吉劇場(現・三吉演芸場)と巡ったわけですから、かなりな強行軍です。ちなみにこの時の横浜歌舞伎座では日吉一座は休演中だったようで、そんなこともあって小林の案内で日吉を訪ねたのかもしれません。


実は、以前から新聞紙上などで頻繁に名前を見るのに、この「小林勝之丞」という人のことがよくわかっていません(わかる人がいたらぜひ教えてください)。

横浜貿易新報(神奈川新聞)の娯楽欄ではこの人が主に劇評や演劇関連記事などを書いているし、前掲の『演芸画報』にも時折寄稿しており、昔の役者のこと、昔の横浜演劇界のことなどにもかなり精通している「ハマの演劇通」とでもいうべき人なのでしょうが、劇作もやっていて、本職はなんなのかがよくわかりません。プロフィールもほぼまったくわかりません。

数少ない手がかりとして、長谷川伸の『私の履歴書』に

「その中に横浜の小林勝之丞という人があった。ハマの土木業系の大した顔役で、その頃もう故人であった平塚の福の血筋のものである」(『私の履歴書』第1集,日本経済新聞社 1957 / p.182) 

という記述があります。

ここに書かれた「ハマの土木業系の大した顔役」である「平塚の福」とは、山手のトンネル(麦田のトンネル)を開いた平塚組の平塚福太郎のことだと思われます。その長男が児童文学者の平塚武二ですから、これが正しければ小林勝之丞と平塚武二は親戚ということになります。

平塚組と小林勝之丞との関係ももう少し深掘りする必要がありそうですね。


さて、これまでの調査からもうひとつ。

以前の投稿((75) じゃがいもコンビについて)で日吉劇の朝川浩成と壽山司郎が曾我廼家五郎一座に参加していたことを書きました。朝川のことは新聞記事からはっきりしていましたが、壽山については記憶がはっきりしないと書いています。

ですが、改めて資料を見返してみたところ、これは前述の小林勝之丞が『演芸画報』に寄稿した「曾我廼家五郎の芝居」という劇評の中に書いていたことでした。

『演芸画報』昭和18年4月号より

曰く

「小西行長で登場の新加入幸蝶。音吐朗々と響き鮮やかだつた。此優は新派出の朝川浩成。五郎佳き逸材得たり」
「美聲の團子賣の蝶山は蝶六型の愛嬌者。壽山司郎と云へる是も新派出。五郎劇多彩と云へる」

新派出とありますが、いずれも日吉良太郎一座の出身です。「新派」の定義が難しいところですが、この当時、日吉良太郎一座は分類としては「新派」とされていたのでしょう。

また、今回画像はアップしませんが、『演芸画報』昭和17年10月号には梅島昇の「新派正劇」に日吉一座の「安田丈夫」が参加しているともあります。これはおそらく「安田猛雄」のことだと考えられます。

小林が各劇団に紹介したのか、はたまた引き抜きがあったのか、いずれにしても横浜で絶大な人気のあった日吉一座の役者が、この時期、次々と東京へ進出していったという印象を受けます。

戦後、朝川浩成や安田猛雄は銀星座の自由劇団で、壽山司郎は杉田劇場の大高一座で活躍します。そんな彼らにこういう過去があったのですね。


というわけで、今回はこの先、雑誌の調査に着手するにあたって、ここまで調べてきた雑誌から大高周辺の記録をまとめてみました。横浜は狭い世界でもありますから、想像以上にいろんな人間関係が絡み合っていて、面白いものです。

この先の展開が楽しみになります。


→つづく

「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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