大高よし男の写真を目にすることができて、興奮のあまり根拠のない妄想が膨らむ悪い癖が始まりそうですが、ここはひとつ冷静にならねばと、「大きな誤り」の原因となった浜中学校の学芸会写真の詳細を探るべく、中央図書館で『浜中学校創立50周年記念誌』を閲覧してきました。
結果として学芸会の詳細はわかりませんでしたが、学校建設の経緯を記した文章にハッとさせられました。
曰く
「浜中学校下の長作公園には、もと日本飛行機株式会社の社員寮が、四棟あった。終戦となり、昭和二十年八月以降、進駐軍が接収し、第八軍MP部隊が利用していた。昭和二十二年十二月この土地を国鉄が買収(中略)学校用地を提供することになり、ここに浜中学校の校地が定まったのである」
終戦直後、浜中のあったところには進駐軍がいたのです!
おそらく日本飛行機の寮を接収して米軍の兵舎に転用したのでしょう。
以前、中原の古老に話を聴いた折には、杉田駅西口にあったIHIの寮にも米兵がいたそうだし(おそらく石川島の寮を転用)、白旗に住む女性は自宅で米兵向けの慰安所(いわゆる”パンパン宿”=ご本人がそう言っていた)を開業していたというし、京浜急行の傍にある中原見守地蔵の墓誌には、ここにあった遮断機のない踏切で事故死した米兵の名前が刻まれています。
さらには、市電の終点、杉田電停の少し先にはカマボコ兵舎があり、そこの米兵が旧杉田劇場に入場料を払わずに勝手に入って困ったという話は「片山茂さんの聞き書き」にも記録されています。
(考えてみれば「横浜海軍航空隊(浜空)・日本飛行機・石川島航空工業」という海軍関係施設の玄関口だった杉田は、進駐軍にとって横浜で真っ先におさえるべき街のひとつだったのでしょうね)
かつて杉田駅東口にあった少々薄暗いアーケード街は、闇市からスタートしたそうです。戦災の被害を受けなかったことで、杉田の闇市は野毛などよりも先に営業していたそうですから、絵に描いたような戦後混乱期のカオス状態は、かなり早い時期からこの街に広がっていたのだと思われます。
明るく賑やかな商店街と瀟洒な住宅やマンションが並ぶ現在の杉田・中原からは想像もつきませんが、終戦直後のこの街には、多くの駐留軍(アメリカ兵)が闊歩していたのだろうし、彼らを相手にしたいわゆる「パンパンガール」もいたのだろうと思います。
そういう地に旧杉田劇場は開場したのです。
そこでは大高よし男が人気を博し、幼い美空ひばりがプロデューサー鈴村義二を驚嘆させ、近江二郎や市川門三郎が客席を沸かせ、若き日の千秋実が新しい劇団の旗揚げに燃えていたのです(ごく短期間だけど復員してきたばかりの三船敏郎も住んでいた)。
(まさにカオス…)
戦後の横浜といえば、すぐに野毛の闇市や関内・伊勢佐木町あたりのカマボコ兵舎が思い浮かびますが、それらよりも早く「戦後横浜」の空気と風景が杉田に展開していたのかもしれません。
この地の歴史を見る目をアップデートしなければならない気がしています。
ちなみに、浜中の『50周年記念誌』には「昭和25年3月第2回学芸会(杉田劇場)」というキャプションのついた写真が掲載されていますが、これは舞台のタッパ、客席と舞台の高低差(客席の子どもたちが膝をついて舞台にかぶりついている)からして、杉田劇場とは明らかに違う会場だと思います。
『浜中学校50周年記念誌』(1997)より |
昭和25年1月の杉田劇場 |
昭和27年の学芸会は杉田劇場でやっていて(『安寿と厨子王』)、その写真は残っています。
記念誌にある学芸会の会場は、劇場というより講堂や公民館のような感じで、もっと後年のものじゃないかと思うのですが。
どこなんだろう?
どなたかご存知の方がいたらぜひ教えてください。
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。
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