よんどころない事情で、ひと月ほど図書館に足を運ぶことができなかったので、大高よし男の調査はまったく進んでおりません。ようやく時間がとれるようになってきて、来週あたりから調査再開の予定ですが、どうも頭がまだこっちの世界(?)に戻りきれていないようで、ちょっとしたリハビリ気分で投稿してみます。
というわけで、今回は年末までに収集していた資料から、1951(昭和26)年6月の三吉劇場における「神奈川県歌舞伎連盟結成第一回公演」について考えてみたいと思います。
この公演の広告が最初に出るのは同年5月30日で、「三吉劇場開場一週年記念特別大興行」とも銘打たれています。この連盟についてはかねてからしばしば引用している、小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』の「三吉演芸場」の項目にも記載がありますが、公演があったという記述だけですので、それ以上の詳しいことはわかりません。
そんなわけで、そもそも神奈川県歌舞伎連盟というものがどういうものかわからない上に、これがその後、どんな展開をしたのかも未調査ですから、現段階ではほぼ何もわかっていないと言ってもいい状態です。広告には「市川小太夫劇団」という文字が大きく記されているので、市川小太夫が呼びかけて結成されたように思われます。
広告に掲載されているメンバーは順に
市川小太夫
沢村清之助沢村訥美太郎市川栄舛
市川女猿市川門三郎
森川順三沢村十次郎山﨑撫子市川内弥市川小鼻中村芝寿河部信乃
沢村清枝市川紅昇
紫小春鶴葉子港君代窪登美江
です。
| 1951(昭和26)年5月30日付神奈川新聞より |
「歌舞伎連盟」でありながら、出演者に不二洋子一座の森川順三の名前があるなど、歌舞伎の枠をはみ出しているようにも感じます。一体、どういう団体だったのでしょうか。
歌舞伎役者に限れば、並んでいる名前はいずれも杉田劇場や銀星座でお馴染みの顔ぶれで、戦前の横浜歌舞伎座における「更生劇」の流れと、市川門三郎一座が合わさった合同一座のようにも見えます。杉田や弘明寺で続けられていたいくつかの一座を、戦後の時代に合わせて「連盟」という形で結集させ、横浜(神奈川)における歌舞伎の発展を期した、というようことなのでしょうか。
余談ですが、私が少しだけ関わってきた横浜のアマチュア演劇の世界では、1952年に横浜演劇研究所が設立され、同年(第二次)横浜演劇懇話会ができます。『神奈川県演劇連盟四〇年史』によれば、この懇話会は
「<横浜市教育委員会社会教育課>が推し進めていた市内文化団体の組織化の呼びかけに、市民演劇と職場演劇が賛同するという行政主導で結成された」
のだそうです。
横浜演劇懇話会はのちに「横浜アマチュア演劇連盟」となり(1967〜)、また1960年には全県組織としての「神奈川県演劇連盟」(県演連)が結成されます。これは横浜演劇研究所の加藤衛所長の呼びかけによる「県民劇場建設促進実行委員会」の動きとも連動していたと考えられます。「県民劇場建設促進実行委員会」は「県立青少年センター」の建設(1963)をもってその目的が達成されたとして解散しますが、県演連は存続し、その後、横浜アマチュア演劇連盟と神奈川県演劇連盟が両輪となって、現在に至るまで横浜・神奈川の市民演劇(アマチュア演劇)の発展に寄与してきたわけです(のちに「横浜アマチュア演劇連盟」は「横浜・演劇の会」と名称を変え、現在はほぼ活動休止状態のようですが)。
「神奈川県歌舞伎連盟」に同じような背景があったのかどうかはよくわかりません。文化団体の組織化といった流れの中で、(行政の指導の有無は別として)歌舞伎界もまたその時流に乗ろうと考えたのかもしれません。
以前、市川雀之助についての投稿で、彼が「神奈川縣實演興行組合」の副組合長を務めていたことと、その組合が1951(昭和26)年にできたことを紹介しました(まさに歌舞伎連盟の結成と同じ年)。この時期、市民演劇・職場演劇・歌舞伎・大衆演劇のいずれもが戦後の激動の中で、劇団単体ではなく連盟や組合を結成して、時代の変化に対応しようとしていたようにも見えます(行政の関わりの濃淡はまた別の課題として、別途調査が必要な事柄と感じています)。
閑話休題。
さて、華々しく宣伝していた「神奈川県歌舞伎連盟」の結成公演ではありますが、興行初日の6月1日、新聞紙上に弘明寺銀星座のこんな広告が登場するのです。
| 1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より |
「東京名題大歌舞伎公演 市川栄舛大一座」と銘打たれたこの公演の出演者の中には、なんと
市川栄舛市川女猿沢村清枝
の「連盟」の公演に名を連ねていた3人がいるばかりか(尾上大助の名前もある)、
「他の劇場に出演は致しません」
とはっきり書かれてもいるのです。具体的な劇場名は書かれていませんが、明らかにこれは彼らが三吉劇場の「連盟」の公演には出ないという強い注意喚起(または意思表示)です。
一体何があったのでしょうか。
単にブッキングの行き違いなのか、そもそも連盟結成の方針にまつわる意見の違いなのか。いずれにしても何かがあったことは間違いなさそうです。
結果、「連盟」の公演の顔ぶれから、上記3名の名前は消え
市川小太夫沢村清之助市川猿十郎中村喜昇市川秀猿市川門三郎市川紅昇市川立十郎市川八左衛門市川桔梗市川小昇紫小春鶴葉子港春代坂東寿美子窪登美子
となって、予定通り、6月1日に幕を開けたようです。
| 1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より |
(同じ日の広告ですから、かなり混乱します)
そのほかの大きな変化として、森川順三の名前が消えて、中村喜昇らの名前が登場し、二の替りの最初の演目が「女河内山」から「朧河岸」に変更されています。もしかしたら剣劇を嫌ったのかもしれませんし、森川順三と歌舞伎役者たちの間に何かあったようにも思えますが、これもまた詳しいことはわかりません。
市川小太夫は昭和12年から昭和21年まで「厚生劇団」を主宰していたほか、それ以前には新国劇に客演したり、映画に出たり、関西で大衆劇の劇団(新興座)を立ち上げ、探偵劇などで全国を巡演して人気があったそうですから、そもそもが歌舞伎にとどまらず、ジャンルを越境する人だったようですし、その越境を好んでいたようにも感じます。
そう思うと、新しいものを受け入れる(と思われがちな)土地柄の横浜で、境界を取り払ってさまざまなジャンルを統合し、歌舞伎界(演劇界)に新風を巻き起こそうという目論見で結成されたのが「神奈川県歌舞伎連盟」だったのかもしれません。
そんなこんなで、今回はよくわからないまま「神奈川県歌舞伎連盟」について考えてみました。いまのところ、これ以上の情報がないので、どなたか詳細をご存知の方がいましたら教えてください。
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