名前発見に浮かれ気分のその後、落ち着いていろいろ調べてみたところ、追加で情報が出てきて、大高よし男の軌跡(活動履歴)がほんの少しわかってきました。
時系列でざっくりと並べてみます。
1942(昭和17)年
2月28日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
3月31日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
4月18日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
8月31日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
9月10日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
9月19日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
9月30日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
10月10日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
10月20日~ 京都・三友劇場 伏見澄子一座
1943(昭和18)年
3月1日〜 浅草・金龍館 伏見澄子一座3月16日〜 浅草・金龍館 伏見澄子一座(西条先生のブログにあった興行はたぶんコレ)4月1日〜9日 京都・三友劇場 伏見澄子一座4月10日〜19日 同 二の替り4月20日〜29日 同 三の替り5月1日〜10日 同 四の替り5月11日〜20日 同 五の替り5月21日〜30日 同 六の替り以後の活動履歴は不明※8月1日から11月30日までの京都・三友劇場、4ヶ月に及ぶ伏見一座(剣戟大会)のロングラン興行でしたが、どうやら大高は一度も参加していない模様
1944(昭和19)年
この年の活動履歴不明※8月1日〜31日の京都・松竹劇場、11月1日〜30日の京都・三友劇場における伏見一座にも参加せず
1945(昭和20)年
この年も活動履歴不明
1946(昭和21)年
2月はじめ 杉田劇場に売り込み2月中旬〜 杉田劇場で大高よし男一座(暁第一劇団)興行開始4月1日〜4日 杉田劇場・暁第一劇団興行(推定)4月5日〜8日 同 二の替り(推定)4月9日〜12日 同 三の替り4月13日〜16日 同 四の替り
この間の活動履歴、不明
9月1日〜4日 杉田劇場・暁第一劇団9月5日〜8日 同 二の替り(推定)9月9日〜12日 同 三の替り(推定)9月13日〜15日 同 四の替り(推定)9月23日〜26日 杉田劇場・暁劇団興行9月27日〜30日 杉田劇場・暁劇団興行10月1日夜 木曽へ出発 途中、長野県須原付近で事故死10月2日 岐阜県中津川にて火葬、帰浜
森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房, 1992)によれば、伏見澄子は
"大阪新世界の小さな劇場に出ていたのを籠寅演芸部の保良浅之助が見つけ、大江美智子、不二洋子につづく女剣劇のスターとして売り出しを図った。まず道頓堀の弁天座、浪花座あたりで人気を集め、横浜の敷島座を経て浅草に進出してきたのである"
なんだそうです。ほんの少しですが横浜にも縁があるわけです。もっとも、敷島座に出たのは1933(昭和8)年のことだから、大高が一座に参加していた時期とは10年の隔たりがあります。また、この間に大高との関わりが始まるわけですが、それがいつからで、どの公演からなのかはまだわかりません。
さらに同書には
"伏見澄子は(昭和)十五年八月に公園劇場、十六年七月、八月に松竹座へ出たが、わたしはみていない。そしてそれ以後、東京の舞台から姿を消してしまった。結婚して家庭に入ったらしいが、くわしいことは不明である"
ともあります。
先に紹介した通り、伏見一座は1943(昭和18)年の3月に浅草金龍館での「三座合同競艶大会」に出ているので、情報には若干の誤りもありますが、翌19年11月の京都三友劇場を最後に、伏見一座の情報が途絶えてしまい、戦後の活動も見当たらないことからして、この時期に結婚して家庭に入った(=引退?)としてもおかしくはありません。
(しかしこの伏見澄子という人、「女剣劇三羽烏」のひとりだったはずなのに、どうにも資料が乏しくて実像がよくつかめない)
そんなこともあってか、大高の活動履歴は1943(昭和18)年の初夏には消えてしまうのです。無駄に妄想を逞しくすれば、引退をほのめかす座長に嫌気がさして、一座から距離を置いたのか、妄想を排して真っ当に考えると、召集されて戦地に行ってしまったのか…
女剣劇三羽烏のひとり不二洋子は、雑誌『日本演劇』(昭和20年6/7月合併号)の「大衆演劇座長の苦労ばなし」という、終戦間際とは思えないほど呑気な特集記事の中で、一座に人が足りないとぼやきつつ、"勿論、お召しにあずかったり、徴用に出たりした人も多勢ゐます"と述べているから、実際、役者の中からも兵隊に行ったり、徴用されて工場などで働いていた人は結構いたのでしょう。むしろ今の感覚からすれば、戦時中によくこれだけの芝居をやっていたなと感心してしまうくらいです。もっとも、不二の話には "徴用だといふので暇をとつた人が、隣の芝居に働いてゐるやうなこともよくあります"というオチまでついているのだから、笑っていいやら悪いやら。
ところで、剣劇の公演に際してたびたび出てくる「加盟」という言葉の意味、実は僕にもはっきりはわからないのですが、文脈からすると、どうやら今でいう「客演(助演)」くらいのイメージかなと思います。より正確にいうと、一時的にその一座に入る、くらいの意味合いでしょうか。つまり、大高よし男は伏見澄子一座に客演(助演)する役者の常連で、二見浦子や三桝清といった人とよく一緒に活動していたということになります。
二見浦子も三桝清も剣劇界ではそこそこ有名な人らしく、二見は自身の一座を持ち、関西を中心に「二見浦子一座」として活躍していたようですし、一方の三桝清も籠寅興行部が作った「鈴声劇」(青年剣劇団)のメンバーであることがわかっています(1928(昭和3)年の京都日出新聞に名前が出てきます(『近代歌舞伎年表 京都篇』より))。この二人と肩を並べて広告なりパンフレットなりに名前が記載されるということは、大高も同レベルの役者だったはずです。もし大高がそのまま芝居を続けていたなら、「大高よし男一座」の名前がどこかで見つかるに違いありません。それを探すのが次のステップになりそうです。
と、ここまでの段階であらためて確認できそうなのが大高の年齢です。「鈴声劇」に参加していた1928(昭和3)年の三桝清を18歳の若者とすると、大高と共演していた1943(昭和18)年には33歳。大高の享年を30代から40代と推定していますから、同時期に活動していた大高と三桝が同世代だとすれば、推定に狂いはないことになります。
さらに歩を進めれば、年齢の根拠である昭和21年の葬儀写真に写る「子息」(と思われる人物)を10歳と仮定すると、1936(昭和11)年頃の生まれ。大高が京都で興行に参加していた頃(昭和17年から18年)には、もう生まれていたはずです。一緒に旅回りをしていたのか、はたまたどこかに家があったのか。家があったとしたらどこにあったのか。
謎が謎を呼び、妄想が妄想をふくらませていきます。
とはいえ、結局のところこれまでの進展は、大高ヨシヲ(よし男)がプロの役者(旅回りの剣劇役者)で、戦時中、伏見澄子一座の舞台に立った、ということが判明しただけで、その前もその先も、つまり、彼がいつ・どこで生まれ、どういうきっかけで芝居を始めたのか、また彼がいつ・どこで自分の一座を作り、どういう経緯で横浜(杉田)に来たのかなど、まだわからないことが山積というのが現状です。
最低限、1943(昭和18)年夏から終戦〜杉田劇場開場までの大高の痕跡が見つかりさえすれば、彼が戦後、杉田劇場に現れるまでの軌跡がはっきりするのですが…(「大高、謎の3年8ヶ月」とでも名付けましょうか)
ともあれ、知識も手がかりも乏しい中、よくもまあここまでたどり着いた。濃い霧の向こうに大高の背中がぼんやりと見えてきたぞ、と自画自賛の年末になりそうです。
調査続行!
→つづく
戦時中は歌舞音曲が奪われた暗黒時代、みたいな印象もありますが、上にも書いたように、実際はあちこちで興行はさかんに行われていたようです。ただ、時代が下るに従って演目に愛国的だったり戦意高揚的な内容が増えてくるあたり、時代の空気も含め、表現の自由度の幅が狭まっていただろうことは推測できます。
2 件のコメント:
二見浦子の名前からすぐに連想したのは三重県伊勢市二見浦です。もしかしたら彼女はこの町の出身かもしれませんね。
大高よし男の息子は、存命かも…。
二見浦子は主に関西で活動していたようですから、そうかもしれませんね。剣劇の世界は関西とか九州の人が多い印象です。
大高よし男の子息は存命なら86歳前後でしょうから、なんとかお会いしたい…
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