(9) 【緊急更新】大前進! 大高よし男と大江三郎の情報を発見!

 Googleで「大高ヨシヲ」を検索しても、杉田劇場のウェブ記事かブログか、他のサイトの美空ひばり関連しか出てこないし、「大高ヨシヲ 役者」で検索すると、「大高洋夫」さんがドッと出てきてしまって、文字通り情報の海に溺れてしまうワケですが、先日、ひょんなことから、検索ワードを「" "」で囲めば、その言葉をピンポイントで検索できることを知りました。

で、やってみました。

「"大高ヨシヲ"」
「"大高ヨシオ"」
「"大高義雄"」

ふむ、やっぱり目新しい情報はないな、とあきらめかけた最後のトライ、「大高よし男」…

ん? 出たーッ!  

江戸川大学で大衆芸能史などの研究をされている西条昇先生のブログに出ていた、昭和10年代後半、浅草・金龍館での「三座合同競艶大会」のパンフ!

それが→こちら

なんと「伏見澄子一座」の文字の左隣にいるではありませんか!

大高よし男 特別加盟

おお! あなたは「ヨシヲ」でも「ヨシオ」でも「義雄」でもなく、「よし男」だったのか!

なんと、杉田劇場以外の場所で大高の名前を見たのはこれが初めてです!

(この西条先生のブログ、貴重なパンフの写真がたくさんあって、毎日のように画面に顔を寄せ、目を皿のようにして見ていたんですけど、ああ、見落としていました!)


伏見澄子といえば、女剣劇三羽烏のひとり。

(やはり剣劇だったか!)

しかもこの時一緒に出演している「中野かほる一座」の座長、中野かほるは、昭和21年10月、杉田劇場での「大高よし男追善興行」に特別出演しているのです!

(ここにつながりがあった!)


よっしゃ、こうなったら「よし男」で追い込みだ、と調子づいてさらに調べたら、もうひとつ出てきました!

(ありがとうGoogle先生! 特にGoogleブックス!)

 

近代歌舞伎年表 京都篇」という本に以下の情報!

昭和17年2月28日〜3月(9)日  三友劇場
剣戟大会 伏見澄子一座・市川百々之助特別出演 大高よし男 二見浦子加盟 合同公演
鈴木道太郎 作 時代劇「元禄辰巳の夜噺」 主演 大高よし男 二見浦子
(典拠 京都日出新聞 2.28広告/京都日出新聞 3.7記事=“中でも大高よし男、二見浦子は客の目を引いてゐる”)

昭和17年3月(31)日〜 三友劇場
伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党・大高よし男 二見浦子加盟 合同公演
時代劇「剣光祭音頭」四場 主演 大高よし男 二見浦子
(典拠 京都日出新聞 3.31広告)

4月(18)日〜 三友劇場
伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党・大高よし男 二見浦子加盟 大合同公演
鈴木道太郎作並ニ演出 時代劇「冴える三日月」三場 大高よし男 主演
(典拠 簡易筋書(三友劇場ニュース第54号)、京都新聞 4.18広告)

昭和17年の早春から、京都の三友劇場に大高よし男が出演していたという証拠です! しかもここでも伏見澄子一座の興行に加盟(客演)という形! 

(おお!) 

さらに調子に乗ってみると、おまけがもうひとつ、「大江三郎」!

大江三郎という人は大高の「暁第一劇団」で演出を担当していた人で、現杉田劇場のロビーに掲出してあるポスターにも名前があります。


彼の名前もやはり同じ「近代歌舞伎年表 京都篇」に登場するのです。

昭和18年12月(8日)〜 新富座
近江二郎大一座 河上欣也一座加盟
大江三郎 演出 現代劇「純情博多小唄」四場
(典拠:京都新聞 12.8広告)

12月中旬〜 新富座
近江二郎大一座 河上欣也一座加盟
大江三郎 作 現代劇「瞼の兄」
(典拠:京都新聞 12.16広告〜12.21広告)

12月下旬 新富座
近江二郎大一座 河上欣也一座加盟
大江三郎 作 現代劇「下町の素描」一場
(典拠:京都新聞 12.22広告〜12.30広告)


大高が京都で舞台に立った翌年の暮れ、今度は大江三郎が同じ京都、新富座の舞台に関わっていたわけです。しかもこっちは

近江二郎一座!

近江二郎一座といえば、杉田劇場の開場から2ヶ月半後、弘明寺の銀星座で開場記念興行を行った劇団ではありませんか!

(つながってるぞ!)


これで、旧杉田劇場専属「暁第一劇団」の主要な関係者二人が、戦時中の京都や浅草で、剣劇の劇団と行動を共にしていたことが判明したわけです!

そして、おそらく、浅草興行界でなんらかの関わりがあったであろう、近江二郎=伏見澄子=鈴村義二(プロデューサー)のラインが、杉田劇場と大高一座をつなぐ縁に関係していたと推定することもできそうです(大高と鈴村が無関係という僕の見立てはハズレかもしれません)。


昭和17年・18年の活動から、戦況が悪化する昭和19年・20年を、大高と大江はどこで、どうやって過ごしていたのでしょうか。

そして、この二人はどのようにして出会い、どういうきっかけで一座を組み、どうして杉田劇場に売り込みにきたのでしょうか。

発見が新たな謎を生む…

調査は続きます。乞うご期待!

→つづく


追記:
先日、杉田劇場のブログで、「大高ヨシヲを探せ」を紹介していただきました→こちら
そこに掲載されている大高よし男の葬儀後の写真中央、遺骨を抱く人物が大江三郎だそうです。この数年前には二人とも浅草や京都の舞台で活躍していたことを思うと、運命の非情を感じないわけにはいかず、切なさが胸に迫ります。

2 件のコメント:

うめちゃん さんのコメント...

大江三郎は脚本、演出、役者をやっていたんですね。

管理者 さんのコメント...

そういうことになりますね。京都の例を見ると、作者としては現代劇、演出は時代劇ですから、主に現代劇を書く作家だったのかなと思います。杉田のポスターにある「応援団長」は大江のオリジナル作品だったんじゃないかという気がしてきました。