大高よし男の足跡がなかなか見つからないので、もはや神頼み(仏頼み)というわけでもないのですが、今年の初詣は、大高の葬儀写真が撮られた弘明寺観音へ行ってきました。
年末に放送されたアド街の影響があるのかないのかはわかりません。山門から商店街にかけて長い行列ができていて、賑やかな雰囲気の中での参詣となりました(予想よりは早く参拝できました)。
弘明寺には、旧杉田劇場に遅れること3ヶ月ほどで開場した銀星座がありました。近江二郎一座が柿落としを担い、大高一座も一度だけ一週間の興行を打ったとされているほか、幼き日の美空ひばりも、自由劇団の幕間という形になるのでしょうか、美空和枝の名前で舞台に立っています。
| 1947(昭和22)年1月14日付神奈川新聞より |
杉田と弘明寺はともに市電の終点であり、京浜急行(当時はいわゆる「大東急」の湘南線)でも3駅しか離れていません(杉田=屏風浦=上大岡=弘明寺)。大きく見れば同じエリアで、賑やかな商店街がある点など、似た街でもあります。
横浜大空襲で中心部は焼け野原となり、戦後は米軍の接収で、劇場はもとより街の再建もままならぬ中、空襲の被害が少なかった郊外の杉田や弘明寺が戦後の娯楽の担い手となったということなのでしょう。
終戦からほどなく、ほぼ同じ時期に
杉田劇場(杉田)銀星座(弘明寺)アテネ劇場(磯子)大見劇場(上大岡)
が相次いで開場しています。横浜国際劇場もマッカーサー劇場もまだない頃の話です。
さて、相変わらず大高の足跡についてはめぼしい進展がないので、今回は年末に提示した今年の重点調査項目から、またぞろ美空ひばりのデビューについての考察です。
ひばりのデビューについてはこれまでも何度か言及してきました。かなり前から定説とされていた「アテネ劇場説」が誤りで、近年は、昭和21年3月か4月に、杉田劇場の舞台に立ったのが実質的なデビューであるというのが、確定的な説となってきました。
それでもアテネ説が消えることはなく、杉田劇場に出演した後、同年9月にアテネ劇場を3日間借りて昼夜2公演、舞台に立ったという修正型で残されています。
しかし(昨年の「いそご文化資源発掘隊」の講座でも少しお話ししましたが)、ややこしい性格の僕には、9月アテネ説というのがどうにも腑に落ちないのです。そもそも、アテネ説は(今のところ)すべて関係者の証言に基づくもので、芸人とのトラブルになったとされる看板や舞台の写真、新聞広告や記事などは、(おそらく)どこにも提示されていないと思います。
美空ひばりは本当にアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか。
あらためて基本情報を整理してみます。
アテネ劇場は、1946(昭和21)年9月9日、磯子区磯子町に開場した映画館です。開場式典には中村吉右衛門劇団が来演し、舞踊で柿落としをしています。
| 1946(昭和21)年9月8日付神奈川新聞より |
昭和5年の火災保険図によれば、もともとこの地にあったのは日用品市場で、アテネ劇場は戦後、その近くで鉄工所を営んでいた長谷巌氏が(市場を買い取って?)映画館に改装したものとされています。
実は、美空ひばりの叔母にあたる西村克子さんが著書の中でこんなことを書いています。
"正子さん(註:杉山正子さん)のご両親は、戦前から磯子劇場(アテネ劇場)のそばで喫茶店を経営していました"(西村克子『愛燦燦・ひばり神話の真実』徳間書店,1993 より)
この一文を根拠のひとつとして、アテネ劇場の前身は磯子劇場であり、美空ひばりは杉田劇場より先に磯子劇場(のちのアテネ劇場)でデビューしたのだ、という話が流布しているようです。
しかし、昭和5年から昭和21年という戦争の時代に、市場を改造して劇場にするほどの物的・精神的余裕があったとは思えません。しかも、その頃の新聞をつぶさに調べても「磯子劇場」の開場を知らせる記事や広告を確認することができないのです。
ですから、上掲の西村克子さんの文章は、
「戦前から戦後磯子劇場(アテネ劇場)ができた場所のそばで〜」
と補足して読み解くのが正しいのではないかと思うのです。
かつてアテネ劇場でよく映画を見たという地元の年配者に話を聞いても、アテネ劇場のことを「磯子劇場」と呼ぶ人はいませんし、戦前に磯子劇場があったという話も耳にしません。
ただ、以前にも書いたように、アテネ劇場は昭和35年3月に「磯子映画劇場」に改称しており、その頃の明細地図には「映画館 磯子劇場」と明記されているので、昭和30年代後半以降ならば「アテネ劇場=磯子劇場」という認識はあったかもしれません。磯子劇場はアテネ劇場の前身ではなく、後身にあたるわけです。
| 1960(昭和35)年3月30日付神奈川新聞より |
上掲の事実から、アテネ劇場は戦前からあった日用品市場を改装して、昭和21年9月に開場した映画館で、美空ひばりのアテネ劇場デビュー説は、同年4月に杉田劇場の舞台に立った証拠(ポスターや新聞広告)がある以上、完全な誤りであると再確認していいと思います。
ですが、それでも依然、本当にひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのか、という疑問は残ります。
美空ひばりの自伝は2つあって、最初の『虹の唄』(講談社,1957)にはこうあります。
"こうして楽団が出来てみると、私はもちろん両親もどこか人さまの見ているところで公演がしたくなりました。そこで横浜磯子町のアテネ劇場を借りることになったのです。この劇場はいまは映画館ですが、当時はおフロ屋さんを改造した、客席二百ぐらいの小さな小屋です。 ここで、私は初めて“舞台”というものに出たわけで、九つの時のこと"
なお、昭和24年度版の『全国映画館名簿』によると、アテネ劇場の座席数は324となっており、「客席二百ぐらい」とは少し誤差があります(この数についてはあとで再検証します)。
もうひとつの『ひばり自伝 わたしと影』(草思社,1971)には
"昭和二十一年九月。忘れられない月です。この時、わたしは、同じ磯子の町にある、小さな小屋、アテネ劇場の舞台に立ったのでした。劇場というものに出たのは、これがはじめてです"
と記されています。
これを根拠にしているのでしょう。公式のプロフィールなどにもある通り、昭和21年9月にアテネ劇場を3日間借りて舞台に立ったというのが、デビューをめぐる「定説」となってきたわけです。
当時はまだ新聞に三行広告(と言っていいのでしょうか)の映画情報欄がなかったので、アテネ劇場の興行の状況は劇場サイドが出稿する広告しか手がかりがありません。
ですが、その数は杉田劇場や銀星座に比べて少なく、実態を知るのはなかなか困難です。それでもその情報からアテネ劇場の興行を確認してみると
1946年
ひばりが舞台に立ったとされる9月は上記のようになります。17日から23日が不明ですが、10月1日からフランス映画を上映していることからすると、邦画・洋画の交互上映が推測され、この期間は何らかの洋画を上映していたとも考えられます。
ただ、現状では不明な時期なので、もし劇場を昼夜2公演、3日間借りるとしたら、9月17日から23日の間だろうと推測できます。
しかし、考えてみると、これは映画館の開場から2週目です。磯子町の人々にとっては、近くに映画館ができたわけですから、開場を心待ちにしていただろうし、集客も順調だったと思われます。開場したばかりの2週目に3日間も劇場を貸し出すというのは、経営的に考えて、あり得ないのではないかというのが僕の感想です。
もっとも、長谷巌氏は鉄工所の経営者ですから、映画興行については素人で、そんな経営をしていたのだと言われればそれまでです(さらに検証を深めたいと思います)。
わずかな可能性があるとしたら、翌月のアテネ劇場の広告にある
「平日正午、日祭十時、夜は七時より」
という文言が根拠になるかもしれません。
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| 1946(昭和21)年10月22日付讀賣新聞より |
この言葉からは、当初のアテネ劇場は、現在のように、ひとつの映画を短いインターバルで連続上映するのではなく、昼夜の間に長い空き時間があったようにも見えるのです。
さらに、劇場の開場を予告する広告には
「明るいスクリーン 素的なアトラクションに御期待下さい」
の惹句が記されていることから、映画だけでなく、合間に実演を見せるのが基本の興行形態だったとも考えられます。
仮にアテネ劇場がそういうタイプの映画館だったとすると、9月の3日間をひばりと楽団に貸与するというのも、あり得ない話ではないように思えてきます。
とはいえ、いずれも確証がないのが現状で、この話もまた五里霧中になりそう、そんな気配をうっすら感じつつの年初です。
本当に美空ひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか(この項つづく)
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