(103) 近江二郎の戦後

昭和23年11月16日に横浜国際劇場不二洋子一座公演の広告が出ます。ここに興味深い名前が登場するのです。

近江二郎です。

1948(昭和23)年11月16日付神奈川新聞より

印刷が不鮮明ではっきりしませんが、右に大きく書かれた「不二洋子一座」の下に、かすれた「近江二郎加盟」の文字を読み取ることができます。

戦時中、近江二郎はやはり「加盟」の立場で、不二洋子一座にしばしば参加していましたが、戦後もその流れは継続していたようです。

不二洋子一座が初めて横浜国際劇場に来演したのは前年の昭和22年9月26日で、二度目が同年12月17日。これが三度目の登場ということになります。

1947(昭和22)年9月27日付神奈川新聞より

1947(昭和22)年12月2日付神奈川新聞より

ですが、最初の公演も二度目の公演も、近江二郎が参加していたかどうかはいまのところ不明です。


以前も書いたように、近江二郎の戦後の活動は

昭和21年
 1月 杉田劇場
 3月〜5月 銀星座(弘明寺)・杉田劇場
 7月〜8月 宝生座(名古屋)

昭和22年
 3月 堀田劇場(名古屋)
 5月 宝生座(名古屋)
 8月 観音劇場(名古屋)

がわかっています。断続的ながら精力的に活動している様子がわかります。

その後の調査で、不二洋子の評伝『夢まぼろし女剣劇』(森秀男著)に掲載されている、昭和23年2月の京都南座での不二洋子一座公演のパンフレットにも近江二郎の名前があることがわかりました(同書, P.181)。

森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房,1992/ P.181)より

となると、時期的に近い不二洋子の二度目の横浜国際劇場(昭和22年12月)にも近江二郎が参加していた可能性は否定できませんし、最初の来演である9月興行もスケジュール的にはあり得ない話ではなくなってきます。

『夢まぼろし女剣劇』によれば、戦後の不二洋子はライバルである大江美智子に比べると活躍の場が少なくなっていて、かつてあんなにも人気を誇った浅草に復帰するのも、昭和21年12月の松竹座からで、昭和20年2月以来、実に1年10ヶ月ぶりだったそうです。

不二洋子が浅草の舞台に復帰した昭和21年の年末、近江二郎がどこにいたのかははっきりしません。『松竹七十年史』の記録には、不二洋子一座に近江二郎の名前はありませんが、8月の宝生座(名古屋)と翌年3月の堀田劇場(同)までの間ですから、ここでも近江二郎が出演していた可能性もまた否定できません。

話が前後するので、時系列を整理するために、まず『夢まぼろし女剣劇』と『松竹七十年史』から、戦後、昭和24年までの不二洋子一座の公演をまとめてみます。

昭和21年
 12月 浅草・松竹座  
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座

昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座

となります。

ここに横浜での興行と近江二郎の足跡を加えてみると(※黒文字:近江二郎、赤文字:不二洋子、緑文字:不二洋子一座に近江二郎が参加)

昭和21年
 1月 横浜・杉田劇場
 3月〜5月 横浜・銀星座
 7月〜8月 名古屋・宝生座
 12月 浅草・松竹座
 
昭和22年
 3月 名古屋・堀田劇場
 5月 名古屋・宝生座
 8月 名古屋・観音劇場
 9月 横浜国際劇場
 12月 横浜国際劇場
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座
 11月 横浜国際劇場
 
昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座


こうして時系列で見ていくと、いささか強引かもしれませんが、昭和21年の浅草は別として、昭和22年の秋以降、近江二郎はずっと不二洋子一座に帯同していたと考えてもいいような気がしてきます。

妄想を逞しくすると、昭和22年9月、横浜国際劇場にやってきた不二洋子の楽屋を近江二郎が訪ね、久々の再会に意気投合して、そこからまた不二洋子一座に近江二郎が参加するようになった、というストーリーも成り立ちそうですが、あくまでも悪癖の妄想ということで…

ただ、昭和24年5月29日に近江二郎は急逝してしまいますから、上記、昭和24年11月の常盤座公演には近江二郎の姿はなかったわけで、両者の戦後の共演は短期間で終わってしまったということになります。


こうしてみると、いまのところ近江二郎の記録として残っている一番新しいものが、冒頭にあげた横浜国際劇場の広告になります(最後が横浜というのも、なんとなく妄想を掻き立てられるところですし、亡くなったのが、横浜大空襲と同じ日という事実にも運命的な何かを感じてしまうのは…やはり悪い癖のようです)。

戦前・戦中、大衆演劇の世界で剣劇や新派の一座をなし、人気を誇っていた役者たちが、戦後はワキに回るなどして映画や舞台で活躍していたことを思うと、近江二郎もあと10年生きていたら、いまでもスクリーンの中にその姿を見ることができたのかもしれません。運命とはいえ、残念でなりません。


そんなこんなで、ここまで調べてきて、ざっくりとではありますが、明治の末に川上音二郎や藤沢浅二郎の俳優学校を出た後から、昭和24年に亡くなるまで、大正時代の前半を除けば、近江二郎の足跡の全容がうっすらとわかってきました。大正時代に東京で新派の舞台に出ていた時期を精査すれば、近江二郎についてはある程度の年譜ができそうな気がします。

その精査の中で大高との接点、出会いの時期を確定することができればいいのですが、果たしてそううまくいくかどうか。やはり近江二郎の足跡という線も、大高調査の重要なポイントになりそうです。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

2 件のコメント:

うめちゃん さんのコメント...

毎回更新を楽しみにしています。
そこでお願いがあります。
記事の最後に「→つづく」とありますが、新しい記事が出たら、これにリンクを貼って新しい記事に飛べるようにしていただけたらいいですね。
それと、前の記事にもリンクをお願いしたいです。
←前の記事 とか。

FT興行商社 さんのコメント...

コメントありがとうございます。そうですね。その方が読んでいただく際に便利だと思います。順次ですが、さっそく作業します。