美空ひばりが杉田劇場で幕間に唄っていたと話す澤村鐡之助は、1930(昭和5)年生まれだそうです。
上記リンク先(『歌舞伎俳優名鑑』)によれば「実家は横浜の青果商」となっていますが、『演劇界』(1997年1月号「星霜抄」)のインタビュー記事ではより詳しく「金沢八景」と書かれています(はっきりと八景出身とはなっていないけれど)。
ちなみに、昭和5年に湘南電気鉄道(黄金町〜浦賀間)が開通しているので、杉田と八景の往来はそれ以前よりずっと楽になっていたはずです。
鐡之助は幼少時に両親を亡くしたそうで
「おじとおばが私達姉弟の後見人になって、毎月の生活費をくれたのでしょう。母が存命中は畑がいっぱいあったのに、おばあさんが言いました。お松が死んだら何も無くなってしまった、って」
また彼の本名は北見良重といい、インタビューでは
「本家の北見は八つあった村の豪族で」
と述べています。
北見家は上大岡や港南台あたりの有名な旧家です(後述)。金沢文庫・八景では「泥亀(でいき)」という地名の由来でも知られる「永島家」が有名で、北見家については聞いたことがありません。今後、詳しく調査が必要な事項です。
「本家」とあることから、上大岡が本家で八景にあった分家の出身ということなのかもしれませんが、いずれにしても鐡之助の幼少期は金沢八景に住まいがあったということのようです。
「お寺の和尚さんのところで小坊主の修行もしたのですよ。竜源寺って真言宗です」
竜源寺は龍華寺のことです。もともと龍華寺だったのを、来訪した徳川家康に寺号を伝える際「りゅうげんじ」と言い間違えたことから龍源寺とも呼ばれていたようで、『新編武蔵風土記稿』にも「龍源寺」の項目でその旨が記載されています。金沢文庫で有名な称名寺に至る道沿いにいくつかある寺社のひとつです。
また役者を志すにあたって
「うちのそばに第六天という女の神様があって、そこへ私願をかけました。立派にこの道でやっていけるように」
とも話しています。「第六天」というのは『新編武蔵風土記稿』に「第六天社」と記載されたものだと考えられますが、調べると現在の「洲崎神社」のようで、これもまた龍華寺に隣接する神社ですから、どうやら鐡之助(北見良重)は洲崎村(金沢区洲崎町)の出身と言えそうです。
『新編武蔵風土記稿』より |
そんな鐡之助が芝居に魅せられたのは
「小学校三年の時に、姉さんからお小づかいをもらって、お芝居を見に行ったの。初めは敷島座に入ったら剣劇をやっていて、いやだなァと思い、次に黄金座(こがねざ)に行くと『鏡山』をやっていて、さあたちまちとりこになっちゃった」
のがキッカケだそうです。前述の通り、すでに湘南電気鉄道が開通していますから、金沢八景から伊勢佐木町あたりへ行くのも容易だったはずで、劇場の位置からして黄金町(こがねちょう)駅で下車したのではないかと思います。
小学校3年生といえば8歳か9歳ですから、昭和13年か14年頃ということになります。大高よし男や近江二郎が敷島座に出た少し前、伏見澄子(昭和13年2月〜7月・昭和14年10月〜12月)、酒井淳之助(昭和14年2月〜6月)、巴玲子(昭和14年7月〜9月)などが興行をしていた時期に当たると考えられます。彼が見た「剣劇」というのはこうした一座だったのでしょう。
一方で「黄金座」というのはよくわかりません。その頃に歌舞伎をやっていたことからすると、横浜歌舞伎座か金美劇場だと思われますが、金美劇場が映画館から実演に移行するのは昭和16年10月ですから、時期的には横浜歌舞伎座とそこで公演を続けていた「更生劇」を指していると考えるのが妥当です(ちなみに横浜歌舞伎座は黄金町駅のすぐ近く)。
「二度目の時は一円持って行くと、横浜歌舞伎座の子供の値段(観劇料)が上がって四十五銭、往復の電車賃のほかにクリームコーヒーを飲んで、いくらか残りました」
ともあるので、やはり鐡之助は横浜歌舞伎座のことを「黄金座」と称しているのかもしれません。
横浜歌舞伎座だとすると、昭和13年6月からは日吉良太郎一座の連続興行が始まるので、鐡之助が剣劇や歌舞伎(更生劇)を見たのはその前、昭和12年の後半から13年の初旬と考えられそうです(このあたりも記事中にある役者名と演目を照合すればはっきりするかもしれません)。
さて、前述の通り、澤村鐡之助の本名は「北見良重」で、旧家北見家の人。横浜の北見家といえば、一般には上大岡の北見家が有名で、横浜市歴史博物館に収蔵されている古文書が『北見家文書』として出版もされています。
現在の北見家は、屋敷の一部を和風レンタルスペース「水車屋」として貸し出すなどの事業をやっておられるようですが、同サイトから同家の歴史をみれば、明治以降も数々の事業を展開していて、上大岡をはじめとする近隣の開発に大きく貢献していることがわかります。
地元民に馴染みの深いレジャー施設「赤い風船(現・アカフーパーク)」の創業も北見家です。
一方、このブログに関係することでいえば、戦後、銭湯「大見湯」を改装してできた「大見劇場」です。
実のところ、大見劇場のことはよくわかっていませんが、大見劇場(正確には大見湯)が美空ひばりのデビューしたところという話があるので、無視できません。
水車屋のサイトにある「先祖の事業」の中に「大見湯」の項目があって、それによれば劇場に改装したのは昭和20年で
「8才の少女だった美空ひばり(当時は美空和枝)がこの銭湯で歌ったと云うエピソードがありました。それによると終戦後、父親が復員して「美空楽団」を結成し、戦後最初に人前で美空和枝が歌ったのがこの「大見湯」だった様です」
とされています。
「おそらく当時横浜の市街地は空襲により焼け野原となって銭湯も焼け、住んでいた滝頭から一番近くにあって焼け残っていた銭湯がこの「大見湯」だったのでしょう。小さな美空和枝は浴槽のフタを舞台替わりにして歌ったそうです。その盛況ぶりもあり劇場に改装されたそうです」
ともありますが、磯子区は空襲の被害が小さかった地域なので、"焼け野原となって銭湯も焼け"というは誤解ではないかと思います。上大岡まで行かずとも、もっと近くに銭湯はあったはずです。
ですが、それはそれとして、ここでは大見湯で美空ひばりが唄い、それが初舞台とされていることに注目したいと思います。
ところで、その美空ひばりは、1948(昭和23)年6月1日から7日まで横浜国際劇場の「グランドショウ」に出演します。新聞広告には、はっきりと芸名の最終形「美空ひばり」が記録されていています。
1948(昭和23)年6月1日付神奈川新聞より |
で、その折に取材を受けた記事が神奈川新聞に掲載されているのです。
この記事は比較的有名なものですが、よく読んでみると「ひばりちゃんは商賣熱心だね」やら「大きくなつたらハダカレビューにでる?」など、まだ11歳になったばかりの少女になかなか失礼な質問もある上に、そもそも名前からして「青空ひばり」と書かれているのですから、かなりいい加減な記事という気もします。
一方のひばりも
「男は女の子を誘惑する魔物だつてお母さんがいつたわ」「女の子だから年はいえないの」「商賣じやないわ、藝術よ」
など大人顔負けの返答で、すでに大スターの片鱗がうかがえます。
実はこの記事では、ひばりのデビューについて
「八ツの時に南太田のお風呂屋で唄つたのが初舞台」
と書かれているのです。
「お風呂屋」というのはひばりデビューのキーワードで、上掲の「大見湯」のほか、アテネ劇場が銭湯を改装してできたという話(誤解)も、ここから出ているように思います(アテネ劇場の前身は日用品市場で間違いないと考えています→こちらを参照)。
記事が「上大岡のお風呂屋」なら大見湯で確定ですが、「南太田の」とあるのが悩ましいところです。「みなみおおた」と「かみおおおか」は、どことなく語感も字面も似ているので、上大岡を南太田と聞き違えたかのかもしれませんし、上述のとおり記事の精度からして取材メモの誤記なんていうのもありそうです。
いずれにしても記事中に「杉田劇場」の名前は出てこないので、ひばりの意識の中では銭湯で唄ったことが「デビュー」という感覚だったのかもしれません。ですが、銭湯で唄ったことを「デビュー」とはなかなか言い難いところで、やはり一応ちゃんとしたステージのある杉田劇場での歌唱を「デビュー」とする方が妥当な気はします。
なお、大見湯を改装した大見劇場については、これまでに3つの新聞広告を確認しています。
ひとつ目は杉田劇場や銀星座にも来演した「森野五郎一座」で、昭和21年6月5日から15日。森野五郎といえば澤村鐡之助が見たかもしれない横浜歌舞伎座の「更生劇」のメンバーで、広告にも「お馴(染?)深き」とあるように、横浜に所縁のある役者です。
1946(昭和21)年6月6日付神奈川新聞より |
もうひとつはこれも杉田劇場に来演している松本榮三郎一座と元大都映画のスター・大岡怪童一座の共演。昭和21年6月29日から7月9日までの興行です。
1946(昭和21)年6月29日付神奈川新聞より |
大都映画の怪優として、大山デブ子とのコンビでも人気の高かった大岡怪童ですが、戦後は映画に数本出たのみで、最期は1951(昭和26)年1月3日、秦野の劇場に出演中、心臓麻痺で亡くなったそうです。
そして三つ目が昭和21年10月23日の天勝大一座と10月25日の玉川勝太郎。
1946(昭和21)年10月23日付神奈川新聞より |
初代松旭斎天勝は昭和19年に亡くなっているので、この天勝は二代目でしょう。玉川勝太郎も二代目。
この頃の大見劇場には結構な大物スターが来演していたことがわかります(大見劇場跡の現在は→こちら(中央の4階建てのビル))。
そんなこんなで、結局のところひばりのデビューについては謎が深まるばかりではありますが、仮に澤村鐡之助が上大岡の北見家の縁者だとすると、北見家の大見湯で唄ったひばりを、後日、鐡之助が杉田劇場で見たという、三者の不思議な縁を感じたりもします。
杉田に杉田劇場、磯子にアテネ劇場(映画館)、上大岡に大見劇場、弘明寺に銀星座と、終戦直後のこの地域(横浜南部)には大衆演劇の劇場や映画館が続々と誕生しており、そんな環境下で国民的歌手・美空ひばりの胎動が始まったのですね。
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。