前回の投稿で、昭和23年は杉田劇場にとっても横浜の興行界にとっても、変化の年だったと書きました。
これ以降、たびたび名前の出てくる「市川雀之助」が杉田劇場に登場したのもこの年で、新聞広告をたどると2月1日が初のお目見得のようです。
1948(昭和23)年1月31日付神奈川新聞より |
大高亡き後、杉田劇場は歌舞伎興行で起死回生をはかりますが、地域性や劇場規模などもあったのでしょうか、昭和22年いっぱいまでは歌舞伎を主軸としつつ、翌年になると大衆演劇の割合がぐっと増えてきます。方針転換が明らかです。
その第一弾というべき存在が「市川雀之助」なのです。
6月には「新生暁劇団」との合同公演も行なっていることから、劇場側としては雀之助を大高の後釜として考えていたのかもしれません。
1948(昭和23)年6月29日付神奈川新聞より |
市川雀之助がどういう経緯で杉田劇場にやってきたのかはよくわかりません。普通に考えればプロデューサーの鈴村義二が目をつけて呼んだということなのでしょう。
この後、杉田劇場のプログラムに頻繁に名前が出ることからしても、その目論見は当たり、かなりな人気を博していたことがわかります。
杉田劇場が閉鎖された後は、後述の通り、横浜の小屋掛け芝居に出ていたようです。今につながる「大衆演劇」のはしりとも言っていい存在だったと思われます。
ところで、現杉田劇場の自主事業に「いそご文化資源発掘隊」というものがあります。講座や街あるきなど、地元の歴史や地理をネタにした人気シリーズです。
数年前の発掘隊で、旧杉田劇場についての座談会(トークショー)がありましたが、その際、雀之助の孫という方が新潟からわざわざ杉田劇場に来られ、貴重なお話をされました(幸運にも私もその場にいました。座談会の内容はアーカイブとしてウェブサイトに残されています→こちら)。
それによると雀之助はファン(追っかけ)の女性と結婚した後、福島〜新潟と転居し、お孫さんが1歳半くらいの頃に亡くなったそうです。しかしながら、資料は失われてしまったそうで、ご家族でも雀之助の経歴の詳細はよくわからないご様子でした。
そんな雀之助ですが、彼の名前は意外なところに登場します。
横浜演劇研究所が発行していた機関誌『よこはま演劇』No.4(昭和29年3月1日発行)に「庶民演劇の表情 −小屋掛芝居の現状と将来ー」と題した珍しい対談が掲載されているのですが、ここに出てくるのが「市川雀之助」なのです。
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『横浜演劇研究所の30年 : 1952~1982』(横浜演劇研究所刊, 1982)より |
『よこはま演劇』N0.4(1954)より |
対談のメンバーは雀之助の他に、同座の幹部・松平長八郎と横浜演劇研究所の加藤衛所長という顔ぶれで、1953(昭和28)年12月26日、雀之助らの出演していた南座(南区にあった芝居小屋)の楽屋で行われたものです。
これによれば
"市川雀之助氏は新演舞座の座長であり、神奈川縣實演興行組合の副組合長を勤め"
ており、この実演興行組合というのは
"一昨年(引用者註:1951(昭和26)年)に出来、組合員は縣下で六百名程で。相互の連絡と当局との交渉が大きな仕事になっています"
とあります。
横浜演劇研究所の機関誌に、大衆演劇の記事が載るのはとても珍しいことで、おそらくこれが最初で最後だと思われますが、こういう企画が実現したのは、その年(1954(昭和29)年)の1月31日をもって、小屋掛芝居(仮設劇場)が禁止されるという事態を受けてのことのようです。記事をまとめた所員の神笠さんが強く推しての企画だと考えれられます。
余談ながら、神笠(神笠起康)さんとは直接お会いしたことはないものの、僕の友人の叔父(伯父?)でもあるので、しばしば名前を聞いていましたし、とても近いところにいた方ではあります。
神笠さんの本業は測量士で(僕の友人はその下で測量助手みたいな仕事をしていた)、記憶が正しければ事務所は吉野町にあったはずです。戦前からの横浜の大衆文化に詳しい方でもあり、三吉演芸場創立五十年記念誌『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社, 1979)に「横浜の芝居・つれづれの記」を、また横浜市の『調査季報60号』特集/横浜の盛り場(1978年12月発行)に「盛り場であった伊勢佐木町-横浜盛り場小史」を寄稿しています。
横浜演劇研究所は主に戦後の新劇との関わりが強く、またアマチュア演劇の拠点としての活動をしていたわけですから、彼の存在はかなり異色だったと思われます。
『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社, 1979)より |
対談記事に戻ると、記事の後記に雀之助らが活動していた当時の、横浜の小屋掛芝居の劇場が列記されています。貴重な記録でもありますので、まずはここに引用して並べてみます。
三吉劇場(南、万世町二の三七)南座(南、庚台)友樂座(南、堀ノ内)横浜劇場(西、浅間町)戸部劇場(西、西戸部)伊勢町劇場(西、伊勢町)山元劇場(中、山元町)ホームラン劇場(神、六角橋)入江劇場(神、入江町)佛向劇場(保、佛向町)京浜座(鶴、末吉町)市場劇場(鶴、市場町)旭劇場(戸、旭町)寿劇場(金、六浦町)
当然ながら、ほとんどが聞いたこともない芝居小屋で、所在地も含めかなり驚かされます。上述の通り、昭和29年1月31日をもって法令(建築基準法・消防法)によりこれらの劇場は三吉劇場(三吉演芸場)を除いてすべて閉鎖となったそうです(ただし、昭和31年の明細地図には浅間町の「横浜劇場」が掲載されているので、すべてが閉鎖というわけではなかったようです)。
神笠さんは、こうした大衆演劇の小屋が失われていくことを惜しみ、戦前からの大衆文化が一掃されるような風潮を懸念していたのだと思います。それがこの記事となったのでしょう。
またまた余談ではありますが、以前、横浜演劇研究所の事務所(福富町)から演劇資料室へ荷物を運ぶお手伝いをした際、資料の中に聞いたことのない名前の劇場図面(青写真)が数枚あったのを思い出しました。あれはきっと神笠さんが作成したものなのでしょう(資料室の未整理の段ボール箱のどこかに入っているはず)。
話を戻します。
この対談が行われたのは昭和28年の年末ですから、すでに杉田劇場は閉場となっていたはずです。残念ながら雀之助の発言の中に杉田劇場の名前は出ませんが
"大体、此ういう小屋(引用者註:仮設劇場)が建つたのは終戦後で、当時は何を演つてももうかりましたから何處でも素人が建てたんです(中略)小屋主にしても、野天で板囲いの頃はもうかり、金をかけて劇場らしく、屋根を造つた頃からもうけが薄くなり"
と言っているのは、いささか文脈が違うものの、杉田劇場や銀星座のような劇場が経営難で閉鎖されていったことも、多少は念頭にあったのかもしれません。
一方、雀之助自身や劇団については
"私と長八郎さんとは幼馴染なんで、それで二人で新国劇の島田辰巳の少し小規模なものをと話し合って一座をつくり"
"私は大体歌舞伎畑なんですが、あそこはノレンが無いと…"
"ですから種々な試みもしました。何人か楽士を入れてオペレッタもやりましたし、新舞踊を始めたのも横浜では私達が最初なんです"
など、興味深い発言をしています。
昭和23年、杉田劇場に登場した際、市川雀之助一座は「歌舞伎オペレッタ」を掲げていましたし、演目の中に「舞踊劇」もたびたび登場することから、この雀之助の発言は杉田劇場で興行していた頃の話だと思われます。
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1948(昭和23)年4月20日付神奈川新聞より |
さらに国会図書館のデジタルコレクションで検索してみると、雀之助のことが比較的詳しく書かれている雑誌記事が見つかりました(『新婦人』1961年6月号(文化実業社))。
それによると、市川雀之助は
"その昔浅草に宮戸座という芝居小屋があつたころ立ちまわりがうまいので人気のあつた市川市十郎の一座にいた二代目市川雀之助の息子で、十四の年に初舞台をふんでから約二十四年間、剣劇ひと筋に生きてきた男"
とあるので、上に引用した「私は大体歌舞伎畑なんですが」というのは、このことだと思われます。
1961年の段階で24年前が14歳ということは当時38歳。逆算すると1923(大正12)年頃の生まれということになります。旧杉田劇場に登場した時はまだ25歳くらいの若い座長だったわけですね。
別の本(『風流乗りあいバス : 浮世粋談寄せ書帖 酔筆名人集』(あまとりあ社編集部, 1956))では「居守うらない」という小文を雀之助自身が寄稿していて、内容からすると戦時中は出征し、南方戦線にいたようです。1923年生まれであれば、年齢的にもおかしくはありません。
『新婦人』に戻ると
"今年の正月(引用者註:1961年1月)、思いがけないチャンスから立ちまわりのうまさを買われて新宿コマ劇場の春日八郎ショウに特別出演。これが認められてこんど念願の常盤座出演がかなつたもの"
ともありますから、横浜での活動時期を終えてからの雀之助は、東京でもかなりな人気を得ていたようです(浅香光代一座などとも合同公演を行っています)。掲載されている写真からも、また記事の「大川橋蔵と川路竜子をまぜ合わせたような男つぷり」という一文からしても、いかにも人気の出そうな男前です。
さて、『よこはま演劇』では、対談の最後に加藤所長が自身のテリトリーでもある新劇について尋ねています。それに対して雀之助は
"もっと積極的に大衆に溶け込まなければどうしようも無いんぢゃないですか。大衆より偉い、大衆を引張つてやる、という態度が一番良くないと思います。新劇の人にはそういう点が共通していますね"
"以前「火山灰地」を観に行きましたがダラダラしてて退屈しましたよ。新劇の人はそれに自己満足しているんぢゃないですか。そういう陶酔感を少なくしてもう少し観せる芝居を演るようにしなければ…"
と答えていますが、加藤所長への言葉と考えると、なかなか遠慮のない辛辣な批判で、よく掲載したものだと驚かされます。
そんな対談の後記を、神笠さんはこんな指摘で締めくくります。
"(仮設劇場の閉鎖)の代償に、多くの人々が自分の家の近くの劇場を、芝居を、失つたのである。今はそれしかいうことが出来ない"
この時期、戦後復興の名のもとに、さまざまなものが急速に失われていったわけです。状況は違うものの、ここ数十年の横浜でも、スカイ劇場、電業会館、相鉄本多劇場、教育文化センター…と、なくなった劇場・会館は少なくなく、同じような傾向は、いまなお続いているような気もします。
そんなこんなで、今回は昭和23年に初登場した「市川雀之助」についての考察から、戦後横浜演劇などについても考えてみました。
→つづく
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