(102) 市川雀之助のこと

前回の投稿で、昭和23年は杉田劇場にとっても横浜の興行界にとっても、変化の年だったと書きました。

これ以降、たびたび名前の出てくる「市川雀之助」が杉田劇場に登場したのもこの年で、新聞広告をたどると2月1日が初のお目見得のようです。

1948(昭和23)年1月31日付神奈川新聞より

大高亡き後、杉田劇場は歌舞伎興行で起死回生をはかりますが、地域性や劇場規模などもあったのでしょうか、昭和22年いっぱいまでは歌舞伎を主軸としつつ、翌年になると大衆演劇の割合がぐっと増えてきます。方針転換が明らかです。

その第一弾というべき存在が「市川雀之助」なのです。

6月には「新生暁劇団」との合同公演も行なっていることから、劇場側としては雀之助を大高の後釜として考えていたのかもしれません。

1948(昭和23)年6月29日付神奈川新聞より

市川雀之助がどういう経緯で杉田劇場にやってきたのかはよくわかりません。普通に考えればプロデューサーの鈴村義二が目をつけて呼んだということなのでしょう。

この後、杉田劇場のプログラムに頻繁に名前が出ることからしても、その目論見は当たり、かなりな人気を博していたことがわかります。

杉田劇場が閉鎖された後は、後述の通り、横浜の小屋掛け芝居に出ていたようです。今につながる「大衆演劇」のはしりとも言っていい存在だったと思われます。


ところで、現杉田劇場の自主事業に「いそご文化資源発掘隊」というものがあります。講座や街あるきなど、地元の歴史や地理をネタにした人気シリーズです。

数年前の発掘隊で、旧杉田劇場についての座談会(トークショー)がありましたが、その際、雀之助の孫という方が新潟からわざわざ杉田劇場に来られ、貴重なお話をされました(幸運にも私もその場にいました。座談会の内容はアーカイブとしてウェブサイトに残されています→こちら)。

それによると雀之助はファン(追っかけ)の女性と結婚した後、福島〜新潟と転居し、お孫さんが1歳半くらいの頃に亡くなったそうです。しかしながら、資料は失われてしまったそうで、ご家族でも雀之助の経歴の詳細はよくわからないご様子でした。


そんな雀之助ですが、彼の名前は意外なところに登場します。

横浜演劇研究所が発行していた機関誌『よこはま演劇』No.4(昭和29年3月1日発行)に「庶民演劇の表情 −小屋掛芝居の現状と将来ー」と題した珍しい対談が掲載されているのですが、ここに出てくるのが「市川雀之助」なのです。

『横浜演劇研究所の30年 : 1952~1982』(横浜演劇研究所刊, 1982)より

『よこはま演劇』N0.4(1954)より

対談のメンバーは雀之助の他に、同座の幹部・松平長八郎と横浜演劇研究所の加藤衛所長という顔ぶれで、1953(昭和28)年12月26日、雀之助らの出演していた南座(南区にあった芝居小屋)の楽屋で行われたものです。

これによれば

"市川雀之助氏は新演舞座の座長であり、神奈川縣實演興行組合の副組合長を勤め"

ており、この実演興行組合というのは

"一昨年(引用者註:1951(昭和26)年)に出来、組合員は縣下で六百名程で。相互の連絡と当局との交渉が大きな仕事になっています"

とあります。

横浜演劇研究所の機関誌に、大衆演劇の記事が載るのはとても珍しいことで、おそらくこれが最初で最後だと思われますが、こういう企画が実現したのは、その年(1954(昭和29)年)の1月31日をもって、小屋掛芝居(仮設劇場)が禁止されるという事態を受けてのことのようです。記事をまとめた所員の神笠さんが強く推しての企画だと考えれられます。

余談ながら、神笠(神笠起康)さんとは直接お会いしたことはないものの、僕の友人の叔父(伯父?)でもあるので、しばしば名前を聞いていましたし、とても近いところにいた方ではあります。

神笠さんの本業は測量士で(僕の友人はその下で測量助手みたいな仕事をしていた)、記憶が正しければ事務所は吉野町にあったはずです。戦前からの横浜の大衆文化に詳しい方でもあり、三吉演芸場創立五十年記念誌『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社, 1979)に「横浜の芝居・つれづれの記」を、また横浜市の『調査季報60号』特集/横浜の盛り場(1978年12月発行)に「盛り場であった伊勢佐木町-横浜盛り場小史」を寄稿しています。

横浜演劇研究所は主に戦後の新劇との関わりが強く、またアマチュア演劇の拠点としての活動をしていたわけですから、彼の存在はかなり異色だったと思われます。


『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社, 1979)より

対談記事に戻ると、記事の後記に雀之助らが活動していた当時の、横浜の小屋掛芝居の劇場が列記されています。貴重な記録でもありますので、まずはここに引用して並べてみます。

三吉劇場(南、万世町二の三七)
南座(南、庚台)
友樂座(南、堀ノ内)
横浜劇場(西、浅間町)
戸部劇場(西、西戸部)
伊勢町劇場(西、伊勢町)
山元劇場(中、山元町)
ホームラン劇場(神、六角橋)
入江劇場(神、入江町)
佛向劇場(保、佛向町)
京浜座(鶴、末吉町)
市場劇場(鶴、市場町)
旭劇場(戸、旭町)
寿劇場(金、六浦町)

当然ながら、ほとんどが聞いたこともない芝居小屋で、所在地も含めかなり驚かされます。上述の通り、昭和29年1月31日をもって法令(建築基準法・消防法)によりこれらの劇場は三吉劇場(三吉演芸場)を除いてすべて閉鎖となったそうです(ただし、昭和31年の明細地図には浅間町の「横浜劇場」が掲載されているので、すべてが閉鎖というわけではなかったようです)。

神笠さんは、こうした大衆演劇の小屋が失われていくことを惜しみ、戦前からの大衆文化が一掃されるような風潮を懸念していたのだと思います。それがこの記事となったのでしょう。

またまた余談ではありますが、以前、横浜演劇研究所の事務所(福富町)から演劇資料室へ荷物を運ぶお手伝いをした際、資料の中に聞いたことのない名前の劇場図面(青写真)が数枚あったのを思い出しました。あれはきっと神笠さんが作成したものなのでしょう(資料室の未整理の段ボール箱のどこかに入っているはず)。


話を戻します。

この対談が行われたのは昭和28年の年末ですから、すでに杉田劇場は閉場となっていたはずです。残念ながら雀之助の発言の中に杉田劇場の名前は出ませんが

"大体、此ういう小屋(引用者註:仮設劇場)が建つたのは終戦後で、当時は何を演つてももうかりましたから何處でも素人が建てたんです(中略)小屋主にしても、野天で板囲いの頃はもうかり、金をかけて劇場らしく、屋根を造つた頃からもうけが薄くなり"

と言っているのは、いささか文脈が違うものの、杉田劇場や銀星座のような劇場が経営難で閉鎖されていったことも、多少は念頭にあったのかもしれません。

一方、雀之助自身や劇団については

"私と長八郎さんとは幼馴染なんで、それで二人で新国劇の島田辰巳の少し小規模なものをと話し合って一座をつくり"

"私は大体歌舞伎畑なんですが、あそこはノレンが無いと…"

"ですから種々な試みもしました。何人か楽士を入れてオペレッタもやりましたし、新舞踊を始めたのも横浜では私達が最初なんです"

など、興味深い発言をしています。

昭和23年、杉田劇場に登場した際、市川雀之助一座は「歌舞伎オペレッタ」を掲げていましたし、演目の中に「舞踊劇」もたびたび登場することから、この雀之助の発言は杉田劇場で興行していた頃の話だと思われます。

1948(昭和23)年4月20日付神奈川新聞より

さらに国会図書館のデジタルコレクションで検索してみると、雀之助のことが比較的詳しく書かれている雑誌記事が見つかりました(『新婦人』1961年6月号(文化実業社))。

それによると、市川雀之助は

"その昔浅草に宮戸座という芝居小屋があつたころ立ちまわりがうまいので人気のあつた市川市十郎の一座にいた二代目市川雀之助の息子で、十四の年に初舞台をふんでから約二十四年間、剣劇ひと筋に生きてきた男"

とあるので、上に引用した「私は大体歌舞伎畑なんですが」というのは、このことだと思われます。

1961年の段階で24年前が14歳ということは当時38歳。逆算すると1923(大正12)年頃の生まれということになります。旧杉田劇場に登場した時はまだ25歳くらいの若い座長だったわけですね。

別の本(『風流乗りあいバス : 浮世粋談寄せ書帖 酔筆名人集』(あまとりあ社編集部, 1956))では「居守うらない」という小文を雀之助自身が寄稿していて、内容からすると戦時中は出征し、南方戦線にいたようです。1923年生まれであれば、年齢的にもおかしくはありません。

『新婦人』に戻ると

"今年の正月(引用者註:1961年1月)、思いがけないチャンスから立ちまわりのうまさを買われて新宿コマ劇場の春日八郎ショウに特別出演。これが認められてこんど念願の常盤座出演がかなつたもの"

ともありますから、横浜での活動時期を終えてからの雀之助は、東京でもかなりな人気を得ていたようです(浅香光代一座などとも合同公演を行っています)。掲載されている写真からも、また記事の「大川橋蔵と川路竜子をまぜ合わせたような男つぷり」という一文からしても、いかにも人気の出そうな男前です。


さて、『よこはま演劇』では、対談の最後に加藤所長が自身のテリトリーでもある新劇について尋ねています。それに対して雀之助は

"もっと積極的に大衆に溶け込まなければどうしようも無いんぢゃないですか。大衆より偉い、大衆を引張つてやる、という態度が一番良くないと思います。新劇の人にはそういう点が共通していますね"

"以前「火山灰地」を観に行きましたがダラダラしてて退屈しましたよ。新劇の人はそれに自己満足しているんぢゃないですか。そういう陶酔感を少なくしてもう少し観せる芝居を演るようにしなければ…"

と答えていますが、加藤所長への言葉と考えると、なかなか遠慮のない辛辣な批判で、よく掲載したものだと驚かされます。

そんな対談の後記を、神笠さんはこんな指摘で締めくくります。

"(仮設劇場の閉鎖)の代償に、多くの人々が自分の家の近くの劇場を、芝居を、失つたのである。今はそれしかいうことが出来ない"

この時期、戦後復興の名のもとに、さまざまなものが急速に失われていったわけです。状況は違うものの、ここ数十年の横浜でも、スカイ劇場、電業会館、相鉄本多劇場、教育文化センター…と、なくなった劇場・会館は少なくなく、同じような傾向は、いまなお続いているような気もします。


そんなこんなで、今回は昭和23年に初登場した「市川雀之助」についての考察から、戦後横浜演劇などについても考えてみました。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

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(101) 三船敏郎と美空ひばりと忠臣蔵と

大高よし男の三回忌追善興行が行われた昭和23年は、横浜でかなりエポックメイキングな公演が続いた年です。

今回は少し余談めきますが、そんなお話。


以前書いたように、杉田劇場でデビューした加藤和枝は3月に「美空ヒバリ」、5月に「美空ひばり」として横浜国際劇場の舞台に立ちます。

1948(昭和23)年3月8日付神奈川新聞より

大高よし男一座の幕間で唄っていた少女は、2年という短期間で、この舞台から全国区のスターになる第一歩を踏み出すわけです。


一方、杉田(中原)にゆかりのあるもう一人の大スターが、この年の9月、同じ横浜国際劇場の舞台に立ちます。

三船敏郎です。

同年4月に公開された黒澤明監督『酔いどれ天使』の実演版(!)が横浜国際劇場で上演されたのです。この舞台は三船敏郎の生涯唯一の実演だとも言われていて、かなり珍しい公演です(9月7日〜13日)。

1948(昭和23)年9月7日付神奈川新聞より

出演者がほぼ映画と同じメンバーというのも驚きですが、それよりも驚愕なのが「演出 黒沢明」の文字です。文字通りに受け取れば、黒澤明が実演の演出もやったということになります。詳しいことはわかりませんが、これも黒澤唯一の舞台演出なんじゃないでしょうか。

この舞台についてネットで調べてみたところ詳しい情報に行き当たりました(こちら)。

追加で調べますと、当時、東宝争議(第3次)があって映画の撮影がままならぬ環境だったようです。その影響と言っていいのでしょう、こうした実演の企画が持ち上がったと思われます。9月4日に静岡歌舞伎座で初日を開け(4日・5日の二日間)、全国巡業の予定だったのが、不入りのせいか、ほかの理由でか、2番目の巡業地である横浜国際劇場での公演をもって打ち切りになったのだとか。

Wikipediaの三船敏郎の項では

「デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。しかし、東宝争議が激化したため撮影部転属を諦め、黒澤、志村と共に『酔いどれ天使』の舞台実演で全国を巡業する(下線引用者)

と書かれています。ちなみに『酔いどれ天使』の項では、舞台版として2021年の明治座と大阪歌舞伎座のものしか書かれていませんから、昭和23年の舞台は知る人ぞ知る幻の公演だったのかもしれません。

なお、三船敏郎と磯子の関わりについては、郷土史研究家、葛城峻さんの本に詳しく書かれていますが、戦後、復員してきたのが磯子で、杉田の隣町の中原に下宿して、進駐軍関係の仕事をしていたそうです。

"国道十六号線のバス停「境橋」の山側の入口に熊野神社の御神木が残っています。ここを百メートル入った先の四筋に別れる中央道路左側に池田邸がありますが(引用者註:今はマンションになっている)、ここに敗戦直後満州から引き揚げて来た三船敏郎が住んでいました"(葛城峻『やぶにらみ磯子郷土誌』/磯子区郷土研究ネットワーク, 2015より) 

別の資料から三船自身の発言など、ふたつほど引用してみます。

“そのうち兵隊仲間で、数年前に除隊したやつが横浜に住んでいたんです。弟も帰ってきて、連絡とりあって、それで横浜に一緒に住んでいたんです(中略)近所に池田組という、横浜の輸送のほうを引き受けていたおやじさんがいたわけです。磯子の奥の方に発動機、エンジンつくっていた石川島というのがあったんですよ。爆撃でめちゃくちゃになっていましたけど(中略)そこへ米軍が入ってきて、アメリカの兵隊たちにコカ・コーラを飲ますから、ここへ機械を据えるということで(中略)三船君手伝ってくれということでそれを手伝っていたんですよ”講座日本映画5『戦後映画の展開』/岩波書店, 1987より)

“三船は九州の駅から蒸気機関車に乗り、熱い釜の近くに掴まって、横浜へ向かった。そこに、自分の弟と妹がいることが分かったからだ。「兄妹が数年ぶりに再会できたんですが、しばらくは、横浜の磯子に住み、下宿しながら、肉体労働をしていたそうです(中略)その工場にしばらくいてから、大山さんを訪ねたんです。そのときは、横浜の磯子から、(世田谷区)砧の東宝撮影所まで歩いていったと話してました」(史郎)”(松田美智子『サムライ 評伝三船敏郎』/文藝春秋,2014より)

のちに黒沢映画でたびたび共演する三船敏郎と千秋実が杉田にいた奇縁については、以前このブログにも書きました→こちら

両者のいた時期はズレていると思っていましたが、三船が東宝撮影所を訪れるのが昭和21年5月で、上記引用によればまだ磯子に下宿していたようなので、昭和21年2月、千秋実の薔薇座の公演時、三船敏郎も杉田にいた可能性が高くなります。街ですれ違うようなこともあったかもしれません(中原から石川島の工場へ行く途中に杉田劇場があった)。つくづく不思議な縁です。

それにしても三船はよほど印象の強い人だったのでしょう、まだ一般人だった彼が商店街を歩いていたのを見た、なんていう人が地元に結構いらっしゃいます。有名人でもないのになぜわかったのかが不思議でしたが、一種のオーラみたいなものがあったのでしょうし、数年後には銀幕に登場したのですから、すぐにピンときたのでしょうね。

美空ひばり・三船敏郎とも、杉田(中原)の街で過ごしてから2年あまり、この年を境に一気にスターダムを駆け上がります。「ゆりかご」としての杉田、「ステップ」としての横浜国際劇場とも考えられ、戦後の大スターを育てた街として、いささか誇らしくも感じます。

ちょっと身贔屓が過ぎますが…


さて、この年、杉田劇場に限って言えば、5月20日からの女剣戟・浅香光代一座の興行が特筆すべき舞台です(5月20日〜28日)。

浅香光代といえば、晩年まで歯に衣せぬ発言で人気を集めたタレントとして有名でしたが、そもそもは女剣劇の役者で、浅香新八郎森静子夫妻の一座(新生国民座)に入団したのち、自分の一座を立ち上げた人です。

戦前の女剣劇「三羽烏」(大江美智子・不二洋子・伏見澄子)は、戦後「四天王」(大江美智子・不二洋子・中野弘子・浅香光代)へと変わり、彼女が戦後のブームの一翼を担った立役者ともいえます。殺陣の最中に、着物の裾がめくれて内股がチラリと見える「チラリズム」でも人気が高かったそうです。

1948(昭和23)年5月22日付神奈川新聞より

残念ながら、彼女が杉田劇場に来演したのはこれが最初で最後だったと思われます。

公演の内容は実演に映画の併映で、後半は「裸体映画」ですから、剣劇のチラリズムと相まって、杉田劇場としては「エロ」を売りにした興行だったのかもしれません。

1948(昭和23)年5月28日付神奈川新聞より

余談の余談ですが、浅香光代一座の興行は5月28日までで、その翌日、5月29日からは横浜のアマチュア劇団「葡萄座」の公演が3日間続きます。葡萄座の千秋楽(31日)の夜は「浪曲の夕」だし、翌日からは『りべらるショウ』が始まるので、なかなか混沌としたプログラムの合間に葡萄座の公演が行われていたことがわかります。

1948(昭和23)年6月1日付神奈川新聞より

この年の杉田劇場におけるもう一つの大きなトピックは、6月10日から14日までの「通し狂言『仮名手本忠臣蔵』」です。この興行は『神奈川県史』の年表にも記載されているもので、戦後初の忠臣蔵通し上演として名高い舞台です。広告も大きく、劇場側もかなり力を入れていた印象です。

1948(昭和23)年6月12日付神奈川新聞より

広告だけでなく記事にもなるほどの話題だったようですが、記事中「横浜では終戦後最初の」と書かれているので、実際にどこまでのレベル(範囲)で「戦後初」なのかは、もう少し検証した方がよさそうですね。

1948(昭和23)年6月10日付神奈川新聞より

これだけ話題性のある忠臣蔵の通し上演ですし、広告にも「連日満員」とあることから、さぞかし客入りも良かったのだろうと想像しますが、4日目(5月13日)と千秋楽の「映画演劇情報欄」では前日までの情報に追記するような形で「当日賣有り」と書かれているので、集客自体はそれほど芳しくなかったのかもしれません。杉田のような街では、もう少しわかりやすいものが好まれたのかな、なんて想像するところです。

1948(昭和23)年6月14日付神奈川新聞より

以前に書いた「朝川浩成・鳩川すみ子の同生座」が登場したのもこの年ですし、歌舞伎オペレッタの看板を掲げる「市川雀之助一座」が登場するのもこの年からです(市川雀之助についてはまた改めて)。

1948(昭和23)年1月31日付神奈川新聞より

さらには、杉田劇場で(おそらく)初めてエロを前面に出した公演(新世紀座の『肉体の街』。ですが、この劇団や作品の詳細はよくわかりません)があったり(2月)、映画の上映が多くなるのもこの年。

1948(昭和23)年2月24日付神奈川新聞より

また新しい緞帳(引幕)が寄贈されたのもこの年です(その経緯は杉田劇場のブログに詳しく書かれています)。


大高よし男の三回忌に当たる昭和23年は、杉田劇場もその他の劇場も激動の時期で、戦後の興行が大きな転換期を迎えた年だともいえそうです。


そんなこんなで、今回は昭和23年の横浜興行界について少し考えてみました。


→つづく


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(100) 大高ヨシ男三回忌追善興行

昭和23年9月21日、新聞紙上に「故大坂ヨシ男追善興行」の広告が出ます。

1948(昭和23)年9月21日付神奈川新聞より

以前にも少し触れましたが、これは「大高ヨシ男」の誤りです。翌日からの三行広告(「映画演劇情報」欄)ではちゃんと「故大高ヨシ男」に修正されています。

1948(昭和23)年9月22日神奈川新聞より

前年の一周忌にはこのような公演はなく、三回忌に合わせて追善興行が行われたようです。

大高の名前表記がブレるのは没後も相変わらずですが(今回は「ヨシ男」)、大高一座の劇団名の方も座長の没後、「暁第一劇団」だったり「暁劇団」になったりと、表記は毎度ブレブレです。しかし、昭和22年の夏頃からは「暁劇団」が定着し、昭和23年以降はこの名前になったようで、これも「暁劇團公演」と銘打たれています。


ここで、三回忌追善興行に至るまでの劇団の活動を少し振り返ってみます。

昭和21年10月22日、中野かほるが出演した追善興行の後、11月は公演がなかったようですが(立て直しを図っていたのかも)、昭和21年12月にほぼ1ヶ月の興行が杉田劇場で行われています。研究生募集の文言も見られるので、劇団継続の意思ははっきりしていて、片山さんの証言や尾上芙雀の発言などに見られる、解散・消滅といった兆候は感じられません。

1946(昭和21)年12月17日付神奈川新聞より

さらに翌年、昭和22年の前半は阪東亀久之丞一座との合同公演(1月)、単独興行(3月)、市川門三郎一座との合同公演(7月)など比較的順調に興行を重ねています。

1947(昭和22)年1月7日付神奈川新聞より

1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より
※右の「湘南映画」の広告には「美空和枝」の名前が見える

ですが、8月1日〜3日の「お名残興行」(門三郎一座との合同公演から暁劇団が抜けた形)のあとは、新聞広告に名前が載らず、しばらく活動がなかったようです(夏巡業でもあったのかな?)

1947(昭和22)年7月29日付神奈川新聞より


ところが、「お名残」からほぼ3ヶ月後、降って湧いたように、杉田劇場ではなく「オリエンタル劇場」に「暁第一劇団」の名が登場するのです。

1947(昭和22)年10月28日付神奈川新聞より

オリエンタル劇場はその半年ほど前、昭和22年5月15日、南区高根町四丁目にオープンした劇場です。その後、東宝の傘下に入って「横浜東宝劇場」となりますが、やがて「横浜オペラ館」「横浜日劇」と名前を変え、最後は「横浜セントラル劇場」となって、横浜の伝説的なストリップ劇場となります。


この興行の後、しばらく新聞紙上で暁劇団(暁第一劇団)の名前を見ることはなくなります。

そしてオリエンタル劇場の公演からほぼ一年後、冒頭に紹介した大高よし男の三回忌追善興行となるのです。


実はこの興行の少し前から、追善興行へ向けての助走のように「暁劇団」の興行が始まっていました。8月26日から「ヴィナスショウ」の中で『魔人空を行く』というちょっと興味をそそるタイトルの「スリラー劇」を上演しているのです(その後の調査で、6月に「市川雀之助一座」との合同公演ありましたが、ごく短期間だったようです)

1948(昭和23)年8月26日付神奈川新聞より

「ヴィナスショウ」がどんなものだったのか、詳しくはわかりませんが、広告の絵や文言からして、おそらくストリップのようなものと歌謡曲、芝居を連ねたバラエティショーだったと思われます。

「ヴィナスショウ」と暁劇団の芝居は8月31日まで。その後、別の一座(市川雀之助一座)を挟んで、9月15日から再び暁劇団の興行が始まります。大高の生前には四日替り(4日ごとに演目を替える)のスタイルでしたが、この時期は三日替りだったようで

9月15日〜17日 軽演劇「愛は踊る川端柳」、新劇「港の朝」
9月18日〜20日 「天使と悪魔」、「應援團長の恋」

というプログラム。内容は映画と実演の組み合わせで、前半は「金語楼の親馬鹿大将」、後半は「千恵蔵のおしどり笠」が同時上映されています。

1948(昭和23)年9月14日付神奈川新聞よ

1947(昭和23)年9月18日付神奈川新聞より

杉田劇場はオープン前の新聞記事で「映画劇場」と紹介されていたくらいですから、最初から映写設備はあったのかもしれません。ですが、映画が杉田劇場の新聞広告に登場することはほぼなく、よく載るようになるのはこの年(昭和23年)からなので、それまでは実演劇場としてのスジを通していたのかもしれません。

もっとも、映写設備を後年になってから導入した可能性も否定できません。実演劇場としての経営が厳しく、映画で劇場の立て直しを図ったのかもしれないからです。この頃(昭和23年8月1日)、杉田劇場は株券を発行して資金を集めており、経営はかなり苦しくなっていたのです。

杉田劇場株券(磯子区民文化センター所蔵)


さて、大高よし男の追善興行(三回忌)は9月22日に始まり、広告によれば24日までとなっています。ですが「映画演劇情報」欄には26日も同じ公演が掲載されているので、掲載ミスでなければ、好評を受けて2日間延長したのかもしれません。

「好評」には根拠がないわけではありません。この三回忌の後、追善興行にも特別出演した藤村正夫を座長に迎え「新生暁劇団」として活動を再開しているからです。しばらく休んでいたのが、追善興行の好評を受けて復活の狼煙をあげたと考えても、あながち間違いではないように思います(新生暁劇団については別途)。

藤村正夫は、もともと日吉良太郎一座に参加していましたが、のちに独立して自分の一座を立ち上げた役者です。戦後は、弘明寺銀星座の自由劇団にも参加しており、そんな縁もあって暁劇団の再生に力を貸したのでしょう。後年、昭和30年代には大江美智子一座の公演にも参加するなど、俳優として実力も知名度も兼ね備えた人だったようです。


三回忌追善の前後、暁劇団(暁第一劇団)は紆余曲折を経ながらも、再興を図って活動を続けていました。しかしながら「大高よし男」についていえば、杉田劇場はもちろん神奈川県内の劇場でも、その名前を見ることは、もはやなくなるのです。

人気を誇った座長もこの時期を最後に歴史の闇に消えてしまったわけです。

それから40年後、1980年代になってから美空ひばりのデビューについての調査・研究の中で、大高の名前はふたたび日の目を見ることになるのです。


→つづく


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