〔番外〕 川村禾門と葡萄座

今回は番外編。

このブログでも何度か紹介したと思いますが、堀川惠子著『戦禍に生きた演劇人たち』は、広島で被爆した移動劇団「桜隊」の悲劇をつぶさに取材した本で、戦時中の新劇「受難史」として、当時の演劇状況がよく理解できる名著です。

この本は、桜隊に参加して被爆死した女優森下彰子と、その夫でやはり俳優の川村禾門のエピソードを軸に組み立てられていて、新婚の夫妻が交わした手紙は、幸福な若い夫婦とそれを引き裂く戦争の残酷さを物語る貴重な資料となっています。

晩年の川村禾門を描く最終章のエピソードも胸を打つもので、多くの読者が「川村禾門」という名前を記憶に刻んだことだろうと思います。


そんな中、先日、旧杉田劇場のことを調べようと、横浜でもっとも歴史のあるアマチュア劇団「葡萄座」の創立50周年記念誌『年輪』(1997年刊)を開いていたら、なんと第50回記念公演『楢山節考』(1963)のキャストの中に、見覚えのある「川村禾門」の名前を発見したのです。

葡萄座創立50周年記念誌『年輪』より

同姓同名の別人かとも思いましたが、それにしては偶然が過ぎます(こういう名前の人はそうそういないでしょう)。そこで『戦禍に生きた演劇人たち』を読み返してみたところ、こう書いてあるではありませんか。

「大映を解雇された禾門は、その後、松竹に拾われて何とか大部屋俳優に留まった」(P.352)

そうか!

葡萄座の座長だった山本幸栄さんは松竹の大部屋にいましたし、劇団員の羽生昭彦さんも大部屋俳優で『男はつらいよ』ではタコ社長の下で働く印刷工役を長くやっていました。葡萄座にしばしば客演していた城戸卓さんも同じく松竹の役者さんで、その縁を考えれば「あの」川村禾門が葡萄座の舞台に立っていたとしてもまったくおかしくないわけです。

『年輪』には「フラッシュ、バックの記」と題した川村禾門のコメントも掲載されていて、そこには昭和11年にできた「川崎協同劇団」(京浜協同劇団とは別団体らしい)に参加していたと書いてあるので、神奈川のアマチュア演劇とはかなり近いところにいた人なんだということもわかりました。

『戦禍に生きた演劇人』には昭和15年に日活に入所した川村禾門の「感想文」の引用で

「職業を転々替え乍ら、素人劇団で勉強を続けてきた僕にとっては」(P.203)

とあり、この素人劇団が「川崎協同劇団」であると考えて間違いないでしょう。

葡萄座創立50周年記念誌『年輪』より

また、上の画像の冒頭にもある通り、川村禾門は杉田劇場で葡萄座が上演した真船豊『見知らぬ人』(1947年8月29日〜31日)を見ているのです。おそらく葡萄座が杉田で行った公演には、ほぼ毎回足を運んでいただろうとも思われます(神谷量平『ヴォルガ・ラーゲリ』についての言及もある)。※葡萄座公演『見知らぬ人』については杉田劇場のブログにも記載があります


どうやら葡萄座と川村禾門には深い関わりがありそうだと、僕の劇団に所属している森さん(森邦夫さん=元・葡萄座座員)に「川村禾門って知ってる?」と尋ねてみたところ、「知ってるよ。カモンちゃんね」との返事! 年齢は森さんの方がかなり下だけど、「ちゃん」付けで呼ぶほどの関係だったようです(後日、写真を確認してもらったら「確かにこの人」と言っていました)。

森さんによれば、「カモンちゃん」は横浜で飲み屋をやっていたとかで、何度かそのお店にいったこともあるそうです(『戦禍に生きた演劇人たち』の中では「その後は、パン屋の仕事やホテルのフロント業で生計を立てながら」(P.353)とありますので、川村禾門本人ではなくご家族がやっていたのかもしれません)。


川村禾門は稲垣浩監督の映画『無法松の一生』(1943)に出演しています。阪東妻三郎演じる「松五郎」から「ぼんぼん」と呼ばれて愛された吉岡大尉の遺児「吉岡敏郎」の青年時代を川村禾門が演じているのです(幼少時は澤村アキヲ=のちの長門裕之)。

『戦禍に生きた演劇人たち』が川村禾門を取り上げるのには理由があって、夫人の森下彰子とともに、広島の原爆で亡くなったのが、『無法松の一生』で松五郎が思慕する吉岡夫人役を演じた園井恵子だからです。園井恵子と川村禾門が『無法松の一生』でつながっていたという奇縁もカギのひとつになっているわけです。


森さんに話を聞いても「カモンちゃん」が『無法松』に出演していたことは知らなかったそうで、戦後、そういうことを周囲には話さずに過ごしてきたのかもしれません(もっとも森さんがそういうことに興味を持つタイプではないというのもあるのですけどね)。


横浜の演劇史は実は東京や日本全国の演劇史からすると「スピンオフ」みたいな存在なのかな、と最近はよく思います。

今回、知られざる意外なつながりがあることを痛感させられました。あらためて深く調べ直して、いまのうちに話を聞ける人には聞いておかないと、貴重な歴史が誰にも知られず埋もれてしまう気がしています。

ついでの余談ながら、以前も書いた通り、横浜演劇研究所が発行していた機関紙「よこはま演劇」には、武田正憲と加藤衛所長の対談が掲載されています。

機関紙「よこはま演劇」No.5(1954) より

武田正憲といえば文芸協会や芸術座で島村抱月や松井須磨子と一緒に活動していた人物で、溝口健二監督の『女優須磨子の恋』では「役名」として登場するほどの人です(演じたのは千田是也)。※『よこはま演劇』では“「生きている演劇史」的存在”と書かれている

また、この対談が行われた日は昭和29年4月4日夜、場所は「加藤研究所長宅」とあります。当時、加藤衛さんは磯子区中原に住んでいたはずなので、“生きている演劇史”の武田正憲も杉田の地を訪れていたということになります(いささか強引な地元贔屓ですが…)。

これもかなりレアな記録なんじゃないかと思います。


→つづく

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。 

(78) 銀星座と日吉良太郎について

大高よし男の顔がわかったことで、足跡探しも一気に前進、と行きたいところですが、なかなかそうは問屋が卸さないところがこういう調査の醍醐味(?)でして。

昭和15年3月の横浜敷島座で近江二郎一座に参加する以前の活動がまったくわからず、探索はすっかり停滞しています。昭和13年10月末まで、近江二郎一座が名古屋宝生座で興行していることがわかっているので、目下、その後の近江一座の足取りを『都新聞』の「芸界往来」欄などから調べているところですが、難航しています。

昭和13年10月以前の近江一座には大高よし男(高杉弥太郎)はいないと思われるので、同年11月から昭和15年2月までの間のどこかで、大高は近江一座に参加することとなるわけで、その時期の特定と記録が見つかれば、壁が突破できるはずです。


そんなこんなで、戦前の調査が行き詰まれば、戦後の調査に移行せざるをえない。というわけで、図書館に行くたびに戦後の神奈川新聞を1か月ずつ調べているところです。

そんな中、昭和22年11月25日付の神奈川新聞に掲載された銀星座(弘明寺)の広告に、興味深い名前を見つけました。

日吉良太郎

です。(日吉良太郎については以前の投稿を参照してください。ただしその投稿には若干の誤りがあって、出身地は岐阜県の神戸町のようですし、弁士だったというのもちょっとあやふやな情報です)

昭和22年11月25日付神奈川新聞より

この広告によれば、銀星座専属の自由劇団が、大岡警察署刑事部長・桑名甲子次原作による防犯劇を上演するにあたって、脚色を日吉良太郎が担当しているというのです。

僕が調べた範囲では、戦後、新聞に日吉良太郎の名前が登場するのはこれが初めてです。


戦前・戦中と横浜で絶大な人気を誇り、末吉町にあった横浜歌舞伎座で6年半も連続興行を続けた日吉良太郎一座ですが、小柴俊雄さんが『郷土よこはま』(No.115)に寄稿した論文によれば

「太平洋戦争が急迫して来て、享楽追放で公演ができなくなる」(同書 P.60)

という事態に追い込まれます。

また同氏の『横浜演劇百四十年ーヨコハマ芸能外伝ー』には

「戦後、日吉良太郎は活動の場がなくなって一座を解散。日吉も昭和二十六年八月に六十四歳で死去した」(同書 P.60)

ともあります。

日吉一座と座長の日吉良太郎は終戦とともに消えていったということになります。

ですが、僕は銀星座専属・自由劇団のメンバーの大半が日吉一座の元座員であることからして、その背後に(顧問や参与といった立場で)日吉良太郎がいたんじゃないかと推測しているのです。


銀星座は杉田劇場に遅れること3ヶ月、昭和21年3月23日に弘明寺商店街、観音橋のたもとに開場します。何度も書いている通り、柿落としは近江二郎一座で、5月末まで近江一座の興行が続きます。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より


その後の銀星座は、旧杉田劇場と同様、演劇や演芸、歌謡などさまざまな企画で、娯楽に飢えていた市民のニーズに応えていました。

昭和21年6月10日付神奈川新聞より

昭和21年6月12日付神奈川新聞より

それが昭和21年8月に専属の自由劇団(当初は「横浜自由座」)が誕生してからは、自由劇団の公演を中心にプログラムが組まれていくようになります。自由劇団の興行がいつまで続いたのかは、まだ調査ができていませんが、昭和24〜5年くらいまではやっていたように思われます。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より 横浜自由座初登場の広告

連続興行ができるくらいですから、自由劇団の人気は相当に高かったものと想像できます。その人気にあやかってか、昭和22年1月には美空和枝(のちの美空ひばり)が銀星座の舞台、自由劇団の幕間に登場するのです。

昭和22年1月14日付神奈川新聞より

以前投稿したように((75) じゃがいもコンビについて)、日吉一座に参加していて、戦後、大高一座の座員だった壽山司郎も昭和22年10月頃から自由劇団に参加するようになり、戦前の日吉一座を知る当時の人からすれば、自由劇団=日吉一座とも見えたことでしょう。2年弱のブランクを経て、日吉一座が銀星座で復活したと感じた人もいたはずです。


あくまでも僕の推測ですが、戦中は「愛国劇」の旗印を掲げて、国策に準じるような芝居を盛んに上演していた日吉良太郎ですから、戦後、戦犯訴追を恐れて身を潜めていたのかもしれません。

小幡欣治著『評伝菊田一夫』によれば、菊田一夫も戦犯訴追を懸念して、GHQに執筆を続けていいのかという問い合わせまでしていたそうですから(同書 P.144)、日吉良太郎の心中にもそんな恐れがあったとしておかしくはありません。訴追や裁判の方向が見極められるまで身を潜めていようとした可能性は否定できません。

(もっとも、そのわりに昭和22年の電話帳(横浜中央電話局「電話番號簿」昭和二十二年四月一日現在)には日吉の本名「北村喜七」がしっかり掲載されていて、職業欄には「俳優」と書かれているのですから、戦犯云々は推測の域を出ませんが…)


いずれにしても、戦後、長らく報じられることのなかった日吉良太郎の名前が、終戦から1年以上経ったこの日になってようやく登場したこと、しかもあれだけの人気を誇った座長が、座員たちと同程度のフォントで印字されていることには、あえて目立たぬようしたのか、なんらかの背景があると感じられてなりません。


ちなみに、日吉良太郎も近江二郎も井土ヶ谷に住んでいました。日吉良太郎は井土ヶ谷中町、近江二郎は戦後は通町のあたりだったようです。どちらも最寄りの電停(市電)から弘明寺まで乗り換えなしに行けたはずです。

同じ地区に住む二人の座長が、横浜を拠点にしながら、杉田劇場や銀星座を足がかりに、戦後の新たな演劇界を生き抜いていこうと奮闘していた姿が見えてくるようです。

しかし

昭和24年5月29日 近江二郎没
昭和25年3月 杉田劇場、実質的な閉場
昭和26年8月 日吉良太郎没
昭和27年11月 銀星座、休場(のちに改装されて映画館=有楽座となる)

戦争が終わって、さあこれから、と戦前・戦中の横浜演劇界を支えた両雄が、杉田と弘明寺の地にあげた復興の狼煙は、この時期、立て続けに消えていったわけです。

そしてそのバトンを継ぐかのように、美空ひばりの全国的な人気が高まっていくのは、時代の替わり目を目の当たりにするようで、感慨深いものがあります。


→つづく


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(77) 終戦直後の杉田と浜中学校

大高よし男の写真を目にすることができて、興奮のあまり根拠のない妄想が膨らむ悪い癖が始まりそうですが、ここはひとつ冷静にならねばと、「大きな誤り」の原因となった浜中学校の学芸会写真の詳細を探るべく、中央図書館で『浜中学校創立50周年記念誌』を閲覧してきました。

結果として学芸会の詳細はわかりませんでしたが、学校建設の経緯を記した文章にハッとさせられました。

曰く

「浜中学校下の長作公園には、もと日本飛行機株式会社の社員寮が、四棟あった。終戦となり、昭和二十年八月以降、進駐軍が接収し、第八軍MP部隊が利用していた。昭和二十二年十二月この土地を国鉄が買収(中略)学校用地を提供することになり、ここに浜中学校の校地が定まったのである」

 終戦直後、浜中のあったところには進駐軍がいたのです!

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より
(昭和50年代半ばに僕が通っていた当時もまだこの校舎があった)

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より
(僕が通っていた当時もあって「国鉄寮」と呼んでいた)

おそらく日本飛行機の寮を接収して米軍の兵舎に転用したのでしょう。

以前、中原の古老に話を聴いた折には、杉田駅西口にあったIHIの寮にも米兵がいたそうだし(おそらく石川島の寮を転用)、白旗に住む女性は自宅で米兵向けの慰安所(いわゆる”パンパン宿”=ご本人がそう言っていた)を開業していたというし、京浜急行の傍にある中原見守地蔵の墓誌には、ここにあった遮断機のない踏切で事故死した米兵の名前が刻まれています。

さらには、市電の終点、杉田電停の少し先にはカマボコ兵舎があり、そこの米兵が旧杉田劇場に入場料を払わずに勝手に入って困ったという話は「片山茂さんの聞き書き」にも記録されています。

(考えてみれば「横浜海軍航空隊(浜空)日本飛行機石川島航空工業」という海軍関係施設の玄関口だった杉田は、進駐軍にとって横浜で真っ先におさえるべき街のひとつだったのでしょうね)

 

かつて杉田駅東口にあった少々薄暗いアーケード街は、闇市からスタートしたそうです。戦災の被害を受けなかったことで、杉田の闇市は野毛などよりも先に営業していたそうですから、絵に描いたような戦後混乱期のカオス状態は、かなり早い時期からこの街に広がっていたのだと思われます。

明るく賑やかな商店街と瀟洒な住宅やマンションが並ぶ現在の杉田・中原からは想像もつきませんが、終戦直後のこの街には、多くの駐留軍(アメリカ兵)が闊歩していたのだろうし、彼らを相手にしたいわゆる「パンパンガール」もいたのだろうと思います。

そういう地に旧杉田劇場は開場したのです。

そこでは大高よし男が人気を博し、幼い美空ひばりがプロデューサー鈴村義二を驚嘆させ、近江二郎や市川門三郎が客席を沸かせ、若き日の千秋実が新しい劇団の旗揚げに燃えていたのです(ごく短期間だけど復員してきたばかりの三船敏郎も住んでいた)。

(まさにカオス…)


戦後の横浜といえば、すぐに野毛の闇市や関内・伊勢佐木町あたりのカマボコ兵舎が思い浮かびますが、それらよりも早く「戦後横浜」の空気と風景が杉田に展開していたのかもしれません。

この地の歴史を見る目をアップデートしなければならない気がしています。


ちなみに、浜中の『50周年記念誌』には「昭和25年3月第2回学芸会(杉田劇場)」というキャプションのついた写真が掲載されていますが、これは舞台のタッパ、客席と舞台の高低差(客席の子どもたちが膝をついて舞台にかぶりついている)からして、杉田劇場とは明らかに違う会場だと思います。

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より

昭和25年1月の杉田劇場

昭和27年の学芸会は杉田劇場でやっていて(『安寿と厨子王』)、その写真は残っています。


記念誌にある学芸会の会場は、劇場というより講堂や公民館のような感じで、もっと後年のものじゃないかと思うのですが。

どこなんだろう?

どなたかご存知の方がいたらぜひ教えてください。

→つづく


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