(93) 大正時代の近江二郎・その2

大正12年2月に横浜喜楽座を去った近江二郎は、名古屋と京都で深沢恒造一座に参加していたことがわかりました。京都・夷谷座での公演は5月21日に終わります。

ついで、近江二郎の名前は、5月31日からの浅草・公園劇場での帝国キネマ演藝社公演、伊村兄弟劇団(伊村義雄・山本繁)に参加するという新聞記事に登場します(1923(大正12)年5月27日付読売新聞)。京都で深沢一座の公演を終えるやすぐに東京に戻って浅草の舞台に立つわけです。公園劇場での伊村兄弟劇団の興行は、当初10日間だったのが好評を受けて続演となったようです。

その後の近江の足取りはまだ調査が進んでいません。

『近代歌舞伎年表』を辿ると、同じ大正12年9月1日から京都の京都座で深沢一派が河原市松一派・都築文男一派とともに興行を始めていますが、この公演に近江二郎がいたのかどうかはわかりません。大正12年9月1日といえば、関東大震災の発生した日で、当時、近江二郎の両親や兄弟は横浜に住んでいましたが、近江家のファミリーヒストリーというべき "FIFTH BORN SON"には二郎がそこにいたという記録がありませんので、震災時は関東ではなく、名古屋や関西方面にいたのではないかと推測しています。

深沢一派の京都座公演は9月いっぱい続き、10月からは深沢一派・河原一派という座組で大阪・楽天地中央館に舞台を移して興行が続きます。

実は、深沢一派が関西で興行を続けていたこの時期、10月15日からの名古屋新守座における「革新第一劇団」三の替りに「近江二郎加入」の文字が出てくるのです(『近代歌舞伎年表』名古屋篇・第13巻より)。「当狂言より新進の花形近江二郎出演」とあるので、近江二郎が新守座の舞台に立ったのは三の替り、10月15日からということになります。

この月の深沢一派(京都座)は9月30日からおそらく10月10日までと10月11日から20日までなので、仮に深沢一派に近江二郎がいたとしても10月10日までとなるわけです。

(いささか強引な推測かもしれませんが、「革新第一劇団」という名前は大高よし男の「暁第一劇団」を彷彿とさせるもので、このあたりに何かしらの関わりがあるのかもしれませんが、現段階では関連性は不明です。ひょっとしたら、この線から何かわかるかもしれません。期待しつつ調べてみたいと思います)


さて、近江二郎の参加した「革新第一劇団」は10月いっぱいで公演を終えます。その後の近江二郎の足跡はしばらくわからなくなりますが、翌大正13年4月にやはり名古屋の宝生座における「新進劇団」御目見得狂言の出演者の中に「近江次郎」の名前が登場するので、この時期の近江二郎は名古屋を拠点としていたのかもしれません。興行は4月1日から始まりますが、二の替りの4月7日からの公演では「寺田健一・近江二郎一座新進劇団」と記されているので、この頃には座長として仲間を束ねる立場になっていたとも考えられます。


新進劇団の名前での興行は5月いっぱいで終了し、今度は6月15日から名古屋楽天地で「日本劇座 近江二郎一派 お目見得狂言」の興行が始まります。一座のメンバーとして「竹内欣也・池田茂・川上要」の名前が記録されています(「竹内欣也」は「新進劇団」の出演者にある「竹内欣哉」と同一人物と考えられます)。安易な断定はできませんが、大正13年の春から初夏にかけて、近江二郎は一座を組織し、独り立ちしたのではないかと思われます。メンバーからしても、のちの近江二郎一座とは異なる顔ぶれなので、「プレ近江一座」みたいな感じでしょうか。

近江二郎一座の楽天地での興行がいつまで続いたかははっきりしません。ですが、7月には挙母(豊田市)の大正座で興行している記録(7月8日から)がありますので、やはり名古屋近辺が活動拠点だったと言えそうです。


それから1年後、翌年大正14年7月25日からの名古屋宝生座には「日本座 近江二郎一派 御目見得狂言」の記録が出てきます。そして、この時の一座のメンバーには実弟・戸田史郎の名前が初めて登場します。また深山百合子の名前が出るのも(おそらく)これが最初です(このあたりを事実上の近江二郎一座結成の時期と考えてもいいのかもしれません)。

"FIFTH BORN SON" によれば、近江二郎は横浜喜楽座に出ていた頃、芸妓の鈴香(深山百合子)と駆け落ちしたとされています。その時期が大正9〜12年だったのか、大正15年だったのか、はっきりしませんでしたが、大正14年の一座に深山百合子がいることを考えれば、大正12年に横浜を去る前に駆け落ちがあったと考えるのが妥当です。新聞でも大きく取り上げられたと書かれているので、大正12年初頭の横浜貿易新報をもう一度精読する必要がありそうです。


この名古屋・宝生座での記録には注意すべき記載があります。

「若手花形を揃へ帝都に出演し大成功を博せる近江二郎は、久々にて陣容を整へ第二の故郷当市に来演」(7月24日付「新愛知」, 『近代歌舞伎年表』名古屋篇第14巻, P.150 )

つまり、大正13年後半から大正14年前半にかけて、近江二郎は「帝都」」すなわち東京で公演していたことになるのです。

"FIFTH BORN SON"には "circa 1925 Yokohama(1925年頃 横浜)" のキャプションがある写真が掲載されていますが、大正12年から15年まで横浜での興行がなかったという新聞情報を信じて、これは単にキャプションの誤りだろうと思っていましたが、上記引用の中身からすると、まだ調べきれていない近江一座の横浜公演があった可能性も出てきます(もしかしたら大正15年(1926)の喜楽座「剣劇大合同」の舞台写真なのかもしれませんが)。

この時期の新聞もあらためてちゃんと精査しないといけませんね。

"FIFTH BORN SON"より

近江二郎一派は8月30日で宝生座を去りますが、四の替りで上演し大好評だった『愛の地獄』(「新愛知」連載)後編をもって、翌日の8月31日より、岐阜劇場を皮切りに「新愛知」の支局がある地を巡演したようです。

さらに、同じ年の年末、12月1日から21日頃まで宝生座でも公演しているので、未調査の「帝都に出演」を除けば、やはり主に中京地区で興行を続けていたのでしょう。

大正15年に入ると、4月30日〜5月27日は帝国座、6月1日から15日は中座、と名古屋での活動が順調に続いていたことがわかります。


前回の考察とそれ以前に判明していたものも含め、大正時代の近江二郎の活動でわかったものをまとめると、以下のようになります。

大正8年
5月 東京・本郷座 ※『大平野虹脚本集』より
 
大正9年
1月30日〜 横浜・喜楽座(新加入)

大正12年
〜2月18日 横浜・喜楽座を去る
2月28日〜4月17日 名古屋・歌舞伎座(深沢恒造一派)
4月30日〜5月(21)日 京都・夷谷座(深沢恒造一派)
5月31日〜 浅草・公園劇場(伊村兄弟劇団)
(9月1日〜(27)日 京都・京都座(深沢恒造一派))
(9月30日〜10月10日 大阪・楽天地中央館(深沢恒造一派))
10月15日〜26日 名古屋・新守座(革新第一劇団)

大正13年
4月1日〜5月30日 名古屋・宝生座(新進劇団) 近江次郎一座
6月15日〜21日? 名古屋・楽天地(日本劇座 近江二郎一派)
7月8日〜   挙母・大正座(近江二郎一派)

大正14年
7月25日〜8月30日 名古屋・宝生座(日本座 近江二郎一派)
8月31日〜  岐阜・岐阜劇場(日本座 近江二郎一派)
12月1日〜(21)日 名古屋・宝生座(近江二郎一派)

大正15年
4月30日〜5月27日 名古屋・帝国座(近江二郎一派) 
6月1日〜15日 名古屋・中座(近江二郎一派) 
8月  浅草・公園劇場(剣劇大合同 近江二郎一座)
9月1日〜10月30日 横浜・喜楽座(剣劇大合同 近江二郎一座)


川上音二郎・藤沢浅二郎の俳優学校を出た近江二郎は、 東京の新派の舞台を中心に俳優活動を始め、大正12年に喜楽座で大きな人気を得て、横浜で3年にわたるキャリアを重ねることになります。これをきっかけに名古屋や京都の舞台にも立ち、ふたたび東京の舞台にも立つわけですから、喜楽座での成功が近江二郎を一気に全国区にしたような印象です。

横浜という地は、演劇史上、あまり大きな話題にはなりませんが、関西の劇団が東上するにあたっては、横浜を経て、そこで成功をおさめた後に、浅草(全国区)へ進出というパターンが多いような気がします(関西→名古屋→横浜→東京のルートが一般的なのかな)。

大高も共演した女剣劇の伏見澄子が好例ですが、二代目大江美智子も初代が急逝した1ヶ月後に横浜敷島座の舞台に立っています(昭和14年2月)。単に横浜出身という縁ある地というだけでなく、二代目になるべく経験を積み、その資格を試すという意味合いもあったように思います。

昭和14年2月7日付横浜貿易新報より

演劇界において横浜は、成否を計るリトマス紙のような場所だったのかもしれません。近江二郎の大きな成功も横浜喜楽座がきっかけだったと言って間違いないと思います。

ということで、前回と今回は大正時代の近江二郎について見てきました。さらに細かく調べていく予定ですが、ここまでの事実を俯瞰すると、横浜と名古屋での人気が特に高かったことがわかってきます。

横浜での活動はかなり調べが進んでいますが、後年、浅草に進出した後も名古屋での舞台は多く、近江二郎の活動の全体像を知るためには名古屋の新聞をチェックすることが必須のようです。昭和15年に横浜敷島座に登場する直前も名古屋での舞台を経ていますから、大高よし男の痕跡も名古屋にありそうな予感がさらに強まりました。



→つづく


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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(92) 大正時代の近江二郎・その1

毎週の図書館通いも成果がなく、大高よし男の調査は完全に行き詰まっています。どこかに痕跡があってもいいはずだとは思うのですが、なかなか見つからないものです。

書くことも少なく、更新が1ヶ月以上も空いてしまいました。

ふぅ。

こういう調べ物は根気勝負なんでしょうね。


そんなこんなで、大高の周辺でもっとも成果の見込まれる近江二郎関係の調査を並行していますから、今回は近江二郎の大正時代の活動について書いてみたいと思います。


近江二郎は大正9年、大正15年、そして昭和15年、16年と、戦前の横浜には4回来ているとされています。昭和5年の渡米前に由村座でも興行しているので、掘り起こせばもう少し判明するかもしれませんが、大きな興行としては上記の4回ということになるのでしょう。

1930(昭和5)年9月1日付横浜貿易新報より

このうち、最初の大正9年が一番長期だったようで、大正12年2月まで3年にわたって喜楽座の舞台に立っていたとのことです。

喜楽座を去る日付はかなり明確で、昭和15年3月、近江二郎一座の敷島座公演の際に掲載された横浜貿易新報の記事にはこうあります。


「近江は、横濱の人気絶頂に達したと思ふ頃、ふつと、居なくなってしまった。想へば大正十二年二月十八日である」(昭和15年3月2日付横濱貿易新報より)


当時の新聞を見ると、たしかに同年2月19日から演目が変わっているので、その前の興行を最後に近江二郎は横浜を去ったのだろうと思われます。

その後、大正15年までの間、近江二郎がどこで何をしていたのかについては、これまで未調査でよくわかっていませんでしたが、毎度の『近代歌舞伎年表』を頼りに、この頃の関西・中京地区の活動を調べ、主に名古屋での活動状況がわかってきました。

今回はそのお話。


大正12年2月28日からの名古屋歌舞伎座における「深愛民衆劇 深沢恒造一派」出演者の中に「近江次郎」という名前が出てきます(『近代歌舞伎年表』名古屋篇・第13巻より)。近江二郎はしばしば「次郎」とも書かれるので、これは同一人物と考えていいでしょう。つまり、喜楽座を去ってすぐ(10日後)に名古屋で別の座組に参加していたというわけです。

ここには「名古屋新聞」の劇評からの引用として以下のように書かれています。


「宝生座の人気者であった戸川章、東都新派劇団の花形近江二郎や、女優の村田栄子などを加へ花々しく幕を開けた」(上掲書, P47)


名古屋にやってきた近江二郎は「東都」すなわち東京の新派劇団の花形とされています。実際には横浜・喜楽座の座員として丸3年舞台に立っていたのですが、名古屋の感覚としては東京も横浜も「東都」なのでしょうか。いずれにしてもこの記事から受ける印象は、名古屋ではあまり知られていないけれど、東京では有名な人という感じです。これが近江二郎の名古屋初登場だったのかもしれません。


「深愛民衆劇」の主宰である深沢恒造(フカザワ ツネゾウ, 1873-1925)の経歴についてはどの資料でもあまり差はありませんが、出身地だけは長崎の五島生まれという説と、横浜の青木町(もしくは桐畑)生まれという説があってはっきりしません。しかし五島生まれとする資料にも「横浜に転居」とあるので、いずれにしても横浜に住んでいたことは間違いないようで、横浜商業学校(Y校)を卒業し、商館で働いたのちに演劇の道を志したようです。

神戸の相生座で初舞台を踏み、伊井蓉峰一座でも活躍したそうですが、『演劇年鑑』(1925年版)の「俳優人名録」には「大正十一年一座を組織す」とありますから、近江二郎が参加したのはこの一座ということになるのでしょうか。たいていの俳優名鑑には掲載されている人ですから、新派の役者として一家を成した人物と言えます。

『新旧俳優 素顔と身上話』(大正9年)より

上に引用した名古屋新聞の劇評通りであれば、一座を組織した深沢が、当時横浜で人気を誇っていた若手の近江二郎を自分の一座に引き抜いたということになるのでしょう。いずれにしても、当時の近江二郎の人気と実力のほどが垣間見られるところです。


さて、この名古屋での興行は2月28日初日で、4月17日まで続きました。その後、同じ座組が4月30日からの京都・夷谷座に登場するのです(『近代歌舞伎年表』京都篇・第8巻より)。『年表』名古屋篇には名古屋での興行の後は「地方巡業の由」とありますので、これがそれに当たるのでしょう。

京都での興行は5月下旬(21日頃)まで続きますが、その後の活動はまだはっきりしません。ただ、「地方巡業」とあるからには、広島や九州など、別のエリアでの興行が続いていた可能性は高いと思われます。

なお、この京都でも新聞に近江二郎のことが書かれています。上掲『年表』には「京都日出新聞」を引用し


「深沢恒造一派は久々の出演とて絶大な人気を以て迎えられたが、一座には井上正夫一派に加入して人気を博した近江次郎や山口定雄の門弟にて声名のある戸川章等新派劇界の雄を網羅し(以下略)」(同書, P60)


と記載されています。

(『年表』の引用を追っていくと、新聞記事での近江二郎の扱いはだんだん上位になってくる感じで、名古屋に初登場した(かもしれない)彼が、舞台を重ねるごとに評判を上げていったようにも思えます)


上記引用には「井上正夫一派に加入」とありますが、大正9年に横浜喜楽座に初登場した際には、近江二郎は「新派後藤門下」と書かれていました。

1920(大正9)年1月29日付横浜貿易新報より

以前にも書いたように、不勉強でこの「新派後藤」がよくわからないところでしたが、いろいろ調べた結果、おそらく「後藤良介」だろうと推測しているところです。

『新旧俳優 素顔と身上話』(大正9年)より

近江二郎自身は自分の師を「川上音二郎」としています。川上音二郎の俳優学校で学んだことは明らかですが、その後、誰について舞台経験を積んだのかはわかりません。後藤良介に師事し、井上正夫の一座にも参加していたのかもしれません。大正初期の近江二郎の活動履歴がわかれば、その辺もはっきりしそうです。

しかし、ここで気になるのは、近江二郎が横浜に来た経緯として新聞に

「その頃の喜楽座支配人古河内滋人氏が、東京で若手の賣り出しで、井上正夫張りだといふ評判の近江二郎を引つこぬいてきた」(昭和15年3月2日付横浜貿易新報より)

とあることです。

井上正夫一座に参加していたのなら上記引用の「井上正夫張りだといふ評判」はちょっとおかしいような気もします。今後の調査の結果次第ですが、いずれにしても若き日の近江二郎は、新派の名だたる俳優たちと共演しながらキャリアを積んでいったということは間違いありません。


余談ながら、井上正夫は港北区日吉に「井上演劇道場」を開いたことでも知られ、また戦後、美空ひばりが出場した「オール横浜総合芸能コンクール」の審査員もしていますから、横浜や旧杉田劇場との縁も浅からぬものがある、と言えそうです。


さて、そんなこんなで、大正12年前半の近江二郎の足跡を整理すると

  • 2月18日 横浜・喜楽座を去る
  • 2月28日〜4月17日 名古屋・歌舞伎座(深沢恒造一派)
  • 4月30日〜5月(21)日 京都・夷谷座(深沢恒造一派)

ということになります。横浜での評判を受けて、近江二郎が全国区になっていく時期がこの頃なのですね。


大正12年6月以降の活動も少しずつわかってきましたので、次項はそのおはなし。

乞うご期待。


→つづく


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(91) 酒井淳之助の剣劇の人

振り返ってみればもう1ヶ月以上も更新が滞っていますが、毎度ながら細々と調査は続けています。


近江二郎の痕跡をたどるべく、重要な資料である"FIFTH BORN SON"に、貧弱な英語力を総動員して向き合い、二郎の実父、近江友治さんが一家の出身地である広島県蘆名郡福相村(現福山市)を出て、横浜で事業(養鶏)を始めたことや、広島にある墓から遺骨を移して横浜にも墓を建てたこと(南太田の常照寺にある「第二墳墓」)などがわかってきました。

近江二郎については調査の本筋ではないので、資料や痕跡が見つかるたびに穴埋めをするような牛の歩みではあるものの、明治末期から終戦後までの彼の人生の全体像がぼんやりと見えてきたようにも思います。


さて、肝心の大高調査ですが、かねてからの方針の通り、川上好子の動向を調べることから手がかりをつかもうとしています。彼女が昭和12年頃に日吉劇を離れて独立し、横浜敷島座で舞台に立っていただろうことはわかってきましたが、ちょうどその頃の新聞に敷島座の詳細な公演情報が見当たらないので、そこに大高(高杉弥太郎)が関わっていたのかどうかがさっぱりわかりません。

どうやら新聞(横浜貿易新報)を活用した調査は、少なくとも大高に関しては限界にまで達したような気がします。


というわけで、ここで視点を変えて、本格的に当時の雑誌の劇評の中に大高が出てこないかどうかを探ってみることにしました。

そもそも当時の演劇雑誌に大衆演劇、それも剣劇の記事はそんなに多くないので、知名度からして大高の名前を見つけ出すのは確率的にかなり低いと思われます。それでも昭和16年9月から近江二郎一座が、不二洋子一座に助演する形で浅草松竹座に出ていますから、そのあたりを手がかりに劇評を探せば、なんらかの痕跡が見つかるかもしれない、というのが僕の思惑なのです。

そんなこんなで、まず手始めに、大高が横浜敷島座にやってくる昭和15年3月前後の、浅草の大衆演劇に関する記事をいくつか読んでみました。昭和16年9月の浅草松竹座における近江二郎一座『純情』(大江三郎脚色)の劇評は見つかったものの(『演藝画報』昭和16年11月号/「隅の報告」桂嬰生)、記事中、大高への言及はありませんでした。


あらためて横浜敷島座に近江二郎が登場した時の新聞記事を読み返すと、こうあります。

"久しぶりの近江二郎が一座を引連れ廿九日初日で開演。これへ深山百合子がコンビとして登場。更に横濱の名花川上好子の特別加盟あり。英榮子、大山二郎、高杉彌太郎等の豪華メンバーで、伊勢佐木興行街の人気を一手に占めようと凄いハリキリ方である"(昭和15(1940)年2月29日付 横浜貿易新報より)

以前にも書いたと思いますが、この記事を素直に読めば、高杉弥太郎(大高よし男)は「豪華メンバー」のひとりとして挙げられるほどの役者だったわけです。ですから、彼が近江一座に所属していたにしろ、フリーの立場だったにしろ、この記事より前の時期に、浅草なり名古屋なり、京都・大阪なりで、なんらかの媒体(新聞や雑誌)に記録が残るような活動していたと考えるのが自然です。のちに大高と共演する宮崎角兵衛(宮崎憲時)や三桝清、二見浦子は新聞・雑誌で言及されることもあるので、大高もきっと見つかるはずです。希望は捨てずに…


ところで、結論から言うと、今回の雑誌調査では大高の名前を見つけることはできませんでした。ですが、ひとつ気になる記事を発見したのです。

それは『演藝画報』昭和17年2月号に掲載された「盲目の俳優を見る」です。タイトルからして「もしや」と思いましたが、案の定、以前にも紹介した盲目の役者「林長之助」についての記事でした。

そこにはこう書いてあります。

"それは林長之助といふ人で、お父さんが鴈治郎の門弟であつたから、この人も同じ弟子になり、扇雀が京都で一座をこしらへてゐた時代には、相當な役までやつた娘形なのだが、中年から盲目になつたのださうである。今は籠寅興行部の専属になつて、暮には横濱の敷島座にかゝつてゐたので、Kさんに誘はれて見に行った。出し物は「安達の三」で、チャンと二役勤めてゐる"(同書, p.42)

「安達の三」は『奥州安達原』の三段目、通称「袖萩祭文」「安達三(あださん)」と呼ばれる演目で、安倍貞任の盲目の妻・袖萩が登場することから、林長之助のレパートリーになっていたのだと思われます。雑誌は昭和17年2月号ですが、文中「暮には」とあることから、これが昭和16年12月頃の敷島座であることがわかります(ちなみに「Kさん」とはおそらく小林勝之丞氏のことでしょう)。

この劇評に気になる記述があるのです。以下の一文です。

"片岡松右衛門といふ人の宗任が出てくる。堂々たる體格だが、その比例で恐ろしく聲が太く、狭い小屋で呶鳴るのが田舎くさい(中略)そこへ八幡太郎が出て来た。この人だけ變に棒だと思つたら、酒井淳之助の剣劇の人が勤めてゐるのださうで"

林長之助は昭和16年10月から敷島座に登場します。その際、酒井淳之助一座も合流していました。ここに「酒井淳之助の剣劇の人」という一文が出るのはそういう事情です。

昭和16年9月29日付神奈川県新聞より

一方、大高はその前月、9月から松園桃子一座に参加する形で敷島座の舞台に出ています(10月の興行にも松園一座が参加しているので、10月は三座合同公演ということになります)。


上述の『演藝画報』に記載された舞台(昭和16年暮)に大高がいたのかどうかははっきりしません。ただ、11月21日からの舞台では、林長之助一座の『伽羅先代萩』に大高(高杉弥太郎)が出ていることはわかっています。

"片岡松右衛門の八汐、仁木。雲井星子の頼兼、沖の井。高杉彌太郎の絹川谷蔵、男之助。いずれも二役づゝ受持つての熱演に、敷島座のお客様は大よろこびである"(昭和16(1941)年11月24日付神奈川県新聞)

ですから暮の『奥州安達原』にも大高が出ていた可能性は否定できません。とすると、もしかしたら「この人だけ變に棒だと思つたら、酒井淳之助の剣劇の人が勤めてゐるのださう」の役者は大高(高杉弥太郎)なのかもしれません。もちろん大高とは別の酒井淳之助一座の誰かという可能性もありますが、もし仮にこれが大高だとしたら、大高は近江二郎一座ではなく酒井淳之助一座の人ということになるのです(また謎が深まりました)。

しかし、この人が大高だとしたら「變に棒」と酷評されているのが腑に落ちないところです。調べた範囲では、いずれの新聞でも剣劇役者として大高の評判はとても良いわけですから、いくら畑違いの歌舞伎とはいえ、ここだけ「棒」と書かれるほどの酷評だというのはいかにも不可思議です。やはり別人と考えるのが妥当なのでしょうか。


この年の敷島座12月興行についての新聞記事には「八日より新番組」と書かれている上に、松園桃子の名前が消え、雲井星子の名前が前面に出ることから、松園桃子一座は11月いっぱいで敷島座を去ったとも考えられます(11月24日の新聞記事でも松園桃子の名前が出てこないことから、10月末までだったのかもしれません)。

昭和16年12月8日付神奈川県新聞より

林長之助らが来演する10月より前、9月の松園一座から大高は参加しているわけですから、松園一座とともに大高も敷島座を離れたのかもしれません。だとすると、この「變に棒」の役者は大高ではないことになります。

逆に、大高は年明けの昭和17年1月から川崎大勝座での伏見澄子一座に参加しますから、11月まで敷島座、1月から川崎というスケジュールを勘案すると、12月はまだ敷島座に残っていたという可能性も否定できません。

(ううむ)

毎度ながらあと一歩のところで大高の姿は捉えきれません。

ですが、今回の調査を経て、雑誌の記事にもうっすらと痕跡が感じられるようになりました。この線をもう少し進めてみることにします。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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