(127) ひばりはアテネの舞台に立ったのか・2

ひばりプロの公式プロフィール、「1945年9月 父、増吉が復員。"ミソラ楽団"を結成」の欄に小さな写真が載っています(→こちら

大きく「美空楽団」のロゴが描かれた背景幕の前に立つ楽団員との集合写真です。ここには「歳末慰安会」の文字があることから、時期が年末だとわかります。また背格好や服装、楽団の編成からして、昭和20年の年末(12月)ではないかと思われます(参考までに昭和21年11月の「オール横浜総合芸能コンクール」も出演した際の写真が→こちら/美空楽団の編成については→こちら

これをアテネ劇場の舞台とする説もあるようですが、昭和20年の年末にアテネ劇場は存在しません。また杉田劇場もまだ開場していません。

つまり、この写真は杉田でもアテネでもない、もうひとつの劇場の写真で、これこそが美空ひばりの本当の舞台デビューではないかと考えているのです。

写真を見て気づくのは、このステージはかなりタッパ(高さ)があるということです。幕の吊り位置も勘案すると、舞台の額縁はさらに上部まで続いているだろうと思います。仮に中央の男性の身長を160cmくらいとすると、その倍、3メートル以上はあるはずです。

旧杉田劇場の写真と比べてみても、タッパの差は歴然です。

旧杉田劇場舞台(現杉田劇場所蔵)

バランスからするともっと間口があるようにも思えますが、これと同じ写真は自伝『虹の唄』にも掲載されていて、そこには下手側に「めくり」が写っていることから、おそらくそれほどの間口ではなく、やはり相対的に高さのある会場だと考えてよさそうです。

いささか短絡的かもしれませんが、この当時の、タッパがある建物として、真っ先に思いつくのが「銭湯」です。つまり、この写真に写っているのは、銭湯の浴槽をステージにしたという上大岡の「大見劇場」ではないか、というのが僕の見立てなのです。

大見劇場はもともと大見湯という銭湯で、終戦後、浴槽にフタをして、その上でさまざまな演芸をやっていたそうです。その演者の中には幼き日の美空ひばりもいたそうで、その経緯は大見湯を開業した上大岡の有名な旧家である北見家のウェブサイトに書かれています(「水車屋」ウェブサイトより「先祖の事業」/大見湯写真)。

それによると、大正後期に開業したという大見湯は

"終戦直後の昭和20年当時、銭湯は燃料がなく営業できずにいた様で、8才の少女だった美空ひばり(当時は美空和枝)がこの銭湯で歌ったと云うエピソードがありました(中略)小さな美空和枝は浴槽のフタを舞台替わりにして歌ったそうです。その盛況ぶりもあり劇場に改装された"

とのこと。

美空ひばりが「浴槽のフタ」の上で歌った時期と、劇場に改装された時期がいずれも明確ではないので、判断に迷うところですが、父、増吉さんの復員が8月末か9月で、公式プロフィールにある舞台写真は年末と思われますから、その間に銭湯が劇場に改装されていたのだとしたら、美空ひばりの舞台デビューは新しい定説の「杉田劇場」ではなく「大見劇場」ということになります。

ひばりと楽団は昭和21年3月か4月には杉田劇場へ出演することになるので、「その盛況ぶりもあり劇場に改装された」というのは、それより前の話という気がします(杉田劇場に出演した3ヶ月間は上大岡には出られないと思うので、その時期の改装ではないでしょう)。ちなみに「大見劇場」の新聞広告はいまのところ3つ見つかっていて、いずれも昭和21年6月以降のものです。

そうした事実からすると、大見湯は少なくとも昭和21年2月までには劇場に改装されていたと考えられそうです。

つまり

昭和20年9月頃 美空楽団結成
昭和20年秋 大見湯のフタの上で唄う(盛況)
昭和20年晩秋 ひばりの人気を受けて劇場に改装(大見劇場)
昭和20年暮 歳末慰安会に美空楽団出演

という時系列が一番しっくりくるように思えるのです(あくまでも推測です)。


さて、風間知彦著『実録ひばりファミリー』(双葉社, 1974)には、昭和23年に大見劇場を譲り受け、ふたたび銭湯に改装したという方へのインタビューが掲載されています。それによると

"あの当時の造りは、男湯と女湯のしきりも脱衣所のあいだのガラス戸もなかったんですよ。そして、湯殿から奥の元湯までが当時の舞台の奥行きだったんです。五メートルちょっとはありましたかね。幅は四間でした。そして湯船のフタが舞台ですが、当時のフタはヒバ材というのを使っていましてね、厚さ八センチメートルぐらいの一枚板(中略)洗い場と脱衣所にはゴザがしいてあって、その上に、小さな板でつくった長椅子が並んでいたんですよ。そこが客席だったわけですねえ" (179ページ)

と、劇場内部の様子がかなり詳細に書かれています。

どうやら、大見劇場は永続的な「劇場」として大改装したものではなく、男湯と女湯の仕切りや脱衣所のガラス戸を撤去した程度、舞台も浴槽のフタをそのまま使っていたわけですから、いわば仮設劇場に近い形だったようです。燃料事情がよくなればまた銭湯に戻すつもりだったのかもしれません(実際、そうなるのです)。

実は、同書でさらに興味深いのは、叔父・諏訪重忠氏へのインタビューです。曰く

"初舞台はねえ…たしか、上大岡の風呂屋だったと思いますよ。"大岡風呂"って名前だったと思うよ。いや、風呂屋を改造して"アテネ劇場"っていっていたのかな"(176ページ)

この話をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、美空楽団の一員だった重忠氏ですから、まったく無視できる話でもありません。特に上大岡の風呂屋(大見湯)を改装した劇場の名称を「アテネ劇場」と誤解している点は見逃せません。

この中で彼はその劇場のことをこう言っているのです。

"二百人は入れるその風呂屋劇場は、ひばりちゃんが出る日は超満員でしたね、その頃は、美空ひばりとはいわずに、"美空和枝"というのが芸名でしたね"(180ページ)

これは、前回の投稿で引用した自伝(『虹の唄』)の中で、アテネ劇場のことを

"当時はおフロ屋さんを改造した、客席二百ぐらいの小さな小屋です。"

としているのとピッタリ符合します。

※余談ですが『実録ひばりファミリー』には磯子町のアテネ劇場や杉田劇場への言及がまったくないというのも興味深いところです。


そもそも、生前に出版されたふたつの自伝については、没後に出た3冊目の自伝『川の流れのように』(集英社 ,1990)の序章「自伝」の序に、

"今までにも何冊か私に関する本は出版されたと思いますが、すべて母が相手の方と話し、そして、その方の主観が入って出来上がったものばかり"(9ページ)

と書かれており、これらはいずれも母・喜美枝さんが関係者(「相手の方」?)に話を聞いた内容を、自伝作家(ライター)がまとめたものと考えられそうです。

ですから、デビューについてのエピソードも、おそらく親族や関係者の証言にもとづくものでしょう。

仮にその中に重忠氏の話の内容が含まれていたとすると、彼は大見劇場の名称を誤って「アテネ劇場」と記憶していたようですから、それをライターがそのまま「デビューはアテネ劇場」と書いた可能性はあるし、逆に本来は大見劇場の客席数である「二百」がアテネ劇場の席数として記録されているのも腑に落ちます(実際のアテネ劇場は324席)。「アテネ劇場」という固有名詞から、後日調査をして「磯子の映画館」と加筆した可能性さえあるのではないかと思っています。

「アテネ劇場」という、実際に存在する映画館の名前が出てくると、どうしてもそれに振り回されがちになりますが、デビューをめぐる話については、全体のトーンとして「市場」「映画館」よりも「銭湯」「風呂屋」の方が色濃いように感じられるのです。

自伝のほかにも、以前書いたように、昭和23年6月にひばり自身が新聞のインタビューで

"南太田のお風呂屋で唄つたのが初舞台"

と語っています。南太田(みなみおおた)は、語感からしておそらく上大岡(かみおおおか)の間違いでしょう。南太田は空襲の被害がかなり大きかった地域で、終戦直後、大見湯のように演芸をやるような銭湯があったのかどうかは疑問です。

というわけで僕は、ひばりの関係者(親族)が上大岡の大見劇場のことを「アテネ劇場」と誤解していたために、それをもとにした自伝の記述が「デビューは風呂屋を改装した磯子のアテネ劇場」になってしまったのではないか、と考えているわけです(もちろん、アテネではないという確証はないので、仮説に過ぎませんが)。


もうひとつ。アテネ劇場を3日間借りて興行した際に、看板の名前をめぐって漫才師とトラブルになったという話も伝わっています。

"初日の朝、トリの漫才師がやって来て、「とても出られたもんじゃない」とプンプンおこって言うのだそうです。母は、狐につままれたようになって、それの理由を探しあぐねていましたが、やがてそのわけがわかりました。看板が美空和枝よりも字が小さい、ということなのです(中略)その方々はプロですし、こちらはまだしろうとなわけです。先方の言うことはもっともなことで、母たちはびっくりして、あわてて看板を書き直したそうです"(『ひばり自伝』42ページより)

が、これについても、いささかの疑問を感じているところです。

この事件はアテネ劇場で起こったこととされているので、時期は昭和21年9月です。しかし、それより半年も前、杉田劇場で実際の興行の現場に接してきた美空楽団のエピソードとしては、少し奇妙にも感じます。

杉田劇場には戦前から浅草興行界で仕事をしてきた鈴村義二がいました。大高よし男にしたところで、大衆演劇の第一線でキャリアを積んできた役者です。3ヶ月もの期間ですから、ひばり母娘が芸能界のしきたりを知る機会は十分にあったはずです。看板やポスターの記載についても、デリケートな事情があることは杉田で経験してきただろうと思います(実際、現存する2枚のポスターでも、美空楽団の表記内容や色(カラー化)などの変化がある)。

いくら売り出しのための単独興行とはいえ、杉田劇場の舞台を経た楽団がそんな初歩的なミスをするでしょうか。これが、大見劇場(大見湯)と思われる写真の年末興行や、その後、杉田劇場を訪れるまでの間の話ならば、わかるような気はします。

さらには、その『ひばり自伝』の中に書かれている

"わたしは扮装して三度笠で花道にでてくるのです"(41ページ)

"ここは普通は映画館ですが、申しこめば三日間とかそのくらいなら、色ものやそんなもので貸してくれるところだったようです"(41ページ)

の記述にも疑問を抱かざるを得ません。

そもそも映画館のアテネ劇場に花道があったとは思えないし(これは杉田劇場の話じゃないかと思う)、「そのくらいなら」「貸してくれるところだったようです」というのも、頼めば借りられそうだと誰かから聞いたような書きぶりで、開場したばかりのアテネ劇場についての言及としては、かなり違和感があります。

むしろ、自伝で「アテネ劇場」とされるエピソードは、大見劇場(ないし大見湯)や杉田劇場やその他の劇場での出来事をごちゃ混ぜにしてひとつにまとめたもの、と考えた方がしっくりきます(うがった見方をすれば、「大見」「杉田」よりも、古代ギリシャを想起させる「アテネ」の方が芸能的だし、スターのイメージにふさわしいと考えたのかもしれません)


ふたたび、『実録ひばりファミリー』に戻ると、諏訪重忠氏の話はさらに続きます。

"ひばりちゃんがはじめて浅草へ進出したときなんかは、義兄さん(註:増吉さん)が自分でカネを出して出演させたくらいですからね。ところが、"美空和枝"がいくらうまくっても、ひばりちゃんひとりじゃ客なんか呼べませんよ。そこで、色物を一組だけ呼びましてね。"好声会"という、セミプロ的な集団で、落語や漫才、浪曲などをやる人たちなんです。浅草の、なんという劇場でしたかねえ。とにかく、これが本物の劇場への初進出なんです"(180ページ)

”その後『寿美乃屋』という芸能社へ『美空楽団』が入って、"天才少女美空和枝と美空楽団"と銘打って、興行するようになったんです(中略)ほとんど毎日のように、あっちこっち、興行してまわりましたね。空地に建てた小屋だとか、海岸のよしず張りの舞台でしたけどね”(181ページ)

この話の時期がはっきりしませんが、四国・高知でバス事故に遭うよりは前の話のようなので、昭和21年から22年初め頃のことだと思います。

※この時期の浅草進出については、情報がないのではっきりしません。"好声会"や"寿美乃屋"のこともよくわかりません(どなたかわかる人がいたら教えてください)。

ここで語られている内容は、多くが生前の自伝と重なるのです。

例えば「義兄さんが自分でカネを出して出演させたくらい」は

"父はこの二日間の興行で「魚のもうけを一ぺんになくしちゃったよ」と苦笑していました"(『虹の唄』30ページ)

に通じますし、「ひばりちゃんひとりじゃ客なんか呼べませんよ」や「"好声会"という、セミプロ的な集団で、落語や漫才、浪曲などをやる人たち」は

"もちろん、楽団や私の名前などをご存じの方があるわけでもなく、春木つや子さん、叶家洋月さんという漫才や浪曲の方にも出て頂きました"(『虹の唄』29ページ)

とほぼ同じです(この記述からすると、看板の文字にクレームをつけたのは、漫才師の「叶家洋月・春木艶子」ということになるのでしょうか)。

※実は冒頭に紹介した「大見劇場」と思われる舞台写真で、ひばりの両サイドに立っている男女は件の漫才師ではないかとも思っています。ただ、衣装からして洋月・艶子とは違う気がします。

さらには、「"天才少女美空和枝と美空楽団"と銘打って」は、トラブルのもととなったとされる看板の文言

"スター美空楽団演奏会、豆歌手美空和枝出演"(『虹の唄』29ページ)

にかなり近い表現とも言えます。

これらのことからも、ふたつの「自伝」は、やはり客観的な裏付けに基づくものではなく、親族や関係者の曖昧な記憶に、さまざまな時期のさまざまな興行のエピソードを付け加え、それらをミックスして再構成された記述ではないかと考えられます。そしてこれを根拠に書かれた多くの書籍によって「美空ひばりのデビューは風呂屋を改装した磯子のアテネ劇場」という話が広まることになったような気がするのです。

前回投稿したアテネ劇場のスケジュールや、今回挙げた事柄を照合してみても、開場したばかりの磯子町の映画館「アテネ劇場」の舞台に美空和枝が立った、という話は、やはりかなり疑わしいものだ、というのが現時点での結論です(そもそもアテネ劇場に出た時期からして『虹の唄』では「年の暮」、『ひばり自伝』では「9月」とブレが見られます。大見劇場をアテネ劇場と誤解していたならば、『虹の唄』が「年の暮」と表記しているのは腑に落ちます)

さらに事実関係を調査するなど、もう少し慎重に検証を重ねた方がいいのでは、と思っているところなのです。


そんなこんなで、かなり妄想まじりに(しかも疑問符付きで)ひばりデビューについての時系列をまとめると

昭和20年9月頃 美空楽団結成(近所のお祭り屋台などで歌う)
昭和20年秋 上大岡・大見湯で歌う(評判になる)
昭和20年晩秋 大見湯、大見劇場に改装?
昭和20年12月 美空楽団、大見劇場で歳末慰安会に出演?(事実上の初舞台)
昭和21年1〜2月 浅草の劇場に出演?(この時漫才師とトラブルか)
昭和21年3月初旬 杉田劇場へ売り込み(幕間に出演)
昭和21年4〜6月 杉田劇場で大高一座等の幕間に出演
昭和21年夏〜 各地で興行か?(アテネには出ていない?)
昭和21年11月 オール横浜総合芸能コンクールに出演
昭和21年12月 NHKのど自慢大会予選に出演
昭和22年1月 弘明寺銀星座で自由劇団の幕間に出演
昭和22年春 井口静波・音丸夫妻に会い、巡業に出る
昭和22年4月 四国巡業の際、バス転落事故に遭う
昭和22年6月 戸部・復興会館に出演
昭和22年7月 辻堂・湘南映画劇場に出演
昭和22年夏〜 各地で興行か?
昭和22年10月 日劇小劇場「新風ショウ」に出演、芸名・美空ひばりとなる
昭和23年3〜6月 横浜国際劇場に出演

と、こんな感じでしょうか。

まだまだ不明の時期があるし、漫才師とのトラブルを浅草でのことと仮定している点も、その真偽や時期も確かめなければいけませんから、かなり妄想過多な仮説です(妄想に輪をかければ、浅草で「横浜の人なら杉田劇場に鈴村さんがいるから、そこを訪ねたらどうか」などのアドバイスをもらったのかもしれません)。

ともあれ、現段階ではこの時系列が比較的しっくりくるように感じています。

(あらためて並べてみて、戸部の横浜復興会館と辻堂の湘南映画での舞台は、四国で生死を分けるほどの大事故に遭ってからまもない頃なのだと気づきました。驚異的な回復力を感じます)


美空ひばりのデビューを探る調査は、大高ヨシヲを探すこのブログの趣旨からすると「スピンオフ」みたいなものではありますが、旧杉田劇場との関係も深いことから、デビュー期の年譜の空白を埋め、時系列を正確に並べ替えることは、今年の重点調査項目のひとつ、ということになりそうです。



→つづく
(次回は2/6更新予定)

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(126) ひばりはアテネの舞台に立ったのか・1

大高よし男の足跡がなかなか見つからないので、もはや神頼み(仏頼み)というわけでもないのですが、今年の初詣は、大高の葬儀写真が撮られた弘明寺観音へ行ってきました。


年末に放送されたアド街の影響があるのかないのかはわかりません。山門から商店街にかけて長い行列ができていて、賑やかな雰囲気の中での参詣となりました(予想よりは早く参拝できました)。

弘明寺には、旧杉田劇場に遅れること3ヶ月ほどで開場した銀星座がありました。近江二郎一座が柿落としを担い、大高一座も一度だけ一週間の興行を打ったとされているほか、幼き日の美空ひばりも、自由劇団の幕間という形になるのでしょうか、美空和枝の名前で舞台に立っています。

1947(昭和22)年1月14日付神奈川新聞より

杉田と弘明寺はともに市電の終点であり、京浜急行(当時はいわゆる「大東急」の湘南線)でも3駅しか離れていません(杉田=屏風浦=上大岡=弘明寺)。大きく見れば同じエリアで、賑やかな商店街がある点など、似た街でもあります。

横浜大空襲で中心部は焼け野原となり、戦後は米軍の接収で、劇場はもとより街の再建もままならぬ中、空襲の被害が少なかった郊外の杉田や弘明寺が戦後の娯楽の担い手となったということなのでしょう。

終戦からほどなく、ほぼ同じ時期に

杉田劇場(杉田)
銀星座(弘明寺)
アテネ劇場(磯子)
大見劇場(上大岡)

が相次いで開場しています。横浜国際劇場もマッカーサー劇場もまだない頃の話です。


さて、相変わらず大高の足跡についてはめぼしい進展がないので、今回は年末に提示した今年の重点調査項目から、またぞろ美空ひばりのデビューについての考察です。


ひばりのデビューについてはこれまでも何度か言及してきました。かなり前から定説とされていた「アテネ劇場デビュー説」が誤りで、近年は、昭和21年3月か4月に、杉田劇場の舞台に立ったのが実質的な初舞台である、というのが確定的な説となってきました。

それでもアテネ説が消えることはなく、杉田劇場に出演した後、同年9月にアテネ劇場を3日間借りて昼夜2公演、舞台に立ったという修正型で残されています。

しかし(昨年の「いそご文化資源発掘隊」の講座でも少しお話ししましたが)、ややこしい性格の僕には、9月アテネ説というのがどうにも腑に落ちないのです。そもそも、アテネ説は(今のところ)すべて関係者の証言に基づくもので、芸人とのトラブルになったとされる看板や舞台の写真、新聞広告や記事などは、(おそらく)どこにも提示されていないはずです。

美空ひばりは本当にアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか。


あらためて基本情報を整理してみます。

アテネ劇場は、1946(昭和21)年9月9日、磯子区磯子町に開場した映画館です。開場式典には中村吉右衛門劇団が来演し、舞踊で柿落としをしています。

1946(昭和21)年9月8日付神奈川新聞より

昭和5年の火災保険図によれば、もともとこの地にあったのは日用品市場で、アテネ劇場は戦後、その近くで鉄工所を営んでいた長谷巌氏が(市場を買い取って?)映画館に改装したものとされています。

実は、美空ひばりの叔母にあたる西村克子さんが著書の中でこんなことを書いています。

"正子さん(註:杉山正子さん)のご両親は、戦前から磯子劇場(アテネ劇場)のそばで喫茶店を経営していました"(西村克子『愛燦燦・ひばり神話の真実』徳間書店,1993 より)

この一文を根拠のひとつとして、アテネ劇場の前身は磯子劇場であり、美空ひばりは杉田劇場より先に磯子劇場(のちのアテネ劇場)でデビューしたのだ、という話もあるようです。

しかし、昭和5年から昭和21年という戦争の時代に、市場を改造して劇場にするほどの物的・精神的余裕があったとは思えません。しかも、その頃の新聞をつぶさに調べても「磯子劇場」の開場を知らせる記事や広告を確認することができないのです。

ですから、上掲の西村克子さんの文章は、

「戦前から戦後磯子劇場(アテネ劇場)ができた場所のそばで〜」

と補足して読み解くのが正しいのではないかと思うのです。

さらには、かつてアテネ劇場でよく映画を見たという地元(芦名橋近辺)の年配者に話を聞いても、アテネ劇場のことを「磯子劇場」と呼ぶ人はいませんし、戦前に磯子劇場があったという話も耳にしません。

ただ、以前にも書いたように、アテネ劇場は昭和35年3月に「磯子映画劇場」に改称しており、その頃の明細地図には「映画館 磯子劇場」と明記されているので、昭和30年代後半以降ならば「アテネ劇場=磯子劇場」という認識はあったかもしれません。磯子劇場はアテネ劇場の前身ではなく、後身にあたるわけです。

1960(昭和35)年3月30日付神奈川新聞より

上掲の事実から、アテネ劇場は戦前からあった日用品市場を改装して、昭和21年9月に開場した映画館で、美空ひばりのアテネ劇場デビュー説は、同年4月に杉田劇場の舞台に立った証拠(ポスターや新聞広告)がある以上、完全な誤りであると再確認していいと思います。


ですが、それでも依然、本当にひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのか、という疑問は残ります。


生前に出版された美空ひばりの自伝は2つあって、最初の『虹の唄』(講談社,1957)にはこうあります。

"こうして楽団が出来てみると、私はもちろん両親もどこか人さまの見ているところで公演がしたくなりました。そこで横浜磯子町のアテネ劇場を借りることになったのです。この劇場はいまは映画館ですが、当時はおフロ屋さんを改造した、客席二百ぐらいの小さな小屋です。 ここで、私は初めて“舞台”というものに出たわけで、九つの時のこと"

なお、昭和24年度版の『全国映画館名簿』によると、アテネ劇場の座席数は324となっており、「客席二百ぐらい」とは誤差があります(この数については後編で検証します)。


もうひとつの『ひばり自伝 わたしと影』(草思社,1971)には

"昭和二十一年九月。
忘れられない月です。
この時、わたしは、同じ磯子の町にある、小さな小屋、アテネ劇場の舞台に
立ったのでした。
劇場というものに出たのは、これがはじめてです"

と記されています。

これらを根拠にしているのでしょう。公式のプロフィールなどにもある通り、昭和21年9月にアテネ劇場を3日間借りて舞台に立ったというのが、デビューをめぐる「定説」となってきたわけです。

当時はまだ新聞に三行広告(と言っていいのでしょうか)の映画情報欄がなかったので、アテネ劇場の興行の状況は劇場サイドが出稿する広告しか手がかりがありません。

ですが、その数は杉田劇場や銀星座に比べて少なく、実態を知るのはなかなか困難です。それでもその情報からアテネ劇場の興行を確認してみると

1946年
9月9日 開場式(映画興行は翌日から)
9月10日〜16日 『麗人(監督:渡辺邦男、出演:藤田進、原節子ほか/1946 東宝)
9月17日〜23日 不明
9月24日〜30日 『韋駄天街道(監督:萩原遼、出演:長谷川一夫、榎本健一ほか/1944 東宝)
※10月1日〜 『舞踏会の手帖(監督:J・デュヴィヴィエ、出演:マリー・ベルほか/1937 フランス) 

ひばりが舞台に立ったとされる9月は上記のようになります。17日から23日が不明ですが、10月1日よりフランス映画を上映していることからすると、邦画・洋画の交互上映が推測され、この期間は何らかの洋画を上映していたとも考えられます。

ただ、現状では不明な時期なので、もし仮に劇場を昼夜2公演、3日間借りるとしたら、9月17日から23日の間だろうとは推測できます。

しかし、考えてみると、これは映画館の開場から2週目です。磯子町の人々にとっては、近くに映画館ができたわけですから、開場を心待ちにしていただろうし、集客も順調だったと思われます。開場したばかりの2週目に3日間も劇場を貸し出すというのは、経営的に考えて、あり得ないのではないかというのが僕の感想です。

もっとも、長谷巌氏は鉄工所の経営者ですから、映画興行については素人で、そんな経営をしていたのだと言われればそれまでです(さらに検証を深めたいと思います)。

わずかな可能性があるとしたら、翌月のアテネ劇場の広告にある

「平日正午、日祭十時、夜は七時より」

という文言が根拠になるかもしれません。

1946(昭和21)年10月22日付讀賣新聞より

この言葉からは、当初のアテネ劇場は、現在のように、ひとつの映画を短いインターバルで連続上映するのではなく、昼夜の間に長い空き時間があったようにも見えるのです。

さらに、劇場の開場を予告する広告には

「明るいスクリーン 素的なアトラクションに御期待下さい」

の惹句が記されていることから、映画だけでなく、合間に実演を見せるのが基本の興行形態だったとも考えられます。

仮にアテネ劇場がそういうタイプの映画館だったとすると、9月の3日間をひばりと楽団に貸与するというのも、あり得ない話ではないように思えてきます。

とはいえ、いずれも確証がないのが現状で、この話もまた五里霧中になりそう、そんな気配をうっすら感じつつの年初です。

本当に美空ひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか(後編につづく)


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(125) 尾上大助のことと年の瀬のごあいさつ

先日、大高調査の一環で、昭和13年の都新聞をチェックしていたら、こんな記事を見つけました。

1938(昭和13)年11月7日付都新聞より

町田に収蔵されている台本にも名前のあった「尾上大助」についての記事です。

引用すると、この年の5月に横浜歌舞伎座での更生劇が終了した尾上大助は、

"自ら大将になつて横濱笑楽座を開けたところ、今度更生劇の延蔵、新之丞等が俄に横濱日活館出演が極まり、大助の體が必要になつたので、止むなく両方を駈持ちと極め、一日に日活館が三回、笑楽座が二回合計五回の働きに大助ヘトヘト"

なんだとか。

そんなことが本当にあるものかと、横浜貿易新報を確認してみたところ、まずは尾上大助らが笑楽座で興行を始めたという記事が見つかりました。

1938(昭和13)年11月2日付横浜貿易新報より

続いて、日活館(旧喜楽座)でアトラクションとして更生劇による歌舞伎が上演されたという記事もありました。

1938(昭和13)年11月8日付横浜貿易新報より

この記事中にも「大助」の記述がありますから、尾上大助は同時期に笑楽座・日活館のどちらの舞台にも出ていたわけで、どうやら都新聞の記事内容は正確なもののようです。


笑楽座は昭和5年、西前商店街(当時は中区、今は西区)にできた小劇場(定員248)で、現在の位置でいうと、湘南信用金庫藤棚中央支店の裏手あたりにあったそうです(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)。

西前商店街(正確には西前中央商店街だそう)は、いわゆる「藤棚商店街」の一部らしいので、伊勢佐木町への移動は「藤棚」から市電を乗り継げばそんなに苦ではなかったと思います。とはいえ、移動した上に舞台に立つのですから、なかなかのハードワーク(?)だったことは間違いないでしょう。

笑楽座についての記事は、この劇場の観客は夕方になると晩御飯の支度のために帰ってしまうという「風習」を知らなかった大助らがひどく困惑したという話だし、日活館の記事は更生劇の面々が「大石内蔵助」山科の場を30分という超特急で上演しているのに苦言を呈しているのですから、都新聞の記事同様、どちらも笑い話のような批判(揶揄)のような内容ではあります。


それはそれとして、実は都新聞の記事にはかなり気になることが書かれているのです。

"大助は新國劇の丸茂三郎の實兄"

丸茂三郎という役者は新国劇の二枚目俳優で、残念ながら戦死してしまうのですが、生きていれば戦後の新国劇を支える重要な役者になっただろうと思われる人物です。昭和11年刊の『俳優大鑑』によれば、本名も丸茂三郎で、明治45(1912)年1月29日生まれだそうです。

その兄が尾上大助だというのです。

戦前の映画俳優のことを驚くほど精緻に調べておられる水沢江刺さんのXの投稿で、丸茂三郎の兄は「丸茂一郎」といって、松本時之助の名で映画俳優として活動していたと知りました(→こちら)。

手元にあるキネマ旬報の『日本映画俳優全集』の「松本時之助」の項にも「戦前、新国劇の幹部として活躍した丸茂三郎は実弟である」書かれています。また、上掲の投稿にもありますが、映画俳優ののちは本名の丸茂一郎に戻り、すわらじ劇園(一燈会を母体とした劇団)に参加していたそうです。

さすがにこれを尾上大助と同一人物だと考えることはできません。

となると、丸茂三郎には2人(以上)の兄がいて、ひとりは丸茂一郎、もうひとりが尾上大助ということになりそうです。ありうる可能性は、尾上大助は一郎と三郎の間、一郎の弟で三郎の兄ということです(順当に考えれば本名は「丸茂二郎」なのかしらん)。

前掲の『日本映画俳優全集』によれば、丸茂一郎(松本時之助)の生年は1903(明治36)年6月20日なので、尾上大助が次兄であれば、生年は両者の間、1904(明治37)年から1910(明治43)年の間と考えられます。旧杉田劇場に出ていた頃は30代後半から40代前半という感じになるのでしょうか。


さらにこの記事の冒頭には「故幸蔵門下の腕達者尾上大助」ともあります。

幸蔵とは昭和9年に亡くなった二代目尾上幸蔵のことだと思われます。幸蔵の屋号は大橋屋で、本名が大橋幸蔵なのだそうです。

「大橋」という姓と屋号には見覚えがあります。

町田で閲覧した旧杉田劇場のほとんどの台本には尾上大助の名前が書かれていましたが、その横に肩書きのように「大橋家」と印字されているものがあったのです。しかも台本のほぼすべてを脚色しているのは「大橋繁夫」でした(こちら)。

尾上大助が幸蔵門下だとすると、彼の屋号もまた「大橋屋」であったと考えられそうですし、大橋繁夫という人物も、尾上幸蔵と関わりのある誰か、ということになりそうです。

あの調査からずっと謎だった尾上大助と「大橋」の関係を知る手がかりがやっと見つかった気がします。

旧杉田劇場での歌舞伎公演に関しては、尾上大助がかなり大きな役割を担っていたように感じています。尾上幸蔵と大助の関係、また大橋繁夫の正体を探ることで、旧杉田劇場の動向がさらに詳細にわかってくるかもしれません。来年以降の課題ですが、大高調査と並行して、尾上大助の調査も進めて行きたいと思います。


さて、今年の投稿はこれが最後です。

2025年最初の投稿は1月8日の「美空ひばりのデビュー再考・その1」でした。ほぼ2週間に一度の更新ペースなので、28回の投稿はほぼ予定通りということになります。

結局のところ今年も大高の正体に迫ることはできなかったわけで、普通に考えればこの一年は無為な時間とも言えますが、結果的には、旧杉田劇場や周辺の劇場、はたまた戦後芸能界の動向なども知ることができ、さらには戦後の磯子のことがより具体的にわかるようになったのですから、個人的な思いとしては望外の収穫があった一年でした。

現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」の講座をやらせてもらったのをきっかけに、歌舞伎(小芝居)のことを少し調べ始めたのもまた新たな展開で、大高だけではない杉田劇場の姿が見えてきたのも得たもののひとつです。

さらには、舘野太朗さんの情報から、町田で旧杉田劇場の台本を閲覧できたのも貴重な体験でした。また小針侑起さんから大事な資料をお借りできたことも、調査を前進させる大きな一歩となりました。

ご協力いただきましたみなさま、ありがとうございました。

基礎知識が不足しているせいでしょうが、調べれば調べるほど謎が深まる沼に陥っております(笑)

調査項目は増えるばかりではありますが、当面、

・大高よし男と近江二郎の最初の接点はどこか
・尾上大助と旧杉田劇場はどういう関係なのか
・美空ひばりは本当にアテネ劇場に出演したのか

といったあたりを重点項目にして、この先も飽きずにコツコツ調べていきたいと思います。


今年もこの取り留めのないブログをご愛読いただき、ありがとうございました。

来るべき年がみなさまにとって幸せに満ちたものとなりますよう。



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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。