(105) 藤村正夫と新生暁劇団

昭和23年9月に大高よし男三回忌追善興行を終えた暁第一劇団は、その後、精力的に活動を再開します。三回忌追善に特別出演した藤村正夫を迎えて「新生暁座」の名前で次々と公演を打っているのです。

杉田劇場では

10月6日〜27日
11月22日〜12月13日

が「藤村正夫外三十数名」の「新生暁座」の公演日程で、それまで歌舞伎の市川門三郎一座や大衆演劇の市川雀之助一座に頼りきっていた杉田劇場に、ふたたび暁第一劇団の灯がともったような印象を受けます。

ちなみに10月9日からの興行では『涙雨五千両』が上演されます。

1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より

これは現杉田劇場に残されているポスターにも載っている演目で、大高一座の得意なレパートリーのひとつだったのかもしれません。

所蔵:杉田劇場


以前も書いたように、藤村正夫はもともと日吉良太郎一座にいた人で、昭和11年にいろいろあって独立し、自分の一座を由村座で旗揚げしますが、どうやらその後は日吉劇時代ほどの人気にはならなかったようです。

とはいえ、初代大江美智子が倒れた時(昭和14年1月)には一座に参加していたようですし、役者としてはやはり特筆すべき人気と実力を兼ね備えていたのでしょう、銀星座の自由劇団(この時は「自由座」)の旗揚げ公演(事実上、戦後の日吉劇団の再出発と考えていいと思う)にも特別出演の形で出ています。

1946(昭和21)年8月15日付神奈川新聞より

そんな藤村がどういう経緯で大高の三回忌追善興行に出演し、その後の暁劇団を事実上率いるようになったのかは不明ですが、元・日吉劇の鳩川すみ子と朝川浩成による劇団が杉田劇場で公演していることからも(詳細はこちら)、銀星座と杉田劇場、あるいは鈴村義二と日吉良太郎の間にはなんらかの関わりがあり、その中でこういった流れになったのかもしれません。


11月1日からは「中村喜昇一座」が杉田劇場に出演しますが、中村喜昇といえば日吉劇にも「少年歌舞伎」の一座として出演していた人ですから、このあたりにも杉田劇場における日吉劇の影響が垣間見られます(杉田劇場に出た時には「青年歌舞伎」になっているのが面白い)。

1944(昭和19)年2月24日付神奈川新聞より

1948(昭和23)年11月2日付神奈川新聞より

〜余談〜

尾上芙雀の話によると、大高一座には日吉劇の子役たちがいたとあるので、中村喜昇も戦後は名前を変えて一座に参加していたのが、ここで元の名前に戻り一座を復活させたという可能性も否定できません(調べてみると映画『明治一代女』(1955)の劇中劇出演者に中村喜昇の名前がある)。

閑話休題

いずれにしても、三回忌追善興行以降、暁第一劇団は藤村正夫を事実上の座長として、再出発を図ったようです(この時期は「新生暁座」となっている)。

新生暁第一劇団の活動は、杉田劇場にとどまらず、南区高根町の横浜オペラ館(元「オリエンタル劇場」)にも広がっています。11月13日から17日までのスケジュールで興行が行われているのです。

上述の2つの期間の合間に、別の劇場にも出るほどですから、活動が充実していた印象を受けます。さらには驚くことに、この広告にあの「大江三郎」の名前が出てくるのです。

1948(昭和23)年11月13日付神奈川新聞より

いうまでもなく大江三郎は大高一座の支配人で、近江二郎一座でも作・演出などを担当した文芸部員です。大高調査における最重要人物のひとりとも言っていいでしょう。

おそらく大高亡き後、大江三郎の名前が新聞紙面などに出るのはこれが初めてではないでしょうか。座長の没後も活動を続けていたことがわかりましたし、このことからも藤村正夫率いる新生暁劇団が、大高一座の残党によって成り立っていたことがわかります。

なお、この広告では「藤村正夫と新生劇團 第一回公演」となっていますが、大江三郎がいることからしても、またスケジュール的にも、この新生劇団は杉田劇場の新生暁座と同じものと考えていいと思います。

その後、11月下旬からの興行では、広告でも「藤村正夫」が前面に出て、新生暁劇団はさながら「藤村正夫一座」の様相を呈してきます。

1948(昭和23)年11月22日付神奈川新聞より

さらに年末の12月14日からはふたたびオペラ館での興行が始まります(おそらく19日まで)。そして、ここにも「大江三郎」の名前が登場しています。

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より

杉田劇場とオペラ館のスケジュールを合わせると、大高の三回忌追善興行以降、藤村正夫をトップに据えた暁劇団の公演は

10月6日〜27日 杉田劇場
11月13日〜17日 オペラ館
11月22日〜12月13日 杉田劇場
12月14日〜19日 オペラ館

となり、ほぼ休みなく、といってもいいほどの興行が続いていたわけです。

これですっかり軌道に乗ったかに思えたこの関係は、しかしそう長くは続かず、年明け1月から劇団はまた新たな展開を見せることになるのです。


→つづく
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(104) グロテスク劇場の内幕

近江二郎はアメリカ巡業から帰国して一年後の昭和7年夏「グロテスク劇場」というシリーズをスタートさせ、人気を博します。一時期は「グロの近江」とも言われ、近江一座の代名詞とも言われるシリーズだったようです。

このグロテスク劇場については、以前も書いたことがありましたが、メイエルホリドとの関係など頓珍漢なことを書いていて恥ずかしくなるばかりで、これがどんな意図で始まったのかなど、これまで詳細はよくわかっていませんでした。


先日、旧杉田劇場の総合プロデューサーというべき、鈴村義二の書いた『浅草昔話』(南北社事業部, 1964)という本を手に入れました。なんと、そこに「グロテスク劇場」の内幕が書かれていたのです。




それによると

"劇場の正面全体を、岩窟のこしらえにして、近江二郎一座に伴淳三郎、長田健が加入、映画から浅香新八郎、衣笠淳子特出、出し物は全部怪談劇で、グロテスク劇場と看板をあげて、昭和七年八月の公演劇場のフタをあけた。"(同書,p.65)

要するに怪談劇を「グロテスク劇場」と呼んでいただけのことらしいです。

1932(昭和7)年8月20日付都新聞より

もっともこの広告には伴淳三郎などの名前がないので、当初は近江一座だけの企画だったのかもしれません。その後、8月30日付の新聞に伴淳らが日活の争議を嫌ってグロテスク劇場に参加したという記事が出ます。

1932(昭和7)年8月30日付読売新聞より

鈴村によれば、前年の7月に大谷友三郎・遠山満・近江二郎・酒井淳之助を集めたお盆の興行が不入りだったことから、この怪談劇も期待薄で、興行主の木内興行部としては「まあやってみれば」という程度の思い入れだったそうです(それまで正月と盆は稼ぎ時だったのに、この頃から夏は海や山への旅行に客を取られてしまったということらしい)。

ただ、これまで調べた範囲では前年つまり昭和6年夏の近江二郎は、7月7日に帰国したばかりで、合同公演をやっているような記録がないので(むしろ凱旋公演のように近江二郎一座で興行している)、不入りだった興行とは、以下の広告にある昭和7年正月の合同公演(剣劇大合同)のことを指しているのかもしれません。

1931(昭和6)年12月29日付読売新聞より


さて、そんな期待薄だった「グロテスク劇場」ですが、これが予想外に当たって

"連日の大入り、八月一ヶ月だと、開場前に宣告されたのが、今度は劇場側からの頼みで、九月十月と打ち続け、相変わらずの大入り"(同書,p.66)

になったのだそうです(鈴村は木内興行の相談役だったようなので、グロテスク劇場は木内が公園劇場を借りて興行していたのだと思います)。

とはいっても、そもそもがそんなに入るとは思っていなかった興行なので、さすがにロングランとなると演目も底をつき、

"これまで客を引き寄せたのだから、大丈夫という事で、十一月に忠臣蔵通しをやった"(同書,p.66)

ということですから、行き当たりばったりというか、いい加減というか。

それが10月31日初日を告げるこの興行のようです。

1932(昭和7)年10月31日付都新聞より


"舞台稽古に一日休場して、大張り切りで初日をあけた。
序幕、二場目と進んで松の廊下、伴淳の師直、浅香の判官、
(中略)
判官が刀に手をかけようとしたが、腰に小刀がない、これを袖で見た茶坊主が、小刀を持って舞台へ飛んで出て
「判官殿」
と小刀を差し出す。ドッと客席は大笑い。それを引ったくって師直に斬りつける。その時師直の長袴を踏んづけていたので、逃げる師直は、舞台へつんのめる。客席は爆笑、爆笑"(同書)

 

というのだから、「今秋劇界震撼の帝王篇」などと大仰なキャッチコピーが書かれた立派な広告からは想像もできない、かなりハチャメチャな舞台だったようです。

こんなこともあってか、浅草での「グロテスク劇場」はこれで幕引きということになったようですが、近江一座は人気にあやかって、名古屋などの旅公演ではその後も「グロテスク劇場」の看板でしばらく興行を続けていたようです。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第16巻(八木書店, 2022)より

ちなみに、鈴村によればこの『忠臣蔵』の

"失敗の爆笑が、ヒントになったのか、松竹爆笑隊が生れ、翌月笑いの王国と改めて常盤座に数年続演する全盛を築いた"(同書,p.67)

とのことだそうです。


ともあれ、このエピソードからも、鈴村義二と近江二郎はもともとかなり近い関係にあったことがわかります。旧知の仲といってもいいでしょう。本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には、杉田劇場オーナーの高田菊弥が、戦前、浅草松竹座で役者の後援会長をやっていたと書かれていますが、鈴村義二と高田菊弥だけでなく、近江二郎も含めた三者は、浅草時代から何らかの関わりがあったと考えてもおかしくない気がします。

つまり、杉田劇場の開場直後、昭和21年1月下旬から、近江二郎一座が来演しているのは、単に近江二郎が横浜に住んでいて、人気があったからというだけではなく、鈴村や高田と昔からの関係があったからだと考えても間違いはない気がするのです。

そして、やはり大高よし男が杉田劇場の専属となった経緯にも、この三者の縁が絡んでいたという推測も、そんなに大きく的外れだとは言えない気もするのです。

さらには、何度も引用しているように、近江二郎の養女だった元子さんの手記にある

"二代目を名乗るべき人が交通事故で他界"(George Omi "FIFTH BORN SON"より)

という文言が、大高を指しているような気がしてならないのです。

つづく

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(103) 近江二郎の戦後

昭和23年11月16日に横浜国際劇場不二洋子一座公演の広告が出ます。ここに興味深い名前が登場するのです。

近江二郎です。

1948(昭和23)年11月16日付神奈川新聞より

印刷が不鮮明ではっきりしませんが、右に大きく書かれた「不二洋子一座」の下に、かすれた「近江二郎加盟」の文字を読み取ることができます。

戦時中、近江二郎はやはり「加盟」の立場で、不二洋子一座にしばしば参加していましたが、戦後もその流れは継続していたようです。

不二洋子一座が初めて横浜国際劇場に来演したのは前年の昭和22年9月26日で、二度目が同年12月17日。これが三度目の登場ということになります。

1947(昭和22)年9月27日付神奈川新聞より

1947(昭和22)年12月2日付神奈川新聞より

ですが、最初の公演も二度目の公演も、近江二郎が参加していたかどうかはいまのところ不明です。


以前も書いたように、近江二郎の戦後の活動は

昭和21年
 1月 杉田劇場
 3月〜5月 銀星座(弘明寺)・杉田劇場
 7月〜8月 宝生座(名古屋)

昭和22年
 3月 堀田劇場(名古屋)
 5月 宝生座(名古屋)
 8月 観音劇場(名古屋)

がわかっています。断続的ながら精力的に活動している様子がわかります。

その後の調査で、不二洋子の評伝『夢まぼろし女剣劇』(森秀男著)に掲載されている、昭和23年2月の京都南座での不二洋子一座公演のパンフレットにも近江二郎の名前があることがわかりました(同書, P.181)。

森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房,1992/ P.181)より

となると、時期的に近い不二洋子の二度目の横浜国際劇場(昭和22年12月)にも近江二郎が参加していた可能性は否定できませんし、最初の来演である9月興行もスケジュール的にはあり得ない話ではなくなってきます。

『夢まぼろし女剣劇』によれば、戦後の不二洋子はライバルである大江美智子に比べると活躍の場が少なくなっていて、かつてあんなにも人気を誇った浅草に復帰するのも、昭和21年12月の松竹座からで、昭和20年2月以来、実に1年10ヶ月ぶりだったそうです。

不二洋子が浅草の舞台に復帰した昭和21年の年末、近江二郎がどこにいたのかははっきりしません。『松竹七十年史』の記録には、不二洋子一座に近江二郎の名前はありませんが、8月の宝生座(名古屋)と翌年3月の堀田劇場(同)までの間ですから、ここでも近江二郎が出演していた可能性もまた否定できません。

話が前後するので、時系列を整理するために、まず『夢まぼろし女剣劇』と『松竹七十年史』から、戦後、昭和24年までの不二洋子一座の公演をまとめてみます。

昭和21年
 12月 浅草・松竹座  
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座

昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座

となります。

ここに横浜での興行と近江二郎の足跡を加えてみると(※黒文字:近江二郎、赤文字:不二洋子、緑文字:不二洋子一座に近江二郎が参加)

昭和21年
 1月 横浜・杉田劇場
 3月〜5月 横浜・銀星座
 7月〜8月 名古屋・宝生座
 12月 浅草・松竹座
 
昭和22年
 3月 名古屋・堀田劇場
 5月 名古屋・宝生座
 8月 名古屋・観音劇場
 9月 横浜国際劇場
 12月 横浜国際劇場
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座
 11月 横浜国際劇場
 
昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座


こうして時系列で見ていくと、いささか強引かもしれませんが、昭和21年の浅草は別として、昭和22年の秋以降、近江二郎はずっと不二洋子一座に帯同していたと考えてもいいような気がしてきます。

妄想を逞しくすると、昭和22年9月、横浜国際劇場にやってきた不二洋子の楽屋を近江二郎が訪ね、久々の再会に意気投合して、そこからまた不二洋子一座に近江二郎が参加するようになった、というストーリーも成り立ちそうですが、あくまでも悪癖の妄想ということで…

ただ、昭和24年5月29日に近江二郎は急逝してしまいますから、上記、昭和24年11月の常盤座公演には近江二郎の姿はなかったわけで、両者の戦後の共演は短期間で終わってしまったということになります。


こうしてみると、いまのところ近江二郎の記録として残っている一番新しいものが、冒頭にあげた横浜国際劇場の広告になります(最後が横浜というのも、なんとなく妄想を掻き立てられるところですし、亡くなったのが、横浜大空襲と同じ日という事実にも運命的な何かを感じてしまうのは…やはり悪い癖のようです)。

戦前・戦中、大衆演劇の世界で剣劇や新派の一座をなし、人気を誇っていた役者たちが、戦後はワキに回るなどして映画や舞台で活躍していたことを思うと、近江二郎もあと10年生きていたら、いまでもスクリーンの中にその姿を見ることができたのかもしれません。運命とはいえ、残念でなりません。


そんなこんなで、ここまで調べてきて、ざっくりとではありますが、明治の末に川上音二郎や藤沢浅二郎の俳優学校を出た後から、昭和24年に亡くなるまで、大正時代の前半を除けば、近江二郎の足跡の全容がうっすらとわかってきました。大正時代に東京で新派の舞台に出ていた時期を精査すれば、近江二郎についてはある程度の年譜ができそうな気がします。

その精査の中で大高との接点、出会いの時期を確定することができればいいのですが、果たしてそううまくいくかどうか。やはり近江二郎の足跡という線も、大高調査の重要なポイントになりそうです。



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