(106) 杉田専属劇団

前回書いたように、大高よし男の三回忌追善興行ののち、暁第一劇団(暁劇団)は藤村正夫を迎えて再出発します。昭和23年の年末には杉田劇場に引き続いて、横浜オペラ館でも公演するなど、藤村との蜜月というか、劇団運営の順調ぶりが感じられます。

ところが、翌年、昭和24年に入ると突然、広告から藤村の名前が消えてしまうのです。

何があったのかはわかりませんが、何かあったことは容易に想像できます。

藤村正夫の名前が消えると同時に「暁劇団」「暁第一劇団」「暁座」の名称も姿を消します。その代わりに登場したのが

「杉田専属劇団」

という味も素っ気もない劇団名です。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

新聞広告しか手がかりのないものですから、これがどんな劇団なのかさっぱりわからないのですが、もともと大高一座(暁第一劇団)が杉田劇場専属の劇団であったことからすると、その流れだろうことは容易に推測できます。


一方で、前年、杉田劇場に「同生座」の名前で華々しく登場した「鳩川すみ子・朝川浩成」のコンビは、これまた華々しく銀星座に登場します。もともと日吉良太郎一座にいた二人ですから、これでめでたく古巣に戻ったということになるのでしょうか。

1949(昭和24)年1月18日付神奈川新聞より

逆にこの時期を境に、かつて杉田の暁第一劇団から銀星座の自由劇団に移った「壽山司郎」の名前が、自由劇団の広告の連名から消えてしまうのです(12月22日から鳩川・浅川が自由劇団に参加するという広告の後、壽山の名前が消える)。

いったい何があったのだろう…

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より
この広告まで座員連名の中に「壽山」の名前がある

広告を追うだけでも離合集散の劇団事情が垣間見えるようです(もしかしたら壽山は杉田専属劇団に復帰したのかもしれない)。


さて、上掲のように杉田専属劇団が初登場するのは「劇団新歌舞伎」という劇団との合同公演です。「劇団新歌舞伎」はメンバーからして、おそらく戦前の横浜歌舞伎座の更生劇や金美劇場の「新進座」の流れと考えていいと思います。開館当初の銀星座にもほぼ同じメンバーが「御當地おなじみ 新歌舞伎」として出演しています。

1946(昭和21)年6月12日付神奈川新聞より

大高亡き後の杉田劇場はさまざまな手を打ちますが、歌舞伎だけではダメ、暁劇団の再生も不調、という経験を重ねた結果、歌舞伎と剣劇・新派を組み合わせた番組で勝負しようと考えたのかもしれません。いずれにしても、このあと、しばらくは歌舞伎と専属劇団の合同公演でプログラムが組まれていきます。


杉田専属劇団と劇団新歌舞伎の合同公演は、2月に入ると広告にも惹句が増えて情報量が多くなります。

そしてその中に

「高島小夜里」

という名前が登場します。

1949(昭和24)年2月8日付神奈川新聞より

見覚えのあるこの名前、実は大高一座のポスターの中に出てくる役者の名前と同じなのです。

所蔵:杉田劇場

所蔵:杉田劇場

高島小夜里は大高一座の座員だったわけですから、「杉田専属劇団」はやはり暁第一劇団の残党による団体と考えてよさそうです。

大高の後継者として、さまざまな座長候補をトップに据えて再起を図りますが、いずれもうまくいかず、最終的には自分たちだけでやっていこうと思ったのかもしれません。人気のあった座長の後釜に入るのはなかなか難しかったのかな、なんていう想像も働きます。


2月下旬になると、広告から「杉田専属劇団」の名前が消えてしまいますが、演目からして歌舞伎の一座がやったとは考えにくいものもあることから、広告には記載しないものの、やはり合同公演の形は継続していたと思われます。

1949(昭和24)年2月26日付神奈川新聞より

そしてこの「杉田専属劇団」は4月下旬になると突然「港劇団」という名前を付け加えるようになります。

1949(昭和24)年4月22日付神奈川新聞より

最初これは「暁劇団」の誤植ではないかと思っていましたが、その後、日をおいて何度も登場することから、間違いとは考えにくく、この時期、大高一座はとうとう「暁」の名前を捨て、新しい名前のもと、再スタートを切ったと考えてもよさそうです。

ここまでの流れを見ると、三回忌を機に、さまざまなやり方で大高の影響からは決別して、独り立ちしようという劇団の決意みたいなものも感じるところです。


ところで、杉田劇場は昭和23年8月に株券を発行して資金集めをはかっていることや、片山さんの証言などからも、この頃には劇場が経営不振に陥っていた、というのがこれまでの定説でしたが、新聞広告から一年を通じての番組をデータ化してみたところ、昭和23年はほとんど休みなく公演が入っていることがわかりました。

1948(昭和23)年の杉田劇場スケジュール(抄)

とても経営不振には見えないし、賑わいが失われたようにも見えません。個々の興行の入りがどうだったかはわかりませんが、少なくとも劇場は連日オープンしていて、ほぼ毎日なんらかの公演が行われていたことは間違いありません。

昭和23年には、一時的にエロに傾斜して「りべらるショウ」などを上演したり、集客が見込まれる映画も何度か開催されていますが、年間を通じたプログラムを眺めると、やはり歌舞伎や剣劇などの興行が圧倒的に多く、年の後半になるとエロもほとんど消え、完全に実演劇場として経営していたことがわかります。

今後の調査によりますが、杉田劇場の経営難が表立ってわかるようになるのは、昭和24年以降なのではないかと思われます。


杉田劇場に限らず、近隣の劇場も名前を変えたり、プログラムを工夫したり、試行錯誤している時期ですから、苦境は杉田に限ったことではなく、むしろ先行していた上に、市のはずれという立地ながら、杉田劇場は健闘していた方なんじゃないかとさえ思えるところです。


→つづく
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(105) 藤村正夫と新生暁劇団

昭和23年9月に大高よし男三回忌追善興行を終えた暁第一劇団は、その後、精力的に活動を再開します。三回忌追善に特別出演した藤村正夫を迎えて「新生暁座」の名前で次々と公演を打っているのです。

杉田劇場では

10月6日〜27日
11月22日〜12月13日

が「藤村正夫外三十数名」の「新生暁座」の公演日程で、それまで歌舞伎の市川門三郎一座や大衆演劇の市川雀之助一座に頼りきっていた杉田劇場に、ふたたび暁第一劇団の灯がともったような印象を受けます。

ちなみに10月9日からの興行では『涙雨五千両』が上演されます。

1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より

これは現杉田劇場に残されているポスターにも載っている演目で、大高一座の得意なレパートリーのひとつだったのかもしれません。

所蔵:杉田劇場


以前も書いたように、藤村正夫はもともと日吉良太郎一座にいた人で、昭和11年にいろいろあって独立し、自分の一座を由村座で旗揚げしますが、どうやらその後は日吉劇時代ほどの人気にはならなかったようです。

とはいえ、初代大江美智子が倒れた時(昭和14年1月)には一座に参加していたようですし、役者としてはやはり特筆すべき人気と実力を兼ね備えていたのでしょう、銀星座の自由劇団(この時は「自由座」)の旗揚げ公演(事実上、戦後の日吉劇団の再出発と考えていいと思う)にも特別出演の形で出ています。

1946(昭和21)年8月15日付神奈川新聞より

そんな藤村がどういう経緯で大高の三回忌追善興行に出演し、その後の暁劇団を事実上率いるようになったのかは不明ですが、元・日吉劇の鳩川すみ子と朝川浩成による劇団が杉田劇場で公演していることからも(詳細はこちら)、銀星座と杉田劇場、あるいは鈴村義二と日吉良太郎の間にはなんらかの関わりがあり、その中でこういった流れになったのかもしれません。


11月1日からは「中村喜昇一座」が杉田劇場に出演しますが、中村喜昇といえば日吉劇にも「少年歌舞伎」の一座として出演していた人ですから、このあたりにも杉田劇場における日吉劇の影響が垣間見られます(杉田劇場に出た時には「青年歌舞伎」になっているのが面白い)。

1944(昭和19)年2月24日付神奈川新聞より

1948(昭和23)年11月2日付神奈川新聞より

〜余談〜

尾上芙雀の話によると、大高一座には日吉劇の子役たちがいたとあるので、中村喜昇も戦後は名前を変えて一座に参加していたのが、ここで元の名前に戻り一座を復活させたという可能性も否定できません(調べてみると映画『明治一代女』(1955)の劇中劇出演者に中村喜昇の名前がある)。

閑話休題

いずれにしても、三回忌追善興行以降、暁第一劇団は藤村正夫を事実上の座長として、再出発を図ったようです(この時期は「新生暁座」となっている)。

新生暁第一劇団の活動は、杉田劇場にとどまらず、南区高根町の横浜オペラ館(元「オリエンタル劇場」)にも広がっています。11月13日から17日までのスケジュールで興行が行われているのです。

上述の2つの期間の合間に、別の劇場にも出るほどですから、活動が充実していた印象を受けます。さらには驚くことに、この広告にあの「大江三郎」の名前が出てくるのです。

1948(昭和23)年11月13日付神奈川新聞より

いうまでもなく大江三郎は大高一座の支配人で、近江二郎一座でも作・演出などを担当した文芸部員です。大高調査における最重要人物のひとりとも言っていいでしょう。

おそらく大高亡き後、大江三郎の名前が新聞紙面などに出るのはこれが初めてではないでしょうか。座長の没後も活動を続けていたことがわかりましたし、このことからも藤村正夫率いる新生暁劇団が、大高一座の残党によって成り立っていたことがわかります。

なお、この広告では「藤村正夫と新生劇團 第一回公演」となっていますが、大江三郎がいることからしても、またスケジュール的にも、この新生劇団は杉田劇場の新生暁座と同じものと考えていいと思います。

その後、11月下旬からの興行では、広告でも「藤村正夫」が前面に出て、新生暁劇団はさながら「藤村正夫一座」の様相を呈してきます。

1948(昭和23)年11月22日付神奈川新聞より

さらに年末の12月14日からはふたたびオペラ館での興行が始まります(おそらく19日まで)。そして、ここにも「大江三郎」の名前が登場しています。

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より

杉田劇場とオペラ館のスケジュールを合わせると、大高の三回忌追善興行以降、藤村正夫をトップに据えた暁劇団の公演は

10月6日〜27日 杉田劇場
11月13日〜17日 オペラ館
11月22日〜12月13日 杉田劇場
12月14日〜19日 オペラ館

となり、ほぼ休みなく、といってもいいほどの興行が続いていたわけです。

これですっかり軌道に乗ったかに思えたこの関係は、しかしそう長くは続かず、年明け1月から劇団はまた新たな展開を見せることになるのです。




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(104) グロテスク劇場の内幕

近江二郎はアメリカ巡業から帰国して一年後の昭和7年夏「グロテスク劇場」というシリーズをスタートさせ、人気を博します。一時期は「グロの近江」とも言われ、近江一座の代名詞とも言われるシリーズだったようです。

このグロテスク劇場については、以前も書いたことがありましたが、メイエルホリドとの関係など頓珍漢なことを書いていて恥ずかしくなるばかりで、これがどんな意図で始まったのかなど、これまで詳細はよくわかっていませんでした。


先日、旧杉田劇場の総合プロデューサーというべき、鈴村義二の書いた『浅草昔話』(南北社事業部, 1964)という本を手に入れました。なんと、そこに「グロテスク劇場」の内幕が書かれていたのです。




それによると

"劇場の正面全体を、岩窟のこしらえにして、近江二郎一座に伴淳三郎、長田健が加入、映画から浅香新八郎、衣笠淳子特出、出し物は全部怪談劇で、グロテスク劇場と看板をあげて、昭和七年八月の公演劇場のフタをあけた。"(同書,p.65)

要するに怪談劇を「グロテスク劇場」と呼んでいただけのことらしいです。

1932(昭和7)年8月20日付都新聞より

もっともこの広告には伴淳三郎などの名前がないので、当初は近江一座だけの企画だったのかもしれません。その後、8月30日付の新聞に伴淳らが日活の争議を嫌ってグロテスク劇場に参加したという記事が出ます。

1932(昭和7)年8月30日付読売新聞より

鈴村によれば、前年の7月に大谷友三郎・遠山満・近江二郎・酒井淳之助を集めたお盆の興行が不入りだったことから、この怪談劇も期待薄で、興行主の木内興行部としては「まあやってみれば」という程度の思い入れだったそうです(それまで正月と盆は稼ぎ時だったのに、この頃から夏は海や山への旅行に客を取られてしまったということらしい)。

ただ、これまで調べた範囲では前年つまり昭和6年夏の近江二郎は、7月7日に帰国したばかりで、合同公演をやっているような記録がないので(むしろ凱旋公演のように近江二郎一座で興行している)、不入りだった興行とは、以下の広告にある昭和7年正月の合同公演(剣劇大合同)のことを指しているのかもしれません。

1931(昭和6)年12月29日付読売新聞より


さて、そんな期待薄だった「グロテスク劇場」ですが、これが予想外に当たって

"連日の大入り、八月一ヶ月だと、開場前に宣告されたのが、今度は劇場側からの頼みで、九月十月と打ち続け、相変わらずの大入り"(同書,p.66)

になったのだそうです(鈴村は木内興行の相談役だったようなので、グロテスク劇場は木内が公園劇場を借りて興行していたのだと思います)。

とはいっても、そもそもがそんなに入るとは思っていなかった興行なので、さすがにロングランとなると演目も底をつき、

"これまで客を引き寄せたのだから、大丈夫という事で、十一月に忠臣蔵通しをやった"(同書,p.66)

ということですから、行き当たりばったりというか、いい加減というか。

それが10月31日初日を告げるこの興行のようです。

1932(昭和7)年10月31日付都新聞より


"舞台稽古に一日休場して、大張り切りで初日をあけた。
序幕、二場目と進んで松の廊下、伴淳の師直、浅香の判官、
(中略)
判官が刀に手をかけようとしたが、腰に小刀がない、これを袖で見た茶坊主が、小刀を持って舞台へ飛んで出て
「判官殿」
と小刀を差し出す。ドッと客席は大笑い。それを引ったくって師直に斬りつける。その時師直の長袴を踏んづけていたので、逃げる師直は、舞台へつんのめる。客席は爆笑、爆笑"(同書)

 

というのだから、「今秋劇界震撼の帝王篇」などと大仰なキャッチコピーが書かれた立派な広告からは想像もできない、かなりハチャメチャな舞台だったようです。

こんなこともあってか、浅草での「グロテスク劇場」はこれで幕引きということになったようですが、近江一座は人気にあやかって、名古屋などの旅公演ではその後も「グロテスク劇場」の看板でしばらく興行を続けていたようです。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第16巻(八木書店, 2022)より

ちなみに、鈴村によればこの『忠臣蔵』の

"失敗の爆笑が、ヒントになったのか、松竹爆笑隊が生れ、翌月笑いの王国と改めて常盤座に数年続演する全盛を築いた"(同書,p.67)

とのことだそうです。


ともあれ、このエピソードからも、鈴村義二と近江二郎はもともとかなり近い関係にあったことがわかります。旧知の仲といってもいいでしょう。本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には、杉田劇場オーナーの高田菊弥が、戦前、浅草松竹座で役者の後援会長をやっていたと書かれていますが、鈴村義二と高田菊弥だけでなく、近江二郎も含めた三者は、浅草時代から何らかの関わりがあったと考えてもおかしくない気がします。

つまり、杉田劇場の開場直後、昭和21年1月下旬から、近江二郎一座が来演しているのは、単に近江二郎が横浜に住んでいて、人気があったからというだけではなく、鈴村や高田と昔からの関係があったからだと考えても間違いはない気がするのです。

そして、やはり大高よし男が杉田劇場の専属となった経緯にも、この三者の縁が絡んでいたという推測も、そんなに大きく的外れだとは言えない気もするのです。

さらには、何度も引用しているように、近江二郎の養女だった元子さんの手記にある

"二代目を名乗るべき人が交通事故で他界"(George Omi "FIFTH BORN SON"より)

という文言が、大高を指しているような気がしてならないのです。

つづく

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