(132) 川上好子ふたたび

川上好子のことは何度か書いてきました。

日吉劇のメンバーで、昭和10年の「復興博の女神」コンテストで3位に入賞したことや(→こちら)、その後、日吉劇を離れ、各地の舞台に立っていたことなどです(→こちら

横浜出身で横浜に住んでいたこともわかっています。

しかし、その経歴の詳細はよくわかりませんでした。


ところが、大高よし男や近江二郎の足跡を辿るべく、例によって都新聞を確認していたところ、思いがけず彼女の名前に出くわすこととなったのです。

川上好子は昭和15年3月、近江二郎一座が横浜敷島座に来演した時に、この一座に参加していて、翌16年に再来演した際にも共演しています。

近江二郎はどうやら昭和15年1月から籠寅演芸部に所属したようで、川上好子も同じ頃に籠寅専属となったようです。前年の昭和14年に初代大江美智子が急死していますから、保良浅之助としては剣劇・女剣劇のブームが萎まぬよう、さまざまな役者と専属契約を結んで、層を厚く補強したということなのかもしれません。

1940(昭和15)年3月11日付都新聞より

この記事によれば、川上好子は

「最近籠寅専属になつて賣出した」

役者で

「川上貞奴創設の川上児童劇園の出身」

とあります。

川上児童劇園とは、正確には「川上児童楽劇園」といい(劇「団」ではない)、川上貞奴が1924(大正13)年に創設した、児童を対象とする一種の俳優学校。5歳から15〜6歳の児童が全寮制の「園」で演技や音楽などさまざまな科目を学んでいて、当初は青山に、翌年には二子玉川に移転して、昭和7年まで継続したものだそうです。


都新聞の記事が正しければ、川上好子はこの学校(楽劇園)で俳優への第一歩を踏み出したということになります。

川上児童楽劇園については、よく調べていないので、川上好子がどういう経緯で入園し、どういう活動をしていたのかなどわかりません。

前々回の投稿で引用しましたが、1941(昭和16)年4月、横浜在住の俳優として新聞で紹介された時には「27歳」と書かれていますから、計算すると1914(大正3)年頃の生まれで、川上児童楽劇園が創設された時期には10歳前後。年齢的には入園資格に合致しています。

昭和10年の復興博の女神コンテストに参加した時には日吉劇のメンバーでしたから、昭和初期、川上児童楽劇園を卒園したのちに、日吉良太郎一座に参加したのかもしれません。


都新聞の記事では、川上音二郎の俳優学校を出た近江二郎が、川上好子の経歴を知って「同窓の友だ」と周囲に吹聴したとあります。

大正時代には喜楽座で新派の気鋭の俳優として人気を博していた近江二郎でしたが、その後は新派というよりは剣劇役者のようにみられたり、アメリカ巡業で話題となりつつも、グロテスク劇場以降はあまり注目もされず、役者としての出自たる新派のメインストリームからも外れていたことを思うと、音二郎と貞奴の違いはあれ、同じ川上の薫陶を受けた川上好子との出会いは、彼にとっても心強いものがあったのかもしれません(近江二郎の新派への思いは→こちら)。


もっとも記事はゴシップネタですから、

「同じ川上畑でも近江は明治、好子は昭和の育ち 間に大正といふ年代のあつたのを計算に入れてゐないあたり、いゝ気なもの」

と、結んでいるあたり、近江二郎の思いはいささか空回り気味だったのかもしれません。

とはいえ、両名ともに実力は折り紙付きで、のちに近江二郎は不二洋子一座に参加、川上好子もまた酒井淳之助や青柳龍太郎らの一座に参加するなど、横浜敷島座を足がかりに、籠寅の大衆演劇・剣劇戦略の中で、活躍の場をさらに広げていくことになります。

それはのちに伏見澄子一座に参加する大高よし男も同じで、近江二郎・川上好子らと同じ籠寅の系譜にいたことは間違いなさそうです。


これまで調べた中では、戦後、川上好子の名前を見ることはなくなります。動向はよくわかりません。住所は長者町で、横浜大空襲があったことを思うと、悲劇的な事象が起こっていたのかもしれませんし、単に引退したということなのかもしれません。

川上児童楽劇園のことも含め、もう少し深掘りして調べてみる必要がありそうです。


そんなこんなで、今回は川上好子の経歴についてのお話でした。

次回も周辺情報についての報告になりそうです。



→つづく
(次回は4/10更新予定)

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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(131) 近江一座の消息と大高義男

大高よし男の足跡は、1940(昭和15)年3月に横浜伊勢佐木町・敷島座の近江二郎一座に参加したという新聞記事が一番古い記録です。

それ以前のことがよくわからないので、彼がいつ近江二郎一座に参加したのかが、解明の鍵になるだろうというのは、かねてから繰り返し考えてきたことです。

それを探るべくさまざまな資料を調べてきましたが、これがなかなか判明しない(無念)。


ということで、これまでの調査に見落としがないかと、最近はずっと都新聞の1939(昭和14)年の演芸欄を細かく調べて、横浜に来る前の近江二郎の消息を探ってきました。

しかしながら、芸界往来の欄にも彼の名前が出ることはなく、他の欄にもまったく記載がないことから途方に暮れるばかり。4月いっぱいまでを調べたところで目も腰も限界に達し、痺れを切らして、横浜に来演した昭和15年春まで一足とびにスキップしてみたところ、ゴシップ欄(?)にようやくこんな記事を見つけたのです。

1940(昭和15)年2月27日付都新聞より

記事に曰く

"新派の古強者近江二郎、アメリカあたりを巡演してゐたところまでは判つてゐたが、其後どこにどうしてゐるのかと思つたら、此程■然と姿を現し此三月には横濱出演が決定"

これを読むと、どうやら新聞社の方でも、近江二郎という名前は昭和初期の活動(おそらく「グロテスク劇場」あたりまで)のあとは、あまり耳にしていなかったようで(どこにどうしてゐるのかと思つたら)、なるほど、記事に名前が出ないのもそういう事情なのかと腑に落ちました。この時期(昭和10年代前半)、近江二郎一座は京浜地区や京阪地区の主要な劇場では活動していなかったのだろうと想像されます。

もっとも『近代歌舞伎年表』を参照すると、昭和10年代の初め頃(昭和13年まで)は年に1〜2度のペースで名古屋の劇場(宝生座など)には出演していたようなので、名古屋を拠点として旅公演をしていたとも考えられます。

いずれにしても、昭和15年春、敷島座への出演(つまりは籠寅演芸部への所属)で、近江二郎はふたたび脚光を浴びるようになったようなのです。

ですから、おそらくこの少し前にあったであろう、大高よし男と近江二郎の出会いは、全国紙や首都圏の新聞からは判明しない可能性が高く、京浜、京阪、中京以外のエリアの新聞や資料を探索するしかないのかもしれません(しかしどの地域を探せばいいのだろう…)。

上掲の記事はこう続きます。

"喜んだのは松竹大船にゐる近江門下の面々、師匠更生の祝いに引幕、幟などを注文したが、これは国策に反するとあつて禁じられてゐることが判り(以下略)"

この記述から、どうやら近江二郎の弟子にあたる役者が松竹大船撮影所に複数名いたことがわかります。具体的な名前が上がっていないので詳細は不明ですが、戦後を見ても渥美清や平参平など、近江二郎一座に所属していた役者は多く、若手俳優育成の場として近江一座が重要な機能を果たしていた側面も垣間見られます。そんな中に大高よし男もいたということなのでしょう。

余談。

一般的に戦後、実演劇場がなくなっていったのは映画のせいだと言われています。実際、そういう面もあったかとは思いますが、杉田劇場や銀星座の推移を見ていると、時間経過とともに剣劇・新派などの大衆演劇が消えていき、最後は歌舞伎が残って、事実上、歌舞伎(小芝居)の小屋になっていく傾向があります。

このことからすると、少なくとも周縁部の劇場では、実演全般というより大衆演劇が映画に取って代わったというのが正確なような気がします。剣劇は時代劇、新派はメロドラマ(?)などとして映画化されることで、それぞれのジャンルの実演のニーズが低下したように思うのです。

もちろん、歌舞伎の演目も映画化されていますが、たとえば映画の『忠臣蔵』と『仮名手本忠臣蔵』を同じものというのはちょっと難しいところで(すべての忠臣蔵を比較したわけではないので私的な仮説ですが)、それが実演の歌舞伎の独自性と人気を保っていたのかもしれません。

ですから、映画隆盛と実演衰退の関係は「映画の隆盛にともなって、剣劇や新派といった大衆演劇が取り扱っていた題材(作品)が映画に採用されるようになり、結果として実演のニーズが低下した」という理解の方が実態に近いような気がします。

そう考えると、近江一座出身の映画俳優が多くいたというのも、どことなく腑に落ちるところです(近江二郎自身は日本の映画には出ることなく亡くなっていますから、皮肉でもあり残念でもありますが、逆に最後まで舞台人であったというのは、彼にとって幸せだったのかもしれません)。

閑話休題。

そんなこんなで、大高と近江一座の関わりについては(まだ具体的な事実関係は不明ながら)、得意の妄想を駆使すればかなり高い確度でこんな推移が考えられそうです。

昭和10年代前半
いずれかの地方で近江一座に大高よし男(前名・高杉弥太郎)が参加(推測)
昭和15年3月
近江一座のメンバーとして横浜敷島座に登場(おそらく近江と同時に籠寅所属)
昭和16年1月
横浜敷島座に再来演 その後、近江一座から離れて松園桃子一座、伏見澄子一座に参加
昭和17〜18年
大高よし男に改名。海江田譲二・中野かほるらの8協団や伏見澄子一座に参加 
※その後の消息不明(出征か?) 
昭和21年1月
杉田劇場に出演した近江一座を(復員後の?)大高が訪ねる(推測)
昭和21年2月
近江二郎の口ききで大高よし男が杉田劇場の専属劇団座長となる(推測)


結果的に、まだ何もわかっていないのと同じではありますが、名前以外の何もわからなかった当初からすればかなり前進してきたと、少しだけ自画自賛したいところです。 


なお、大高よし男についても、都新聞を再調査している中で、やっとひとつ以下の記事が見つかりました。

1942(昭和17)年1月30日付都新聞より

この事実は、すでに横浜の新聞で確認していますが、都新聞でもはっきりと「高杉彌太郎改め大高義男」と書かれていて、改名の事実が再確認できたわけです(おそらく昭和17年1月興行から大高義男またはよし男に改名)

とはいえ、そもそもがどちらも同じ興行(敷島座の伏見澄子一座)に関する記事で、情報源が同じだった可能性もあるので、これをもって即座に真実と断定するのも拙速ですが、二紙に記述があるのは頼もしい話で、ひとまず「大高よし男の前名は高杉彌太郎である」ということを確度の高い前提として、今後も調査・検証を続けていきたいと思います。


そんなこんなで、今回も新発見というほどのものはありませんでしたが、近江二郎一座の消息と大高よし男について浅く検証してみました。

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(130) 横浜在住の俳優たち(2)

前回投稿したように、横浜在住の俳優を紹介する連載は、初回に続いて4月25日に第二回が掲載されます。

1941(昭和16)年4月25日付神奈川県新聞より

ここでは主に長老俳優たる「岡田梅男」と「市川新昇」が詳細に紹介されています。

それによると岡田梅男は明治元年生まれ。最初は三遊亭梅枝という落語家で、壮士芝居に転向して山口定雄一座に入座して岡田梅男を名乗るようになったそうです。その後、喜楽座に移って曾我廼家祐経を名乗ったが、また新派に戻ったとのこと。連載を書いた小林勝之丞は

「昨冬、六角橋の六角館で岡田の舞台を久しぶりに見たが是が七十余歳の老人とは少しも思えず胸の透く芸風であったことを喜んだ」

と書いています。

もう一人紹介されているのが「市川新昇」。字が不鮮明でよくわからないのですがおそらく「新昇」。住所などから前回の一覧にあった「市川新升」と同一人物と思われます(どちらの字が正しいのかは不明)。

この人は、この当時、主に祭礼の余興に出ていて、保土ヶ谷の海老塚萬吉を太夫元とするグループに属していたそうです。前回も引用した通り、市川新蔵の門弟で、この記事によると、若い頃は「檜舞台を踏んだ」とありますので、かつて歌舞伎に出ていたということなのでしょう。

またこの人は「下駄新」と呼ばれていたそうで、その理由はかつて伊勢佐木町一丁目の勧工場(今でいうデパート)で下駄店をやっていたからだそう。伊勢佐木町の勧工場は記事中に「今の森永キャンデー」とカッコ書きされているように、伊勢佐木町の入口にありました。


横浜の役者は必ずしも全国的な知名度があったわけではないようですが、だからこそでしょうか、その人生の変遷が面白くエピソードに飽きることはありません。


この回には他の役者紹介はありませんでしたが、翌日、4月26日の第三回には、初回の続きとして横浜在住の役者が紹介されているので、ここに引用しておきます。

1941(昭和16)年4月26日付神奈川県新聞より

※以後の各連載は、リストアップされた役者から何人かをピックアップしてエピソードを詳述する形になりますが、長くなるのでそれはまたいずれ書くとして、ひとまず役者の一覧を引用列記していきたいと思います。


岡田梅男
本名同じ/七十四歳/中区日枝町/故山口定雄門下、近郊巡業を主としている

小金井秀夫
本名:中澤忠三/三十七歳/中区日枝町/目下浅草大都劇場実演

水之江城子
本名:和田城子/十三歳/中区清水ヶ丘/故高田■の長女/近郊巡業
※「高田■」が判読できませんでしたが、都新聞によれば、敷島座座付の頭取で、城子はその娘だそう。剣劇の酒井淳之助が不憫に思って子役として重用していたとのことです(1940(昭和15)年3月1日付演芸欄より)。

川上好子
本名:今津コウ/二十七歳/中区長者町/籠寅演芸部専属
※この人については以前も紹介しましたが、元日吉劇のメンバーで復興博の女神で3位になっています。

曾我廼家明石
四十五歳/中区山王町/祭礼余興、演劇に出演。平素は紙芝居屋

五月信夫
四十歳/中区日枝町/女形。近県巡業

静■繁
中区若葉町/近郊回り。岡田梅男門下

嵐傳五郎
六十五歳/中区黄金町、髪結音羽屋方/尾上多美右衛門の父。立師。現在は地方回り

嵐ひろ子
十歳/右の(注:上の)傳五郎の孫

市川コズエ
本名:平尾/十二歳/中区末吉町/市川蔦之助の娘

橋本梅蔵
本名:橋本久次郎/七十一歳/中区蓬莱町/嵐璃■門下。頭取として地方巡業


続く4月28日の第五回には引退した役者がリストアップされています。

1941(昭和16)年4月28日付神奈川県新聞より


中島三甫右衛門
本名:鈴木新助/四十一歳/かつては東宝劇団俳優。今は東京日本橋、山初玩具店重役/中区本牧三之谷

佐藤幾之助
本名:佐藤彌七/六十四歳/中区曙町/麻雀三徳の主人/山口定雄系の新俳優にして明治四十二年二代目幾之助襲名

佐藤新十郎
七十歳/新俳優なりしが今は某芸妓見番に勤務。若き頃は酔うと大言壮語して東北弁を発揮。自分の名を、スンズロウと発言して有名なり

荒井信夫
六十七歳/中区弘明寺町/川上座の古い座員にて水野好美に師事し、横浜では喜楽座々付たりし

尾上梅代
本名:榎本あい子/中区弘明寺町/常磐津語りとして寄席出演したのが明治三十年代。のちに女役者として三崎座に所属。帝劇女優第一期生に振付。のちに喜楽座に来り。現在頗る不遇。

三島啓介
本名:酒井茂作/五十九歳/福島県生まれ/喜楽座にてお馴染みの三枚目役者。今は神奈川県衛生課嘱託として学校、公会堂にて巡回講話/中区西戸部町

松井幾人
本名:立野幾三郎/五十七歳/扇町の商家に生れ明治四十年松尾次郎門下となる。一度も師匠を変えず大正十四年六月、松尾が廃業とともにいさぎよく舞台を退き、現在は保土ヶ谷町、某神社出仕神官

松岡壽美子
二十六歳/右の(注:上の)松井幾人長女/日吉良太郎一座の花形女優。一昨年(注:昭和14年)廃業。現在は横須賀に在り

中川清
六十三歳/中区本牧三之谷/新派劇の敵役として横浜座時代に人気あり。のちに横浜常設館弁士。現在は伊勢佐木興行組合消毒主任

青木俊二
五十五歳/横浜座主、轟由次郎に愛せられ、女形。女中役を得意。現在は藤棚富士館事務員

池田富雄
東京の寄席回り、埼玉県回りの新俳優、のちに横浜へ出演/六十五歳/現在は中区日本橋、某芸妓屋に納まる

市川三之助
本名:加藤三吉/六十七歳/賑座の時代に市川宗三郎に師事。のちに頭取として三十年続く

佐上善行
本名:小林文太郎/四十二歳/中区西中町/須磨健次門下。日吉良太郎一座に加わり、昭和十三年廃業。現在はワイシャツ製造業

澤村清枝
本名:長谷川/清之助門下。子役清子の実父/中区浦舟町/シンガーミシン会社員から俳優となり、現在は中区花咲町、掃部山見番勤務


ついで5月4日の第六回では、主に大衆演劇の役者と現役を引退した役者を紹介しています(最終回、第七回にも引退役者の追記があります)。

1941(昭和16)年5月4日付神奈川県新聞より


大江美智子
本名:細谷八重子/二十二歳/中区南太田町に自宅あり/先代大江が横浜歌舞伎座に昭和九年春、出演の時入門。大川美恵子と名乗り、師急死するや昭和十四年八月新橋演舞場にて二代目襲名。籠寅専属

吾妻千恵子
十九歳/大江美智子の実妹。有望の花形

大江美媚子
本名:浪川みさを/二十三歳/神奈川区青木通/目下福島県を巡業。大江美智子に紛らわしき美媚子を名乗る。前名立花淳子と称し心臓の強さに於いてはハマ随一

星十郎
二十五歳/前名美崎重郎/甲府の生まれ/十七歳の時日吉良太郎一座に初舞台。昨年より古川ロッパ一座に入り二枚目役を勤む/中区野毛町

関谷妙子
本名:馬場妙子/二十歳/中区千歳町/三吉小学校卒業後、日吉良太郎の門に入り、昨年より志賀廼家淡海一座に加入。五月一日より浅草萬盛座に出演

近江二郎
本名:笠川二郎/五十歳/中区井土ヶ谷町に自宅あり/川上音二郎の門より出て大正九年横浜に初出演。のちに座長となり現在は籠寅専属。五月一日より名古屋宝生座出演
※全国を巡業していた近江二郎ですが、実父が井土ヶ谷で養鶏業を営んでいたこともあり、井土ヶ谷に自宅があったようです。前年に敷島座に来演して以来、好劇家の間では横浜在住の役者という認識になっていたのでしょう。

深山百合子
四十三歳/近江の夫人/以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる芸妓なり
※深山百合子の本名は笠川ヒデ(秀子)で、近江二郎は笠川家に婿養子に入る形だったようです。そのせいか、南太田の常照寺にある近江家の墓の墓誌に二郎の名はなく、二郎の遺骨は笠川家の墓所に納められたものと思われます。

衣川素子
十一歳/近江の娘。子役
※近江二郎と深山百合子には子がなかったので、二郎のいとこの子である「元子」を養女にして子役として舞台に立たせたそうです。元子さんは旅まわりの役者稼業が嫌で、のちに養子縁組を解消し、二郎の甥(妹・孝子の子)にあたる邦夫さんと結婚します。平成十二年に七十歳で亡くなり、今も常照寺の近江家の墓所に眠っています。

藤原かつみ
本名:小林ひろ子/中区中村町/二十二歳/巴玲子門下。目下は北海道を農民劇にて巡業中

伊藤三千三
本名:稲垣(?)音二/中区間門町/四十二歳/故山崎長之輔夫人の実弟。剣劇の人気者。現在は賀川清、英栄子とともにアメリカに在り

伊藤登
本名:伊藤重郎/中区弘明寺町/日吉良太郎一座の喜劇俳優として活躍せるが廃業して、中区通町鶴巻橋際にトンカツ屋開業

竹田玉子
本名も同じ/二十一歳/中区山田町/子役の時より芸達者の評あり。のちに日吉劇へ入り大いに認められしが、現在は東京よし町にて左褄をとる身なり

勝川三次
本名:加藤実/三十歳/中区宿町/武田正憲門下/新劇俳優として名ありしが廃業。伊勢佐木町日活館前の山田貴金属店が姉の家なれば同店員となる

戸田史郎
本名:笠川四郎(注:誤り。正しくは近江資朗)/四十五歳/中区井土ヶ谷町/近江洋服店主人。近江二郎の実弟なり
※この記事では引退したことになっているようですが、戦後の銀星座にも出演しているので引退というわけではなさそうです。役者と並行してやっていた仕事は、洋服店というよりシャツ・ブラウスの縫製業が正しく、戦後もその仕事を続けていましたが、昭和30年代に井土ヶ谷の家が火災になり、磯子区中原(杉田の隣町)に転居します。

尾上羽多丸
祖父は梅幸門人にて羽多蔵。兄は故羽多之助。現在は中区二葉町にて酒井三味線店営業

松本米世
女優をやめて中区高根町に舞踏指南をしている

青柳早苗
本名:梅原イト/中区伊勢町/はじめは朝日座専属なりしが震災直後、故市川荒二郎夫人になり、丹羽イトを名乗り女優廃業。現在はある宗旨の行者として起つ

三井一枝
本名:■井一枝/中区日ノ出町/松尾次郎門下の女優。のちに■井タクシーを営業。今は会社員の妻

久松勝代
同じく松尾次郎門下の女優、娘形なり/中区曙町/酒の家勝花を開き、今は若葉町角にコーヒー店を開業


そんなこんなで、今回も前回に引き続き、戦前の新聞を引用する形で、当時、横浜に住んでいた役者たちを紹介しました。役者の人生の紆余曲折はとても面白いエピソードに溢れています。頃合いを見て、今後も何人か紹介できればと思います。


次回は大高よし男の周辺について、調査の成果をほんの少し。


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