(132) 川上好子ふたたび

川上好子のことは何度か書いてきました。

日吉劇のメンバーで、昭和10年の「復興博の女神」コンテストで3位に入賞したことや(→こちら)、その後、日吉劇を離れ、各地の舞台に立っていたことなどです(→こちら

横浜出身で横浜に住んでいたこともわかっています。

しかし、その経歴の詳細はよくわかりませんでした。


ところが、大高よし男や近江二郎の足跡を辿るべく、例によって都新聞を確認していたところ、思いがけず彼女の名前に出くわすこととなったのです。

川上好子は昭和15年3月、近江二郎一座が横浜敷島座に来演した時に、この一座に参加していて、翌16年に再来演した際にも共演しています。

近江二郎はどうやら昭和15年1月から籠寅演芸部に所属したようで、川上好子も同じ頃に籠寅専属となったようです。前年の昭和14年に初代大江美智子が急死していますから、保良浅之助としては剣劇・女剣劇のブームが萎まぬよう、さまざまな役者と専属契約を結んで、層を厚く補強したということなのかもしれません。

1940(昭和15)年3月11日付都新聞より

この記事によれば、川上好子は

「最近籠寅専属になつて賣出した」

役者で

「川上貞奴創設の川上児童劇園の出身」

とあります。

川上児童劇園とは、正確には「川上児童楽劇園」といい(劇「団」ではない)、川上貞奴が1924(大正13)年に創設した、児童を対象とする一種の俳優学校。5歳から15〜6歳の児童が全寮制の「園」で演技や音楽などさまざまな科目を学ぶ場で、当初は青山に、翌年には二子玉川に移転して、昭和7年まで継続したのだそうです。


都新聞の記事が正しければ、川上好子はこの学校(楽劇園)で俳優への第一歩を踏み出したということになります。

川上児童楽劇園については、よく調べていないので、それ以上の詳細がよくわからないほか、川上好子がどういう経緯で入園し、どういう活動をしていたのかなどもさっぱりわかりません。

前々回の投稿で引用しましたが、1941(昭和16)年4月、横浜在住の俳優として好子が新聞で紹介された時には「27歳」と書かれていますから、計算すると1914(大正3)年頃の生まれで、川上児童楽劇園が創設された時期には10歳前後。閉園時の昭和7年だと18歳になりますから、昭和のごく初期ならば年齢的に入園資格を満たすことになります。。

昭和10年の復興博の女神コンテストに参加した時にはすでに日吉劇のメンバーでしたから、昭和初期、川上児童楽劇園を卒園したのちに、何らかの経緯で日吉良太郎一座に参加したと考えられます。


都新聞の記事には、川上音二郎の俳優学校を出た近江二郎が、川上好子の経歴を知って「同窓の友だ」と周囲に吹聴したとあります。

大正時代、喜楽座で新派の気鋭の俳優として人気を博していた近江二郎でしたが、その後は新派というよりは剣劇役者のようにみられたり、アメリカ巡業で話題となりつつも、グロテスク劇場以降はあまり注目もされず、役者としての出自たる新派のメインストリームからも外れていたことを思うと、音二郎と貞奴の違いはあれ、同じ川上の薫陶を受けた川上好子との出会いは、彼にとっても心強いものがあったのかもしれません(近江二郎の新派への思いは→こちら)。


もっとも記事はゴシップネタですから、

「同じ川上畑でも近江は明治、好子は昭和の育ち 間に大正といふ年代のあつたのを計算に入れてゐないあたり、いゝ気なもの」

と、結んでいるあたり、近江二郎の思いはいささか空回り気味だったのかもしれませんが。

とはいえ、両名ともに実力は折り紙付きで、のちに近江二郎は不二洋子一座に、川上好子も酒井淳之助や青柳龍太郎らの一座に参加するなど、横浜敷島座を足がかりに、籠寅の大衆演劇・剣劇戦略の中で、活躍の場をさらに広げていくことになります。

それはのちに伏見澄子一座や松園桃子一座に参加する大高よし男も同じで、近江二郎・川上好子らと同じ籠寅の系譜にいたことは、この点からも間違いなさそうです。


これまで調べた中では、戦後、川上好子の名前を見ることはなくなります。動向はよくわかりません。住所は長者町で、横浜大空襲があったことを思うと、悲劇的な事象が起こっていたのかもしれませんし、単に引退したということなのかもしれません。

川上児童楽劇園のことも含め、もう少し深掘りして調べてみる必要がありそうです。


そんなこんなで、今回は川上好子の経歴についてのお話でした。

次回も周辺情報についての報告になりそうです。



→つづく
(次回は4/10更新予定)

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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(131) 近江一座の消息と大高義男

大高よし男の足跡は、1940(昭和15)年3月に横浜伊勢佐木町・敷島座の近江二郎一座に参加したという新聞記事が一番古い記録です。

それ以前のことがよくわからないので、彼がいつ近江二郎一座に参加したのかが、解明の鍵になるだろうというのは、かねてから繰り返し考えてきたことです。

それを探るべくさまざまな資料を調べてきましたが、これがなかなか判明しない(無念)。


ということで、これまでの調査に見落としがないかと、最近はずっと都新聞の1939(昭和14)年の演芸欄を細かく調べて、横浜に来る前の近江二郎の消息を探ってきました。

しかしながら、芸界往来の欄にも彼の名前が出ることはなく、他の欄にもまったく記載がないことから途方に暮れるばかり。4月いっぱいまでを調べたところで目も腰も限界に達し、痺れを切らして、横浜に来演した昭和15年春まで一足とびにスキップしてみたところ、ゴシップ欄(?)にようやくこんな記事を見つけたのです。

1940(昭和15)年2月27日付都新聞より

記事に曰く

"新派の古強者近江二郎、アメリカあたりを巡演してゐたところまでは判つてゐたが、其後どこにどうしてゐるのかと思つたら、此程■然と姿を現し此三月には横濱出演が決定"

これを読むと、どうやら新聞社の方でも、近江二郎という名前は昭和初期の活動(おそらく「グロテスク劇場」あたりまで)のあとは、あまり耳にしていなかったようで(どこにどうしてゐるのかと思つたら)、なるほど、記事に名前が出ないのもそういう事情なのかと腑に落ちました。この時期(昭和10年代前半)、近江二郎一座は京浜地区や京阪地区の主要な劇場では活動していなかったのだろうと想像されます。

もっとも『近代歌舞伎年表』を参照すると、昭和10年代の初め頃(昭和13年まで)は年に1〜2度のペースで名古屋の劇場(宝生座など)には出演していたようなので、名古屋を拠点として旅公演をしていたとも考えられます。

いずれにしても、昭和15年春、敷島座への出演(つまりは籠寅演芸部への所属)で、近江二郎はふたたび脚光を浴びるようになったようなのです。

ですから、おそらくこの少し前にあったであろう、大高よし男と近江二郎の出会いは、全国紙や首都圏の新聞からは判明しない可能性が高く、京浜、京阪、中京以外のエリアの新聞や資料を探索するしかないのかもしれません(しかしどの地域を探せばいいのだろう…)。

上掲の記事はこう続きます。

"喜んだのは松竹大船にゐる近江門下の面々、師匠更生の祝いに引幕、幟などを注文したが、これは国策に反するとあつて禁じられてゐることが判り(以下略)"

この記述から、どうやら近江二郎の弟子にあたる役者が松竹大船撮影所に複数名いたことがわかります。具体的な名前が上がっていないので詳細は不明ですが、戦後を見ても渥美清や平参平など、近江二郎一座に所属していた役者は多く、若手俳優育成の場として近江一座が重要な機能を果たしていた側面も垣間見られます。そんな中に大高よし男もいたということなのでしょう。

余談。

一般的に戦後、実演劇場がなくなっていったのは映画のせいだと言われています。実際、そういう面もあったかとは思いますが、杉田劇場や銀星座の推移を見ていると、時間経過とともに剣劇・新派などの大衆演劇が消えていき、最後は歌舞伎が残って、事実上、歌舞伎(小芝居)の小屋になっていく傾向があります。

このことからすると、少なくとも周縁部の劇場では、実演全般というより大衆演劇が映画に取って代わったというのが正確なような気がします。剣劇は時代劇、新派はメロドラマ(?)などとして映画化されることで、それぞれのジャンルの実演のニーズが低下したように思うのです。

もちろん、歌舞伎の演目も映画化されていますが、たとえば映画の『忠臣蔵』と『仮名手本忠臣蔵』を同じものというのはちょっと難しいところで(すべての忠臣蔵を比較したわけではないので私的な仮説ですが)、それが実演の歌舞伎の独自性と人気を保っていたのかもしれません。

ですから、映画隆盛と実演衰退の関係は「映画の隆盛にともなって、剣劇や新派といった大衆演劇が取り扱っていた題材(作品)が映画に採用されるようになり、結果として実演のニーズが低下した」という理解の方が実態に近いような気がします。

そう考えると、近江一座出身の映画俳優が多くいたというのも、どことなく腑に落ちるところです(近江二郎自身は日本の映画には出ることなく亡くなっていますから、皮肉でもあり残念でもありますが、逆に最後まで舞台人であったというのは、彼にとって幸せだったのかもしれません)。

閑話休題。

そんなこんなで、大高と近江一座の関わりについては(まだ具体的な事実関係は不明ながら)、得意の妄想を駆使すればかなり高い確度でこんな推移が考えられそうです。

昭和10年代前半
いずれかの地方で近江一座に大高よし男(前名・高杉弥太郎)が参加(推測)
昭和15年3月
近江一座のメンバーとして横浜敷島座に登場(おそらく近江と同時に籠寅所属)
昭和16年1月
横浜敷島座に再来演 その後、近江一座から離れて松園桃子一座、伏見澄子一座に参加
昭和17〜18年
大高よし男に改名。海江田譲二・中野かほるらの8協団や伏見澄子一座に参加 
※その後の消息不明(出征か?) 
昭和21年1月
杉田劇場に出演した近江一座を(復員後の?)大高が訪ねる(推測)
昭和21年2月
近江二郎の口ききで大高よし男が杉田劇場の専属劇団座長となる(推測)


結果的に、まだ何もわかっていないのと同じではありますが、名前以外の何もわからなかった当初からすればかなり前進してきたと、少しだけ自画自賛したいところです。 


なお、大高よし男についても、都新聞を再調査している中で、やっとひとつ以下の記事が見つかりました。

1942(昭和17)年1月30日付都新聞より

この事実は、すでに横浜の新聞で確認していますが、都新聞でもはっきりと「高杉彌太郎改め大高義男」と書かれていて、改名の事実が再確認できたわけです(おそらく昭和17年1月興行から大高義男またはよし男に改名)

とはいえ、そもそもがどちらも同じ興行(敷島座の伏見澄子一座)に関する記事で、情報源が同じだった可能性もあるので、これをもって即座に真実と断定するのも拙速ですが、二紙に記述があるのは頼もしい話で、ひとまず「大高よし男の前名は高杉彌太郎である」ということを確度の高い前提として、今後も調査・検証を続けていきたいと思います。


そんなこんなで、今回も新発見というほどのものはありませんでしたが、近江二郎一座の消息と大高よし男について浅く検証してみました。

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(130) 横浜在住の俳優たち(2)

前回投稿したように、横浜在住の俳優を紹介する連載は、初回に続いて4月25日に第二回が掲載されます。

1941(昭和16)年4月25日付神奈川県新聞より

ここでは主に長老俳優たる「岡田梅男」と「市川新昇」が詳細に紹介されています。

それによると岡田梅男は明治元年生まれ。最初は三遊亭梅枝という落語家で、壮士芝居に転向して山口定雄一座に入座して岡田梅男を名乗るようになったそうです。その後、喜楽座に移って曾我廼家祐経を名乗ったが、また新派に戻ったとのこと。連載を書いた小林勝之丞は

「昨冬、六角橋の六角館で岡田の舞台を久しぶりに見たが是が七十余歳の老人とは少しも思えず胸の透く芸風であったことを喜んだ」

と書いています。

もう一人紹介されているのが「市川新昇」。字が不鮮明でよくわからないのですがおそらく「新昇」。住所などから前回の一覧にあった「市川新升」と同一人物と思われます(どちらの字が正しいのかは不明)。

この人は、この当時、主に祭礼の余興に出ていて、保土ヶ谷の海老塚萬吉を太夫元とするグループに属していたそうです。前回も引用した通り、市川新蔵の門弟で、この記事によると、若い頃は「檜舞台を踏んだ」とありますので、かつて歌舞伎に出ていたということなのでしょう。

またこの人は「下駄新」と呼ばれていたそうで、その理由はかつて伊勢佐木町一丁目の勧工場(今でいうデパート)で下駄店をやっていたからだそう。伊勢佐木町の勧工場は記事中に「今の森永キャンデー」とカッコ書きされているように、伊勢佐木町の入口にありました。


横浜の役者は必ずしも全国的な知名度があったわけではないようですが、だからこそでしょうか、その人生の変遷が面白くエピソードに飽きることはありません。


この回には他の役者紹介はありませんでしたが、翌日、4月26日の第三回には、初回の続きとして横浜在住の役者が紹介されているので、ここに引用しておきます。

1941(昭和16)年4月26日付神奈川県新聞より

※以後の各連載は、リストアップされた役者から何人かをピックアップしてエピソードを詳述する形になりますが、長くなるのでそれはまたいずれ書くとして、ひとまず役者の一覧を引用列記していきたいと思います。


岡田梅男
本名同じ/七十四歳/中区日枝町/故山口定雄門下、近郊巡業を主としている

小金井秀夫
本名:中澤忠三/三十七歳/中区日枝町/目下浅草大都劇場実演

水之江城子
本名:和田城子/十三歳/中区清水ヶ丘/故高田■の長女/近郊巡業
※「高田■」が判読できませんでしたが、都新聞によれば、敷島座座付の頭取で、城子はその娘だそう。剣劇の酒井淳之助が不憫に思って子役として重用していたとのことです(1940(昭和15)年3月1日付演芸欄より)。

川上好子
本名:今津コウ/二十七歳/中区長者町/籠寅演芸部専属
※この人については以前も紹介しましたが、元日吉劇のメンバーで復興博の女神で3位になっています。

曾我廼家明石
四十五歳/中区山王町/祭礼余興、演劇に出演。平素は紙芝居屋

五月信夫
四十歳/中区日枝町/女形。近県巡業

静■繁
中区若葉町/近郊回り。岡田梅男門下

嵐傳五郎
六十五歳/中区黄金町、髪結音羽屋方/尾上多美右衛門の父。立師。現在は地方回り

嵐ひろ子
十歳/右の(注:上の)傳五郎の孫

市川コズエ
本名:平尾/十二歳/中区末吉町/市川蔦之助の娘

橋本梅蔵
本名:橋本久次郎/七十一歳/中区蓬莱町/嵐璃■門下。頭取として地方巡業


続く4月28日の第五回には引退した役者がリストアップされています。

1941(昭和16)年4月28日付神奈川県新聞より


中島三甫右衛門
本名:鈴木新助/四十一歳/かつては東宝劇団俳優。今は東京日本橋、山初玩具店重役/中区本牧三之谷

佐藤幾之助
本名:佐藤彌七/六十四歳/中区曙町/麻雀三徳の主人/山口定雄系の新俳優にして明治四十二年二代目幾之助襲名

佐藤新十郎
七十歳/新俳優なりしが今は某芸妓見番に勤務。若き頃は酔うと大言壮語して東北弁を発揮。自分の名を、スンズロウと発言して有名なり

荒井信夫
六十七歳/中区弘明寺町/川上座の古い座員にて水野好美に師事し、横浜では喜楽座々付たりし

尾上梅代
本名:榎本あい子/中区弘明寺町/常磐津語りとして寄席出演したのが明治三十年代。のちに女役者として三崎座に所属。帝劇女優第一期生に振付。のちに喜楽座に来り。現在頗る不遇。

三島啓介
本名:酒井茂作/五十九歳/福島県生まれ/喜楽座にてお馴染みの三枚目役者。今は神奈川県衛生課嘱託として学校、公会堂にて巡回講話/中区西戸部町

松井幾人
本名:立野幾三郎/五十七歳/扇町の商家に生れ明治四十年松尾次郎門下となる。一度も師匠を変えず大正十四年六月、松尾が廃業とともにいさぎよく舞台を退き、現在は保土ヶ谷町、某神社出仕神官

松岡壽美子
二十六歳/右の(注:上の)松井幾人長女/日吉良太郎一座の花形女優。一昨年(注:昭和14年)廃業。現在は横須賀に在り

中川清
六十三歳/中区本牧三之谷/新派劇の敵役として横浜座時代に人気あり。のちに横浜常設館弁士。現在は伊勢佐木興行組合消毒主任

青木俊二
五十五歳/横浜座主、轟由次郎に愛せられ、女形。女中役を得意。現在は藤棚富士館事務員

池田富雄
東京の寄席回り、埼玉県回りの新俳優、のちに横浜へ出演/六十五歳/現在は中区日本橋、某芸妓屋に納まる

市川三之助
本名:加藤三吉/六十七歳/賑座の時代に市川宗三郎に師事。のちに頭取として三十年続く

佐上善行
本名:小林文太郎/四十二歳/中区西中町/須磨健次門下。日吉良太郎一座に加わり、昭和十三年廃業。現在はワイシャツ製造業

澤村清枝
本名:長谷川/清之助門下。子役清子の実父/中区浦舟町/シンガーミシン会社員から俳優となり、現在は中区花咲町、掃部山見番勤務


ついで5月4日の第六回では、主に大衆演劇の役者と現役を引退した役者を紹介しています(最終回、第七回にも引退役者の追記があります)。

1941(昭和16)年5月4日付神奈川県新聞より


大江美智子
本名:細谷八重子/二十二歳/中区南太田町に自宅あり/先代大江が横浜歌舞伎座に昭和九年春、出演の時入門。大川美恵子と名乗り、師急死するや昭和十四年八月新橋演舞場にて二代目襲名。籠寅専属

吾妻千恵子
十九歳/大江美智子の実妹。有望の花形

大江美媚子
本名:浪川みさを/二十三歳/神奈川区青木通/目下福島県を巡業。大江美智子に紛らわしき美媚子を名乗る。前名立花淳子と称し心臓の強さに於いてはハマ随一

星十郎
二十五歳/前名美崎重郎/甲府の生まれ/十七歳の時日吉良太郎一座に初舞台。昨年より古川ロッパ一座に入り二枚目役を勤む/中区野毛町

関谷妙子
本名:馬場妙子/二十歳/中区千歳町/三吉小学校卒業後、日吉良太郎の門に入り、昨年より志賀廼家淡海一座に加入。五月一日より浅草萬盛座に出演

近江二郎
本名:笠川二郎/五十歳/中区井土ヶ谷町に自宅あり/川上音二郎の門より出て大正九年横浜に初出演。のちに座長となり現在は籠寅専属。五月一日より名古屋宝生座出演
※全国を巡業していた近江二郎ですが、実父が井土ヶ谷で養鶏業を営んでいたこともあり、井土ヶ谷に自宅があったようです。前年に敷島座に来演して以来、好劇家の間では横浜在住の役者という認識になっていたのでしょう。

深山百合子
四十三歳/近江の夫人/以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる芸妓なり
※深山百合子の本名は笠川ヒデ(秀子)で、近江二郎は笠川家に婿養子に入る形だったようです。そのせいか、南太田の常照寺にある近江家の墓の墓誌に二郎の名はなく、二郎の遺骨は笠川家の墓所に納められたものと思われます。

衣川素子
十一歳/近江の娘。子役
※近江二郎と深山百合子には子がなかったので、二郎のいとこの子である「元子」を養女にして子役として舞台に立たせたそうです。元子さんは旅まわりの役者稼業が嫌で、のちに養子縁組を解消し、二郎の甥(妹・孝子の子)にあたる邦夫さんと結婚します。平成十二年に七十歳で亡くなり、今も常照寺の近江家の墓所に眠っています。

藤原かつみ
本名:小林ひろ子/中区中村町/二十二歳/巴玲子門下。目下は北海道を農民劇にて巡業中

伊藤三千三
本名:稲垣(?)音二/中区間門町/四十二歳/故山崎長之輔夫人の実弟。剣劇の人気者。現在は賀川清、英栄子とともにアメリカに在り

伊藤登
本名:伊藤重郎/中区弘明寺町/日吉良太郎一座の喜劇俳優として活躍せるが廃業して、中区通町鶴巻橋際にトンカツ屋開業

竹田玉子
本名も同じ/二十一歳/中区山田町/子役の時より芸達者の評あり。のちに日吉劇へ入り大いに認められしが、現在は東京よし町にて左褄をとる身なり

勝川三次
本名:加藤実/三十歳/中区宿町/武田正憲門下/新劇俳優として名ありしが廃業。伊勢佐木町日活館前の山田貴金属店が姉の家なれば同店員となる

戸田史郎
本名:笠川四郎(注:誤り。正しくは近江資朗)/四十五歳/中区井土ヶ谷町/近江洋服店主人。近江二郎の実弟なり
※この記事では引退したことになっているようですが、戦後の銀星座にも出演しているので引退というわけではなさそうです。役者と並行してやっていた仕事は、洋服店というよりシャツ・ブラウスの縫製業が正しく、戦後もその仕事を続けていましたが、昭和30年代に井土ヶ谷の家が火災になり、磯子区中原(杉田の隣町)に転居します。

尾上羽多丸
祖父は梅幸門人にて羽多蔵。兄は故羽多之助。現在は中区二葉町にて酒井三味線店営業

松本米世
女優をやめて中区高根町に舞踏指南をしている

青柳早苗
本名:梅原イト/中区伊勢町/はじめは朝日座専属なりしが震災直後、故市川荒二郎夫人になり、丹羽イトを名乗り女優廃業。現在はある宗旨の行者として起つ

三井一枝
本名:■井一枝/中区日ノ出町/松尾次郎門下の女優。のちに■井タクシーを営業。今は会社員の妻

久松勝代
同じく松尾次郎門下の女優、娘形なり/中区曙町/酒の家勝花を開き、今は若葉町角にコーヒー店を開業


そんなこんなで、今回も前回に引き続き、戦前の新聞を引用する形で、当時、横浜に住んでいた役者たちを紹介しました。役者の人生の紆余曲折はとても面白いエピソードに溢れています。頃合いを見て、今後も何人か紹介できればと思います。


次回は大高よし男の周辺について、調査の成果をほんの少し。


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(129) 横浜在住の俳優たち(1)

これまで調べた限り、大高よし男が(前名の高杉彌太郎として)近江二郎一座に参加する形で横浜の劇場(敷島座)に初登場したのは、1940(昭和15)年3月です。翌年、1941(昭和16)年1月にも近江二郎一座とともに来演し、同年9月からは松園桃子一座に参加する形で、横浜の舞台に立っています。

その後は、京都や浅草などで活躍することになるわけで、不二洋子や伏見澄子といった女剣劇の役者たちと同様、横浜を試金石として、その人気を背景に全国区に飛躍するというキャリアアップの流れが大高にもあったのかもしれません。


さて、この時期(昭和16年春)、神奈川県新聞(神奈川新聞)紙上で横浜在住の俳優たちを紹介する面白い特集記事が連載されます(全6回)。

横浜の舞台に立つ人ではなく、横浜に住んでいる役者たちを紹介するというもので「横濱演劇懇話會調」とありますから、当時、さかんに劇評などを書いていた小林勝之丞らの一派によるもののようです。

1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より

この連載からは、これまでにも部分的に何度か引用してきましたが、情報の整理と後学のために、ここで記事に挙げられた役者をまとめて引用しておきたいと思います。


連載は上掲の通り、昭和16年4月23日が初回で「横濱に住む俳優群を語る」というタイトルでした。第2回は4月25日で「ハマの長老俳優を描く」と題して、岡田梅男と市川新昇(?)を紹介しています。第3回が翌26日で「埋もれる俳優の妙技」として、昔の俳優技術を回顧する内容に、付録として「第1回」の横浜在住の役者紹介の続きが掲載されています。

どういうわけか第4回が飛んでいて、4月28日に第5回「有為轉變の横濱在住俳優」として、主に引退した役者を紹介。第6回は5月4日「脚光を浴びる人 舞臺を退いた人」、最終回が5月12日で「過ぎにし笑話 松井幾人初舞臺」。それぞれの回に付録めいた形で役者紹介が掲載されていて、歌舞伎(小芝居)だけではなく、大衆演劇の方も取り上げられているので、横浜の演劇史や俳優の経歴を知る上で貴重な資料と言えそうです。


というわけで、今回はひとまず初回に挙げられている役者を引用列記したいと思います。記事中の住所には番地も書かれていましたが、いまなお存続しているものもありますので、その部分は削除して紹介します。


市川團之助
本名:羽田久太郎/六十七歳/中区榎町/吉右衛門一座に所属
※中区榎町は現在では南区になっていて、市営地下鉄蒔田駅の近くです

市川升紅
本名:岡村榮一/二十六歳/中区西中町/松竹國民移動劇團
※中区西中町も現在は南区で、京急黄金町駅のそば

石原美津男
本名:石原光世/三十三歳/中区曙町/桜木翠香門下の女形。主に市内出演。目下は伊豆巡業

市川新升
六十七歳/中区通町/故新蔵門下。祭禮等に出演。
※通町はいまは南区。井土ヶ谷と弘明寺の中間あたり

市川荒右衛門
本名:岩崎近弘/中区西前町/六十五歳/故荒二郎門下。義士劇の座頭。太夫元。
※西前町は現在は西区

市川茂々市
七十歳/中区睦町/故市川團蔵門下。主に舞踊温習會の講師。振付。
※睦町も現在、南区

市川三蔵
本名:芋川貞男/四十歳/中区榎町/三升門下
※榎町は南区で、最初に挙げた市川団之助の近くに住んでいたよう

大谷門二郎
本名:椎名豊吉/三十五歳/中区三春台/友右衛門と同じ行動
※以前も何度か言及しましたが、後に「友吉」→「友十郎」となる役者で、更生劇の主要メンバー

澤村清之助
本名:鈴木虎太郎/五十八歳/中区花咲町/時々巡業に出づ
※清之助についても以前何度か言及しましたが、更生劇の主要メンバーです

市川莚蔦
本名:近藤/五十二歳/中区中村町/主として巡業
※中村町も現在は南区

澤村訥美太郎
五十二歳/神奈川区子安大口/近県のみ巡業

中村芝梅
故雀右衛門の弟子/中区末吉町/主として巡業

市川島蔵
莚升門下
※記事には「右に同じ」とあって「中村芝梅」と同じ、ということのようです

市川蔦之助
本名:平尾/中区末吉町/日吉劇の歌舞伎劇振付
※更生劇のメンバー

市川荒子
筑紫奈美子とも称す/三十五歳/中区末吉町/故荒二郎門下。主に近県巡業。

市川筆之助
本名:長谷川/中区曙町/三河家一門。近県巡業
※更生劇のメンバー

佐久良實
中区前里町/近県巡業、女形にて座長。
※前里町は現在南区

澤村訥紀十郎
六十五歳/上州の人/中区浅間町/巡業
※浅間町はいまは西区

静川君之助
二十八歳/九州熊本出身/中区浅間町/巡業
※同上

林重四郎
本名:林重男/早大文科中退/四十一歳/中区長者町/近県巡業

北島晋也
本名:小林/三十五歳/中区永楽町/故関三十郎門下、巡業
※永楽町も現在は南区

牧野映二
本名:木村基/三十一歳/中区白妙町/森野五郎門下、巡業
※白妙町も現在南区

生島波江
本名:小島キク/二十二歳/中区立野町/巡業を主とする
※日吉劇や大高一座(暁第一劇団)にも名前の出る人

藤代朝子
二十五歳/中区松影町/名古屋へ出張中、笑ひの王国出身


以上が初回に掲載された役者たちです。更生劇の関係者が多いのかな、という印象を受けます。取り上げる基準として、記事中に「横浜に家がある人で、横浜歌舞伎座(日吉劇所属)や敷島座(籠寅所属)ではない人」と注記されています。ただ、生島波江などは日吉劇のメンバーだった時期もあるので、この辺の基準は少し曖昧なようです。


多くの劇場が伊勢佐木町とその周辺にあったせいでしょうか、現在の南区に住んでいた人が多いように感じます。日吉良太郎や近江二郎も井土ヶ谷(南区)に住んでいたし、大江美智子(二代目)の家もまた井土ヶ谷からほど近い南区永田町にありました。

劇場にも近く、交通の便のいい場所として、現在の南区にあたるエリアには多くの芸能関係者が住んでいたのでしょうね。

ちなみに、全6回の連載に大高よし男の名前はまったく登場しません。前名の高杉彌太郎もありません。注目度も影響しているとは思いますし、実際、横浜に住んでいなかったのだとも思いますが、いずれにしても懇話会のメンバーからは「横浜在住の役者」として認識されていない人で、この当時、大高と横浜との縁はそれほど深くなかったと思われます。


そんなこんなで「調査報告」というにはかなり手抜きですが、今回は戦前の新聞からの引用で、当時、横浜に住んでいた役者たちを紹介しました。次回はこの続きの予定です。


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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(128) 神奈川県歌舞伎連盟とは?

よんどころない事情で、ひと月ほど図書館に足を運ぶことができなかったので、大高よし男の調査はまったく進んでおりません。ようやく時間がとれるようになってきて、来週あたりから調査再開の予定ですが、どうも頭がまだこっちの世界(?)に戻りきれていないようで、ちょっとしたリハビリ気分で投稿してみます。


というわけで、今回は年末までに収集していた資料から、1951(昭和26)年6月の三吉劇場における「神奈川県歌舞伎連盟結成第一回公演」について考えてみたいと思います。

この公演の広告が最初に出るのは同年5月30日で、「三吉劇場開場一週年記念特別大興行」とも銘打たれています。この連盟についてはかねてからしばしば引用している、小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』の「三吉演芸場」の項目にも言及がありますが、公演があったという記述だけですので、それ以上の詳しいことはわかりません。

そんなわけで、そもそも神奈川県歌舞伎連盟というものがどういうものかわからない上に、これがその後、どんな展開をしたのかも未調査ですから、現段階ではほぼ何もわかっていないと言ってもいい状態です。広告には「市川小太夫劇団」という文字が大きく記されているので、市川小太夫が呼びかけて結成されたように思われます。

広告に掲載されているメンバーは順に

市川小太夫
 
沢村清之助
沢村訥美太郎
市川栄舛
 
市川女猿
市川門三郎
 
森川順三
沢村十次郎
山﨑撫子
市川内弥
市川小鼻
中村芝寿
河部信乃
 
沢村清枝
市川紅昇
 
紫小春
鶴葉子
港君代
窪登美江

です。

1951(昭和26)年5月30日付神奈川新聞より

「歌舞伎連盟」でありながら、出演者に不二洋子一座の森川順三の名前があるなど、歌舞伎の枠をはみ出しているようにも感じます。一体、どういう団体だったのでしょうか。

歌舞伎役者に限れば、並んでいる名前はいずれも杉田劇場や銀星座でお馴染みの顔ぶれで、戦前の横浜歌舞伎座における「更生劇」の流れと、市川門三郎一座が合わさった合同一座のようにも見えます。杉田や弘明寺で続けられていたいくつかの一座を、戦後の時代に合わせて「連盟」という形で結集させ、横浜(神奈川)における歌舞伎の発展を期した、というようことなのでしょうか。


余談ですが、私が少しだけ関わってきた横浜のアマチュア演劇の世界では、1952年に横浜演劇研究所が設立され、同年(第二次)横浜演劇懇話会ができます。『神奈川県演劇連盟四〇年史』によれば、この懇話会は

「<横浜市教育委員会社会教育課>が推し進めていた市内文化団体の組織化の呼びかけに、市民演劇と職場演劇が賛同するという行政主導で結成された」

のだそうです。

横浜演劇懇話会はのちに「横浜アマチュア演劇連盟」となり(1967〜)、また1960年には全県組織としての「神奈川県演劇連盟」(県演連)が結成されます。これは横浜演劇研究所の加藤衛所長の呼びかけによる「県民劇場建設促進実行委員会」の動きとも連動していたと考えられます。「県民劇場建設促進実行委員会」は「県立青少年センター」の建設(1963)をもってその目的が達成されたとして解散しますが、県演連は存続し、その後、横浜アマチュア演劇連盟と神奈川県演劇連盟が両輪となって、現在に至るまで横浜・神奈川の市民演劇(アマチュア演劇)の発展に寄与してきたわけです(のちに「横浜アマチュア演劇連盟」は「横浜・演劇の会」と名称を変え、現在はほぼ活動休止状態のようですが)

「神奈川県歌舞伎連盟」に同じような背景があったのかどうかはよくわかりません。文化団体の組織化といった流れの中で、(行政の指導の有無は不明ながら)歌舞伎界もまたその時流に乗ろうと考えたのかもしれません。

以前、市川雀之助についての投稿で、彼が「神奈川県実演興行組合」の副組合長を務めていたことと、その組合が1951(昭和26)年にできたことを紹介しました(まさに歌舞伎連盟の結成と同じ年)。この時期、市民演劇・職場演劇・歌舞伎・大衆演劇のいずれもが戦後の激動の中で、劇団単体ではなく連盟や組合を結成して、時代の変化に対応しようとしていたようにも見えます(行政の関わりの濃淡はまた別の課題として、別途調査が必要な事柄と感じています)


閑話休題。


さて、華々しく宣伝していた「神奈川県歌舞伎連盟」の結成公演ではありますが、興行初日の6月1日、新聞紙上に弘明寺銀星座のこんな広告が登場するのです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

「東京名題大歌舞伎公演 市川栄舛大一座」と銘打たれたこの公演の出演者の中には、なんと

市川栄舛
市川女猿
沢村清枝

の「連盟」の公演に名を連ねていた3人がいるばかりか(尾上大助の名前もある)、

「他の劇場に出演は致しません」

とはっきり書かれてもいるのです。具体的な劇場名は記されていませんが、明らかにこれは彼らが三吉劇場の「連盟」の公演には出ないという強い注意喚起(または意思表示)です。

一体何があったのでしょうか。

単にブッキングの行き違いなのか、そもそも連盟結成の方針にまつわる意見の違いなのか。いずれにしても何かがあったことは間違いなさそうです。


結果、「連盟」の公演の顔ぶれから、上記3名の名前は消え

市川小太夫

沢村清之助
市川猿十郎
中村喜昇
市川秀猿

市川門三郎

市川紅昇
市川立十郎
市川八左衛門
市川桔梗
市川小昇

紫小春
鶴葉子
港春代
坂東寿美子
窪登美子

となって、予定通り、6月1日に幕を開けたようです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

(同じ日の広告ですから、かなり混乱します)

そのほかの大きな変化として、森川順三の名前が消えて、中村喜昇らの名前が登場し、二の替りの最初の演目が「女河内山」から「朧河岸」に変更されています。もしかしたら剣劇を嫌ったのかもしれませんし、森川順三と歌舞伎役者たちの間に何かあったようにも思えますが、これもまた詳しいことはわかりません。


市川小太夫は昭和12年から昭和21年まで「厚生劇団」を主宰していたほか、それ以前には新国劇に客演したり、映画に出たり、関西で大衆劇の劇団(新興座)を立ち上げ、探偵劇などで全国を巡演して人気があったそうですから、そもそもが歌舞伎にとどまらず、ジャンルを越境する人だったようですし、その越境を好んでいたようにも感じます。

そう思うと、新しいものを受け入れる(と思われがちな)土地柄の横浜で、境界を取り払ってさまざまなジャンルを統合し、歌舞伎界(演劇界)に新風を巻き起こそうという目論見で結成されたのが「神奈川県歌舞伎連盟」だったのかもしれません。

そんなこんなで、今回はよくわからないまま「神奈川県歌舞伎連盟」について考えてみました。いまのところ、これ以上の情報がないので、どなたか詳細をご存知の方がいましたら教えてください。


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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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(127) ひばりはアテネの舞台に立ったのか・2

ひばりプロの公式プロフィール、「1945年9月 父、増吉が復員。"ミソラ楽団"を結成」の欄に小さな写真が載っています(→こちら

大きく「美空楽団」のロゴが描かれた背景幕の前に立つ楽団員との集合写真です。ここには「歳末慰安会」の文字があることから、時期が年末だとわかります。また背格好や服装、楽団の編成からして、昭和20年の年末(12月)ではないかと思われます(参考までに昭和21年11月の「オール横浜総合芸能コンクール」も出演した際の写真が→こちら/美空楽団の編成については→こちら

これをアテネ劇場の舞台とする説もあるようですが、昭和20年の年末にアテネ劇場は存在しません。また杉田劇場もまだ開場していません。

つまり、この写真は杉田でもアテネでもない、もうひとつの劇場の写真で、これこそが美空ひばりの本当の舞台デビューではないかと考えているのです。

写真を見て気づくのは、このステージはかなりタッパ(高さ)があるということです。幕の吊り位置も勘案すると、舞台の額縁はさらに上部まで続いているだろうと思います。仮に中央の男性の身長を160cmくらいとすると、その倍、3メートル以上はあるはずです。

旧杉田劇場の写真と比べてみても、タッパの差は歴然です。

旧杉田劇場舞台(現杉田劇場所蔵)

バランスからするともっと間口があるようにも思えますが、これと同じ写真は自伝『虹の唄』にも掲載されていて、そこには下手側に「めくり」が写っていることから、おそらくそれほどの間口ではなく、やはり相対的に高さのある会場だと考えてよさそうです。

いささか短絡的かもしれませんが、この当時の、タッパがある建物として、真っ先に思いつくのが「銭湯」です。つまり、この写真に写っているのは、銭湯の浴槽をステージにしたという上大岡の「大見劇場」ではないか、というのが僕の見立てなのです。

大見劇場はもともと大見湯という銭湯で、終戦後、浴槽にフタをして、その上でさまざまな演芸をやっていたそうです。その演者の中には幼き日の美空ひばりもいたそうで、その経緯は大見湯を開業した上大岡の有名な旧家である北見家のウェブサイトに書かれています(「水車屋」ウェブサイトより「先祖の事業」/大見湯写真)。

それによると、大正後期に開業したという大見湯は

"終戦直後の昭和20年当時、銭湯は燃料がなく営業できずにいた様で、8才の少女だった美空ひばり(当時は美空和枝)がこの銭湯で歌ったと云うエピソードがありました(中略)小さな美空和枝は浴槽のフタを舞台替わりにして歌ったそうです。その盛況ぶりもあり劇場に改装された"

とのこと。

美空ひばりが「浴槽のフタ」の上で歌った時期と、「劇場に改装された」時期がいずれも明確ではないので、判断に迷うところですが、父、増吉さんの復員が8月末か9月で、公式プロフィールにある舞台写真は年末と思われますから、その間に銭湯が劇場に改装されていたのだとしたら、美空ひばりの舞台デビューは新しい定説の「杉田劇場」ではなく「大見劇場」ということになります。

ひばりと楽団は昭和21年3月か4月には杉田劇場へ出演することになるので、「その盛況ぶりもあり劇場に改装された」というのは、それより前の話という気がします(杉田劇場に出演した3ヶ月間は上大岡には出られないと思うので、その時期の改装ではないでしょう)。ちなみに「大見劇場」の新聞広告はいまのところ3つ見つかっていて、いずれも昭和21年6月以降のものです。

そうした事実からすると、大見湯は少なくとも昭和21年2月までには劇場に改装されていたと考えられそうです。

つまり

昭和20年9月頃 美空楽団結成
昭和20年秋 大見湯のフタの上で唄う(盛況)
昭和20年晩秋 ひばりの人気を受けて劇場に改装(大見劇場)
昭和20年暮 歳末慰安会に美空楽団出演

という時系列が一番しっくりくるように思えるのです(あくまでも推測です)。


さて、風間知彦著『実録ひばりファミリー』(双葉社, 1974)には、昭和23年に大見劇場を譲り受け、ふたたび銭湯に改装したという方へのインタビューが掲載されています。それによると

"あの当時の造りは、男湯と女湯のしきりも脱衣所のあいだのガラス戸もなかったんですよ。そして、湯殿から奥の元湯までが当時の舞台の奥行きだったんです。五メートルちょっとはありましたかね。幅は四間でした。そして湯船のフタが舞台ですが、当時のフタはヒバ材というのを使っていましてね、厚さ八センチメートルぐらいの一枚板(中略)洗い場と脱衣所にはゴザがしいてあって、その上に、小さな板でつくった長椅子が並んでいたんですよ。そこが客席だったわけですねえ" (179ページ)

と、劇場内部の様子がかなり詳細に書かれています。

どうやら、大見劇場は永続的な「劇場」として大改装したものではなく、男湯と女湯の仕切りや脱衣所のガラス戸を撤去した程度、舞台も浴槽のフタをそのまま使っていたわけですから、いわば仮設劇場に近い形だったようです。燃料事情がよくなればまた銭湯に戻すつもりだったのかもしれません(実際、そうなるのです)。

実は、同書でさらに興味深いのは、叔父・諏訪重忠氏へのインタビューです。曰く

"初舞台はねえ…たしか、上大岡の風呂屋だったと思いますよ。"大岡風呂"って名前だったと思うよ。いや、風呂屋を改造して"アテネ劇場"っていっていたのかな"(176ページ)

この話をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、美空楽団の一員だった重忠氏ですから、まったく無視できる話でもありません。特に上大岡の風呂屋(大見湯)を改装した劇場の名称を「アテネ劇場」と誤解している点は見逃せません。

この中で彼はその劇場のことをこう言っているのです。

"二百人は入れるその風呂屋劇場は、ひばりちゃんが出る日は超満員でしたね、その頃は、美空ひばりとはいわずに、"美空和枝"というのが芸名でしたね"(180ページ)

これは、前回の投稿で引用した自伝(『虹の唄』)の中で、アテネ劇場のことを

"当時はおフロ屋さんを改造した、客席二百ぐらいの小さな小屋です。"

としているのとピッタリ符合します。

※余談ですが『実録ひばりファミリー』には磯子町のアテネ劇場や杉田劇場への言及がまったくないというのも興味深いところです。


そもそも、生前に出版されたふたつの自伝については、没後に出た3冊目の自伝『川の流れのように』(集英社 ,1990)の序章「自伝」の序に、

"今までにも何冊か私に関する本は出版されたと思いますが、すべて母が相手の方と話し、そして、その方の主観が入って出来上がったものばかり"(9ページ)

と書かれており、これらはいずれも母・喜美枝さんが関係者(「相手の方」?)に話を聞いた内容を、自伝作家(ライター)がまとめたものと考えられそうです。

ですから、デビューについてのエピソードも、おそらく親族や関係者の証言にもとづくものでしょう。

仮にその中に重忠氏の話の内容が含まれていたとすると、彼は大見劇場の名称を誤って「アテネ劇場」と記憶していたようですから、それをライターがそのまま「デビューはアテネ劇場」と書いた可能性はあるし、逆に本来は大見劇場の客席数である「二百」がアテネ劇場の席数として記録されているのも腑に落ちます(実際のアテネ劇場は324席)。「アテネ劇場」という固有名詞から、後日調査をして「磯子の映画館」と加筆した可能性さえあるのではないかと思っています。

「アテネ劇場」という、実際に存在する映画館の名前が出てくると、どうしてもそれに振り回されがちになりますが、デビューをめぐる話については、全体のトーンとして「市場」「映画館」よりも「銭湯」「風呂屋」の方が色濃いように感じられるのです。

自伝のほかにも、以前書いたように、昭和23年6月にひばり自身が新聞のインタビューで

"南太田のお風呂屋で唄つたのが初舞台"

と語っています。南太田(みなみおおた)は、語感からしておそらく上大岡(かみおおおか)の間違いでしょう。南太田は空襲の被害がかなり大きかった地域で、終戦直後、大見湯のように演芸をやるような銭湯があったのかどうかは疑問です。

というわけで僕は、ひばりの関係者(親族)が上大岡の大見劇場のことを「アテネ劇場」と誤解していたために、それをもとにした自伝の記述が「デビューは風呂屋を改装した磯子のアテネ劇場」になってしまったのではないか、と考えているわけです(もちろん、アテネではないという確証はないので、仮説に過ぎませんが)。


もうひとつ。アテネ劇場を3日間借りて興行した際に、看板の名前をめぐって漫才師とトラブルになったという話も伝わっています。

"初日の朝、トリの漫才師がやって来て、「とても出られたもんじゃない」とプンプンおこって言うのだそうです。母は、狐につままれたようになって、それの理由を探しあぐねていましたが、やがてそのわけがわかりました。看板が美空和枝よりも字が小さい、ということなのです(中略)その方々はプロですし、こちらはまだしろうとなわけです。先方の言うことはもっともなことで、母たちはびっくりして、あわてて看板を書き直したそうです"(『ひばり自伝』42ページより)

が、これについても、いささかの疑問を感じているところです。

この事件はアテネ劇場で起こったこととされているので、時期は昭和21年9月です。しかし、それより半年も前、杉田劇場で実際の興行の現場に接してきた美空楽団のエピソードとしては、少し奇妙にも感じます。

杉田劇場には戦前から浅草興行界で仕事をしてきた鈴村義二がいました。大高よし男にしたところで、大衆演劇の第一線でキャリアを積んできた役者です。3ヶ月もの期間ですから、ひばり母娘が芸能界のしきたりを知る機会は十分にあったはずです。看板やポスターの記載についても、デリケートな事情があることは杉田で経験してきただろうと思います(実際、現存する2枚のポスターでも、美空楽団の表記内容や色(カラー化)などの変化がある)。

いくら売り出しのための単独興行とはいえ、杉田劇場の舞台を経た楽団がそんな初歩的なミスをするでしょうか。これが、大見劇場(大見湯)と思われる写真の年末興行や、その後、杉田劇場を訪れるまでの間の話ならば、わかるような気はします。

さらには、その『ひばり自伝』の中に書かれている

"わたしは扮装して三度笠で花道にでてくるのです"(41ページ)

"ここは普通は映画館ですが、申しこめば三日間とかそのくらいなら、色ものやそんなもので貸してくれるところだったようです"(41ページ)

の記述にも疑問を抱かざるを得ません。

そもそも映画館のアテネ劇場に花道があったとは思えないし(これは杉田劇場の話じゃないかと思う)、「そのくらいなら」「貸してくれるところだったようです」というのも、頼めば借りられそうだと誰かから聞いたような書きぶりで、開場したばかりのアテネ劇場についての言及としては、かなり違和感があります。

むしろ、自伝で「アテネ劇場」とされるエピソードは、大見劇場(ないし大見湯)や杉田劇場やその他の劇場での出来事をごちゃ混ぜにしてひとつにまとめたもの、と考えた方がしっくりきます(うがった見方をすれば、「大見」「杉田」よりも、古代ギリシャを想起させる「アテネ」の方が芸能的だし、スターのイメージにふさわしいと考えたのかもしれません)


ふたたび、『実録ひばりファミリー』に戻ると、諏訪重忠氏の話はさらに続きます。

"ひばりちゃんがはじめて浅草へ進出したときなんかは、義兄さん(註:増吉さん)が自分でカネを出して出演させたくらいですからね。ところが、"美空和枝"がいくらうまくっても、ひばりちゃんひとりじゃ客なんか呼べませんよ。そこで、色物を一組だけ呼びましてね。"好声会"という、セミプロ的な集団で、落語や漫才、浪曲などをやる人たちなんです。浅草の、なんという劇場でしたかねえ。とにかく、これが本物の劇場への初進出なんです"(180ページ)

”その後『寿美乃屋』という芸能社へ『美空楽団』が入って、"天才少女美空和枝と美空楽団"と銘打って、興行するようになったんです(中略)ほとんど毎日のように、あっちこっち、興行してまわりましたね。空地に建てた小屋だとか、海岸のよしず張りの舞台でしたけどね”(181ページ)

この話の時期がはっきりしませんが、四国・高知でバス事故に遭うよりは前の話のようなので、昭和21年から22年初め頃のことだと思います。

※この時期の浅草進出については、情報がないのではっきりしません。"好声会"や"寿美乃屋"のこともよくわかりません(どなたかわかる人がいたら教えてください)。

ここで語られている内容もまた、多くが生前の自伝と重なるのです。

例えば「義兄さんが自分でカネを出して出演させたくらい」は

"父はこの二日間の興行で「魚のもうけを一ぺんになくしちゃったよ」と苦笑していました"(『虹の唄』30ページ)

に通じますし、「ひばりちゃんひとりじゃ客なんか呼べませんよ」や「"好声会"という、セミプロ的な集団で、落語や漫才、浪曲などをやる人たち」は

"もちろん、楽団や私の名前などをご存じの方があるわけでもなく、春木つや子さん、叶家洋月さんという漫才や浪曲の方にも出て頂きました"(『虹の唄』29ページ)

とほぼ同じです(この記述からすると、看板の文字にクレームをつけたのは、漫才師の「叶家洋月・春木艶子」ということになるのでしょうか)。

※実は冒頭に紹介した「大見劇場」と思われる舞台写真で、ひばりの両サイドに立っている男女は件の漫才師ではないかとも思っています。ただ、衣装からして洋月・艶子とは違う気がします。

さらには、「"天才少女美空和枝と美空楽団"と銘打って」は、トラブルのもととなったとされる看板の文言

"スター美空楽団演奏会、豆歌手美空和枝出演"(『虹の唄』29ページ)

にかなり近い表現とも言えます。

これらのことからも、ふたつの「自伝」は、やはり客観的な裏付けに基づくものではなく、親族や関係者の曖昧な記憶に、さまざまな時期のさまざまな興行のエピソードを付け加え、それらをミックスして再構成された記述ではないかと考えられます。そしてこれを根拠に書かれた多くの書籍によって「美空ひばりのデビューは風呂屋を改装した磯子のアテネ劇場」という話が広まることになったような気がするのです。

前回投稿したアテネ劇場のスケジュールや、今回挙げた事柄を照合してみても、開場したばかりの磯子町の映画館「アテネ劇場」の舞台に美空和枝が立った、という話は、やはりかなり疑わしいものだ、というのが現時点での結論です(そもそもアテネ劇場に出た時期からして『虹の唄』では「年の暮」、『ひばり自伝』では「9月」とブレが見られます。大見劇場をアテネ劇場と誤解していたならば、『虹の唄』が「年の暮」と表記しているのは腑に落ちます)

さらに事実関係を調査するなど、もう少し慎重に検証を重ねた方がいいのでは、と思っているところなのです。


そんなこんなで、かなり妄想まじりに(しかも疑問符付きで)ひばりデビューについての時系列をまとめると

昭和20年9月頃 美空楽団結成(近所のお祭り屋台などで歌う)
昭和20年秋 上大岡・大見湯で歌う(評判になる)
昭和20年晩秋 大見湯、大見劇場に改装?
昭和20年12月 美空楽団、大見劇場で歳末慰安会に出演?(事実上の初舞台)
昭和21年1〜2月 浅草の劇場に出演?(この時漫才師とトラブルか)
昭和21年3月初旬 杉田劇場へ売り込み(幕間に出演)
昭和21年4〜6月 杉田劇場で大高一座等の幕間に出演
昭和21年夏〜 各地で興行か?(アテネには出ていない?)
昭和21年11月 オール横浜総合芸能コンクールに出演
昭和21年12月 NHKのど自慢大会予選に出演
昭和22年1月 弘明寺銀星座で自由劇団の幕間に出演
昭和22年春 井口静波・音丸夫妻に会い、巡業に出る
昭和22年4月 四国巡業の際、バス転落事故に遭う
昭和22年6月 戸部・復興会館に出演
昭和22年7月 辻堂・湘南映画劇場に出演
昭和22年夏〜 各地で興行か?
昭和22年10月 日劇小劇場「新風ショウ」に出演、芸名・美空ひばりとなる
昭和23年3〜6月 横浜国際劇場に出演

と、こんな感じでしょうか。

まだまだ不明の時期があるし、漫才師とのトラブルを浅草でのことと仮定している点も、その真偽や時期も確かめなければいけませんから、かなり妄想過多な仮説です(妄想に輪をかければ、浅草で「横浜の人なら杉田劇場に鈴村さんがいるから、そこを訪ねたらどうか」などのアドバイスをもらったのかもしれません)。

ともあれ、現段階ではこの時系列が比較的しっくりくるように感じています。

(あらためて並べてみて、戸部の横浜復興会館と辻堂の湘南映画での舞台は、四国で生死を分けるほどの大事故に遭ってからまもない頃なのだと気づきました。驚異的な回復力を感じます)


美空ひばりのデビューを探る調査は、大高ヨシヲを探すこのブログの趣旨からすると「スピンオフ」みたいなものではありますが、旧杉田劇場との関係も深いことから、デビュー期の年譜の空白を埋め、時系列を正確に並べ替えることは、今年の重点調査項目のひとつ、ということになりそうです。



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(126) ひばりはアテネの舞台に立ったのか・1

大高よし男の足跡がなかなか見つからないので、もはや神頼み(仏頼み)というわけでもないのですが、今年の初詣は、大高の葬儀写真が撮られた弘明寺観音へ行ってきました。


年末に放送されたアド街の影響があるのかないのかはわかりません。山門から商店街にかけて長い行列ができていて、賑やかな雰囲気の中での参詣となりました(予想よりは早く参拝できました)。

弘明寺には、旧杉田劇場に遅れること3ヶ月ほどで開場した銀星座がありました。近江二郎一座が柿落としを担い、大高一座も一度だけ一週間の興行を打ったとされているほか、幼き日の美空ひばりも、自由劇団の幕間という形になるのでしょうか、美空和枝の名前で舞台に立っています。

1947(昭和22)年1月14日付神奈川新聞より

杉田と弘明寺はともに市電の終点であり、京浜急行(当時はいわゆる「大東急」の湘南線)でも3駅しか離れていません(杉田=屏風浦=上大岡=弘明寺)。大きく見れば同じエリアで、賑やかな商店街がある点など、似た街でもあります。

横浜大空襲で中心部は焼け野原となり、戦後は米軍の接収で、劇場はもとより街の再建もままならぬ中、空襲の被害が少なかった郊外の杉田や弘明寺が戦後の娯楽の担い手となったということなのでしょう。

終戦からほどなく、ほぼ同じ時期に

杉田劇場(杉田)
銀星座(弘明寺)
アテネ劇場(磯子)
大見劇場(上大岡)

が相次いで開場しています。横浜国際劇場もマッカーサー劇場もまだない頃の話です。


さて、相変わらず大高の足跡についてはめぼしい進展がないので、今回は年末に提示した今年の重点調査項目から、またぞろ美空ひばりのデビューについての考察です。


ひばりのデビューについてはこれまでも何度か言及してきました。かなり前から定説とされていた「アテネ劇場デビュー説」が誤りで、近年は、昭和21年3月か4月に、杉田劇場の舞台に立ったのが実質的な初舞台である、というのが確定的な説となってきました。

それでもアテネ説が消えることはなく、杉田劇場に出演した後、同年9月にアテネ劇場を3日間借りて昼夜2公演、舞台に立ったという修正型で残されています。

しかし(昨年の「いそご文化資源発掘隊」の講座でも少しお話ししましたが)、ややこしい性格の僕には、9月アテネ説というのがどうにも腑に落ちないのです。そもそも、アテネ説は(今のところ)すべて関係者の証言に基づくもので、芸人とのトラブルになったとされる看板や舞台の写真、新聞広告や記事などは、(おそらく)どこにも提示されていないはずです。

美空ひばりは本当にアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか。


あらためて基本情報を整理してみます。

アテネ劇場は、1946(昭和21)年9月9日、磯子区磯子町に開場した映画館です。開場式典には中村吉右衛門劇団が来演し、舞踊で柿落としをしています。

1946(昭和21)年9月8日付神奈川新聞より

昭和5年の火災保険図によれば、もともとこの地にあったのは日用品市場で、アテネ劇場は戦後、その近くで鉄工所を営んでいた長谷巌氏が(市場を買い取って?)映画館に改装したものとされています。

実は、美空ひばりの叔母にあたる西村克子さんが著書の中でこんなことを書いています。

"正子さん(註:杉山正子さん)のご両親は、戦前から磯子劇場(アテネ劇場)のそばで喫茶店を経営していました"(西村克子『愛燦燦・ひばり神話の真実』徳間書店,1993 より)

この一文を根拠のひとつとして、アテネ劇場の前身は磯子劇場であり、美空ひばりは杉田劇場より先に磯子劇場(のちのアテネ劇場)でデビューしたのだ、という話もあるようです。

しかし、昭和5年から昭和21年という戦争の時代に、市場を改造して劇場にするほどの物的・精神的余裕があったとは思えません。しかも、その頃の新聞をつぶさに調べても「磯子劇場」の開場を知らせる記事や広告を確認することができないのです。

ですから、上掲の西村克子さんの文章は、

「戦前から戦後磯子劇場(アテネ劇場)ができた場所のそばで〜」

と補足して読み解くのが正しいのではないかと思うのです。

さらには、かつてアテネ劇場でよく映画を見たという地元(芦名橋近辺)の年配者に話を聞いても、アテネ劇場のことを「磯子劇場」と呼ぶ人はいませんし、戦前に磯子劇場があったという話も耳にしません。

ただ、以前にも書いたように、アテネ劇場は昭和35年3月に「磯子映画劇場」に改称しており、その頃の明細地図には「映画館 磯子劇場」と明記されているので、昭和30年代後半以降ならば「アテネ劇場=磯子劇場」という認識はあったかもしれません。磯子劇場はアテネ劇場の前身ではなく、後身にあたるわけです。

1960(昭和35)年3月30日付神奈川新聞より

上掲の事実から、アテネ劇場は戦前からあった日用品市場を改装して、昭和21年9月に開場した映画館で、美空ひばりのアテネ劇場デビュー説は、同年4月に杉田劇場の舞台に立った証拠(ポスターや新聞広告)がある以上、完全な誤りであると再確認していいと思います。


ですが、それでも依然、本当にひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのか、という疑問は残ります。


生前に出版された美空ひばりの自伝は2つあって、最初の『虹の唄』(講談社,1957)にはこうあります。

"こうして楽団が出来てみると、私はもちろん両親もどこか人さまの見ているところで公演がしたくなりました。そこで横浜磯子町のアテネ劇場を借りることになったのです。この劇場はいまは映画館ですが、当時はおフロ屋さんを改造した、客席二百ぐらいの小さな小屋です。 ここで、私は初めて“舞台”というものに出たわけで、九つの時のこと"

なお、昭和24年度版の『全国映画館名簿』によると、アテネ劇場の座席数は324となっており、「客席二百ぐらい」とは誤差があります(この数については後編で検証します)。


もうひとつの『ひばり自伝 わたしと影』(草思社,1971)には

"昭和二十一年九月。
忘れられない月です。
この時、わたしは、同じ磯子の町にある、小さな小屋、アテネ劇場の舞台に
立ったのでした。
劇場というものに出たのは、これがはじめてです"

と記されています。

これらを根拠にしているのでしょう。公式のプロフィールなどにもある通り、昭和21年9月にアテネ劇場を3日間借りて舞台に立ったというのが、デビューをめぐる「定説」となってきたわけです。

当時はまだ新聞に三行広告(と言っていいのでしょうか)の映画情報欄がなかったので、アテネ劇場の興行の状況は劇場サイドが出稿する広告しか手がかりがありません。

ですが、その数は杉田劇場や銀星座に比べて少なく、実態を知るのはなかなか困難です。それでもその情報からアテネ劇場の興行を確認してみると

1946年
9月9日 開場式(映画興行は翌日から)
9月10日〜16日 『麗人(監督:渡辺邦男、出演:藤田進、原節子ほか/1946 東宝)
9月17日〜23日 不明
9月24日〜30日 『韋駄天街道(監督:萩原遼、出演:長谷川一夫、榎本健一ほか/1944 東宝)
※10月1日〜 『舞踏会の手帖(監督:J・デュヴィヴィエ、出演:マリー・ベルほか/1937 フランス) 

ひばりが舞台に立ったとされる9月は上記のようになります。17日から23日が不明ですが、10月1日よりフランス映画を上映していることからすると、邦画・洋画の交互上映が推測され、この期間は何らかの洋画を上映していたとも考えられます。

ただ、現状では不明な時期なので、もし仮に劇場を昼夜2公演、3日間借りるとしたら、9月17日から23日の間だろうとは推測できます。

しかし、考えてみると、これは映画館の開場から2週目です。磯子町の人々にとっては、近くに映画館ができたわけですから、開場を心待ちにしていただろうし、集客も順調だったと思われます。開場したばかりの2週目に3日間も劇場を貸し出すというのは、経営的に考えて、あり得ないのではないかというのが僕の感想です。

もっとも、長谷巌氏は鉄工所の経営者ですから、映画興行については素人で、そんな経営をしていたのだと言われればそれまでです(さらに検証を深めたいと思います)。

わずかな可能性があるとしたら、翌月のアテネ劇場の広告にある

「平日正午、日祭十時、夜は七時より」

という文言が根拠になるかもしれません。

1946(昭和21)年10月22日付讀賣新聞より

この言葉からは、当初のアテネ劇場は、現在のように、ひとつの映画を短いインターバルで連続上映するのではなく、昼夜の間に長い空き時間があったようにも見えるのです。

さらに、劇場の開場を予告する広告には

「明るいスクリーン 素的なアトラクションに御期待下さい」

の惹句が記されていることから、映画だけでなく、合間に実演を見せるのが基本の興行形態だったとも考えられます。

仮にアテネ劇場がそういうタイプの映画館だったとすると、9月の3日間をひばりと楽団に貸与するというのも、あり得ない話ではないように思えてきます。

とはいえ、いずれも確証がないのが現状で、この話もまた五里霧中になりそう、そんな気配をうっすら感じつつの年初です。

本当に美空ひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか(後編につづく)


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