(114) 文化廣場のことなど

大高よし男やその後の旧杉田劇場のことを調べていると、これまでまったく知らなかった歴史の事実に接することがあって、驚くとともにちょっとした感動も覚えます。これが、先の見えない大高調査からどうにも抜けられない原因のひとつなのでしょうね。


前にも藤村正夫の項目で少しだけ触れた「港映」こと港北映画劇場が、実演を中心とした「妙蓮寺劇場」になったのが1949(昭和24)年10月初旬。新聞広告によれば市川門三郎一座の興行で改名披露ということになっています。

1949(昭和24)年10月8日付神奈川新聞より


ところで、これより少し前、同じ年の6月下旬から突如、大口(神奈川区)の「文化廣場」なる場所における興行の広告が登場するのです。

1949(昭和24)年6月22日付神奈川新聞より

1949(昭和24)年7月12日付神奈川新聞より

大江美智子だったり淡谷のり子だったり、それなりのスターが来演しているのに、これまでこの劇場(?)の名前をまったく知らなかったのは、ひとえに勉強不足によるものとはいえ、さまざまな資料をひもといても、どこにも「文化廣場」への言及が見つからないのはどういうことなのかと、首をひねるばかりです。

(そもそも、文化廣場ってなんだ?/どなたかわかる人がいたら教えてください)


上掲、「淡谷のり子と踊るNDT」(日劇ダンシングチーム?)の広告には最下段に「四中跡」と書かれています。これが手がかりになりそうです。

調べてみると、四中とはどうやら日大四中(日本大学第四中学校:旧制)のことのようで、1930年、神奈川区大口通り127番地に開校した学校なんだとか。空襲で校舎が焼失し、戦後、1947年に港北区箕輪町(日吉)に移転して新制の日大高校・日大中学になったのだそうです。

ということは、その跡地にできた「文化廣場」の所在地もまた大口通り127番地ということになります。

追加で調べると、この番地は「大口映画劇場」と同じもので、しばしば参照させてもらっているサイト「消えた映画館の記憶」によれば大口映画は1951年に開場していますから、考えられる経緯は、1949年、日大四中の跡地にまず「文化廣場」ができ、2年後にそれが映画館となったというものです。

仮にそれが正しければ、文化廣場なる劇場(?)はわずか2年の短命だったということになります。もしくはエリア一帯を「文化廣場」と称し、その一部が映画館になったのかもしれません(東急文化村みたいに)。そのあたりはさらに追加調査したいと思います。

※よく見ると広告に「雨天順延」とか「雨天の際は」の文言があるので、もしかしたら文化廣場とは文字通りの「広場」で、一種の野外劇場だったのかもしれません。


さて、上掲広告には劇団名の書かれていない「新版四谷怪談」が予告されていますが、これはのちの広告をみると「無名座」という劇団によるもののようで、春野勇、英栄子の名前があるほか、特別出演として「森野五郎」の名前も確認できることから、戦時中、空襲前の伊勢佐木町の劇場や南吉田町の金美劇場(新進座)などで活動した役者たちが作った劇団と考えられそうです。新進座には大高一座に参加していた生島波江も所属していましたから、無名座にも生島波江がいた可能性は否定できません。

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

その後、辻堂の「湘南映画」でも同じ劇団が同じ演目を上演している広告も見つかったので、もしかしたら無名座はこの座組で県内を巡業していたのかもしれません。

1949(昭和24)年7月24日付神奈川新聞より


これらの興行がどう影響したのかはわかりませんが、8月下旬になると杉田劇場で森野五郎一座の興行がスタートします。杉田劇場の開場直後には何度か興行していた森野五郎でしたが、その後、新聞広告では名前を見ることがなくなりました。

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

もしかしたら一時休業していたのが、この時期に活動を再開したということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。いずれにしても森野五郎は1950年代初頭には映画界に復帰しているので、これが実演最後の頃の興行と言えそうです。


大口に「文化廣場」がオープンし、港映が「妙蓮寺劇場」と改称する時期は、杉田劇場や銀星座がそろそろ経営難に陥る時期と重なります。

市の中心部より南側で動き始めた戦後横浜の(実演)興行界が、中心部より北に移っていったようにも見えます。

しかし、その広がりは実演というジャンルにおいてはその後の成長は見込めず(おそらく横浜の観客は復興の進んだ東京の劇場に足を運んだのではないか)、市域の興行は、映画というジャンルに大きくシフトすることになったのだと思われます。

ちょっと大袈裟ですが、こんな小さな広告からでも、興行のダイナミズムみたいなものを感じたりするところです(だからやめられない)。


そんなこんなで、妙蓮寺や大口などの劇場事情などについて考えてみました。




→つづく
(次回は8/8更新予定)
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